飛び出すハシュ、厩務員は大いに誤解する
ハシュが厩舎に戻ると、何かとハシュを気にかけてくれる馴染みの厩務員がハシュの要望どおりの軍馬を用意し、いつでも出立できるように待機させていた。
その軍馬の色は、――栗毛色。
栗毛色はいまほどハシュが騎乗していた競走馬の黒馬と性格が同類で、気性は荒く、騎手を選ぶ。十月騎士団であつかえる文官は五指ほどいるが、誰も好んで騎手になろうとは思わない。
ただ、ハシュにとっては相性がいいようで、ハシュはこの栗毛色を気に入っている。
「――ハシュって、どうしてこんなあつかいにくい軍馬を使うの?」
以前、心底不思議に思う同期の伝書鳩がハシュに尋ねたことがある。
ハシュは一瞬、左目もとのほくろごときょとんとしてしまうが、すぐに「あはは」と笑い、
「確かに俺も手を焼くときはあるよ? でもさ、この子がそういうときって何となく世話をされている感じがするんだよね」
「世話?」
「うん」
そう言って、ハシュはどう説明しようと自身が感じている感覚の表現を考えて、
「何というか、栗毛色は矜持が高いから、きっとてきぱき動くのが好きな性格なんだと思う。だから、自分の感覚どおりに動けない相手を見ると苛立つんだろうけど、でも結局はため息ついてさ。普段は口やかましくても、何だかんだといって世話を焼いてくれる先輩のような……そんな感覚がするんだよね」
「この軍馬に?」
「まぁ、コントロールする騎手が世話をされていたんじゃダメなんだけど」
でも、何というか……。
――度量があるというか、根底の器は世話焼きというか。
そんなふうに栗毛色を理解してしまうと、何だかぶっきらぼうだけど頼もしい騎士が傍にいる。まるですこし年上の青年と一緒にいるような安堵感があって、栗毛色がいるのなら多少の無茶もどうにかなる。
ハシュにはそんなふうに、悪くはない意味で大きくいられる気がするのだ。
ハシュは待機されている栗毛色に「よろしく」と言って、その鼻先をかるく撫でる。
あとは、はらり、と舞うように飛び乗って栗毛色の背に跨ると、
「用意、ありがとうございました! ――俺、今日はもう帰りませんのでッ」
そう言って、ハシュは厩務員たちやその傍らにいた同期の伝書鳩に挨拶し、疑問を残すだけ残して、持ち前の馬術で軍馬に瞬発力を与えるなり、いつ見ても見惚れるようなその走りで厩舎を出て、そのまま十月騎士団の敷地を飛び出していった。
返す言葉もなく、見送る一同は半ば唖然とする。
午後はじめ、本来であれば五月騎士団の内務府に向かえばいいだけの行程に、皇宮の四月騎士団にまで向かう羽目になった。それを口にしていたときは頬を膨らませて、不満ばかりを話していたというのに、その皇宮から一度戻ってきたとき、ハシュの形相は一変し、明らかに気焦りに取り憑かれていた。
普段であれば、乗馬用のブーツも手袋も脱ぎ捨てるように放るなんてことはしないのだが、このあと五月騎士団に向かわなければならない気焦りだろう、書類の入った封筒を手に一目散に本庁舎に向かい、そしていま、慌ただしく戻ってきたかと思えば――まったく。
ハシュという少年は十七歳にもなって、一日中おなじ顔つきで過ごしたことがない。多彩な表情に富んでいる、と言えば聞こえもいいが、ハシュの場合はそうでないというのが周知だ。
「ハシュのやつ、いま、朝帰り宣言をして飛び出して行ったな……」
「いえ、単純に今日は帰れないとだけ言ったと思いますが」
「おなじようなもんだろ?」
「いえ、似て非、です」
軽口に仕立ててくる厩務員に、同期の伝書鳩は正しく修正する。
しかし――。
いくら上官たちにこき使われる立場の伝書鳩でも、今日のうちに戻ってこられないような鬼畜な書類取り回りに奔走させられることなどないというのに、
「ハシュ……まさか、本気で五月騎士団の後に十二月騎士団まで向かうつもりなの?」
同期の伝書鳩はいよいよ本気で訝しむ。
この工程が午前の早い段階であれば、自分も熟せない距離ではないし、途中途中の休憩も計算に入れて、どうにかこうにか今日のうちに十月騎士団の本庁舎に戻ってくることができる。
だが――これから夕暮れがはじまるというのに、それを往路だけでもしようとはさすがに無謀すぎる。自分はとてもではないが、それは依頼されたって上官に交渉し、明日に回してしまう。
なのに、ハシュは出かけてしまった……。
「だから耐久と持久力のある軍馬を……あの栗毛色を選んだのか?」
いったい、どういう計算をしてこの道のりを熟せると判断したのかはわからないが、ハシュはいつも無茶をしてでも目の前の物事をやり熟そうと懸命になりすぎてしまう。
その真面目さが信頼に足るハシュのいい面で、だから見ているこちらが心配でならないのがハシュの悪い面であった。
いまはどう考えても後者だ。
「これから夜が来るっていうのに……」
――ハシュはほんとうに、自分のことを理解しているのだろうか?
こうなったら自分も明日の非番を度返しして、いまからハシュを追いかけ、行動をともにしたほうがいいだろうか。そう思ったが、それはかなわないだろうと即座に判断し、同期の伝書鳩は頭を振る。
そもそも、ハシュが本気で全力疾走をはじめたら自分は到底追いつけない。
これからの工程はわかるものの、ハシュがその段取りどおりに動くかどうかは判然つかないし、下手に追いかけてもきっと入れちがう率のほうが高い。そうなったら最後、自分のほうが路頭に迷う羽目になる。
――こういう場合、無事を祈るだけのほうが安牌だ。
同期の伝書鳩は鼻から長い息を吐いて、腕を組む。
その一方で、傍らの厩務員はかなり異なった角度でハシュの気焦りを読み解こうとしていた。
彼はこれまで多くの伝書鳩たちを見てきたし、自身の経験も踏まえると……ハシュの気焦りはひとつしかない!
厩務員はふと「ははぁ」と何か思いついたように自身の顎に手をかけ、おもしろそうに撫でる。
「まぁ、ハシュもまだ十七歳だが、一応は騎士の号を得た文官だ。伝書鳩として皇都中を走り回っていれば、可愛い娘さんと出会う率も高くなる。――さては仕事が押して、デートの時間に間に合わなくなると焦っていると見た」
厩務員は急に色めいた発想に至り、にやにやとしてくるが、
「いえ、デートで朝帰り宣言するのはおかしいでしょ?」
――このおやじ。急に何を言い出すのかと思えば、そっち方面の推理かよ?
どうして中年は、すぐにそうやって冷やかしの発想をしたがるのだろうか。
ハシュの性格をよく知っている同期の伝書鳩は、それはないと断言する。
「あいつ、同期のなかでもそっち方面は奥手というか、嫌悪の潔癖ですよ?」
同期のよしみ。
一応ハシュの身の潔白を証明してやろうと同期の伝書鳩は擁護するが、厩務員にしてみれば「それこそ経験のない、食わず嫌いの発想だ」と言いたげに、にやり、と笑ってくる。
「何だ、お前さんもまだなのか?」
「まだって、何に対しての意味ですか?」
「そりゃあ……」
と、厩務員はこの場にハシュがいたら真っ赤になって逃げるか、それともその場で卒倒してしまいそうなことをいくつか例に挙げ、
「俺の新人時代は騎馬隊で構成される八月騎士団だったが、馬に乗れる武官とくればまぁ不自由はなかったし、あちらこちらで娘さんに声をかけられたもんさ」
「……かけた、のまちがいでしょ?」
「まあまあ。成立すりゃあ、どちらからだって変わりはないだろ?」
「成立って……」
――何が?
などと疑問に思っている間も、厩務員はかつての武勇伝を語りはじめる。
唐突に思い出話を聞かされる身になった同期の伝書鳩は心底呆れるように目を細めたが、
「それは……時効を迎えたからって安堵する、とんでもない職務怠慢の暴露ですよね」
「何、俺は要領の話をしているんだ。新人だろうが半人前だろうが、自分の立場をうまく応用すれば、二股、三股なんかもう――」
それはどういう応用だ、と同期の伝書鳩はさらに思ったが、
「体験談としては最低ですが、やり口としては興味があります。暴露の評価次第では、師匠、と呼ばせていただきますが、よろしいでしょうか?」
ハシュは真面目で素直すぎて、揶揄の対象というよりは面倒を見なければ……という世話の対象であったが、厩務員の傍らにいる伝書鳩は普段から毒を含むような物言いが耳につく少年ではあったが、それはそれで面白味があった。
現に、口では厩務員をこき下ろしてくるが、年ごろとしては興味に誘われたようだった。本人も自覚してまんまと釣られてしまったが、途端に真面目な顔をして厩務員につづきの話を乞うように覗きこんでくる。
厩務員はさらににやりと笑い、さっそく弟子入りを許可するように同期の伝書鳩の頭を撫でてくる。――しょうもない交渉が成立したようだった。
「お前さん、そういうところは可愛げがあるな。――で?」
「じつは俺、気になる子がいるんですよ。ふたり……」
「ほぉ? 本命はどっちだ?」
「――べつにいます」
「よし、その意気だ」
そんな会話がはじまってしまい、厩舎の騎馬たちもそのやりとりにいよいよ呆れる。馬房ではいずれも大きなあくびが漏れていた。
――武官であれ、文官であれ。
騎士を目指す少年たちにとって十五歳のときから二年間、剣技や武芸、学術を徹底して叩きこまれる全寮制の十二月騎士団に所属している以上、彼らは等しく異性と出会う機会は恵まれない。
皆無、と言ってもいい。
無事に少年兵を修了しても、各騎士団に配属が決まってしまえば新人騎士には本格的な鍛錬や事務作業の日々がはじまるので、それを差し置いて異性に没頭するなど、そんな余裕はとてもではないがない。
だいたい、そんな浮ついたようすを見せていれば、すぐさま上官や先輩から大目玉を食らうことになる。
所属する騎士団では敷地内に日々の暮らしの場となる官舎に入るし、生活に慣れるまでは、食事を取って部屋に戻っても疲労とあくびですぐさま横になってしまう。やっぱり出会う機会には恵まれない。
それを考えると――。
立場は伝書鳩ではあるが、上官や先輩の目を気にすることなく自由に――厳密には、彼らから与えられた過度な用件を熟すために――十月騎士団の敷地から飛び出し、各騎士団の庁舎を回るため皇都地域中を奔走するので、新人騎士のなかではいちばんに異性との出会いに恵まれる確率をハシュたち伝書鳩は持っている。
それを応用するも、悪用するも、本人の頭の回転次第になるが……。
だからといってハシュはほんとうに恋や性には潔癖なので、ハシュぐらいだろう。移動の最中も年ごろの少女たちの顔など見てもいないのは。
――だからハシュには……。
デートも、ましてや朝帰りなども、当分、到底、無理不可能だ。
一生巡ってこない、というのはさすがにかわいそうだが、それでも現時点では絶対にあり得ない。同期の伝書鳩は再度断言するのだった。




