テンパったら止まらない!「ダメったら、ダメですッ」
同期の伝書鳩がハシュの行動予測が理解できず、呆れながら困惑していたころ……。
秋はじめの風に吹かれていた暗めの橙色の髪をすっかり乱したハシュ、は手で簡単に整える暇もなく、帰庁した十月騎士団の本庁舎に向けて全力疾走をしていた。
――とにかく急がないとッ!
乗馬用のブーツを脱いで、あわてて通常用の革靴に履き替える。
手袋はいつ外しかのか、それさえわからず、ハシュは何より重要な書類だけを手にしていくつもの回廊を渡っていた。
夕暮れがはじまろうとしている。黄金色というよりは、この時期特有の黄昏色に染まりはじめた中庭を見てぎょっとする。陽は西の空にかたむいていたが、その色合いは神々しくて美しかった。伸びる雲は薄く、陽光を遮るには至らなかったので、まだ大丈夫だと思っていたのに……。
中庭の木々の奥、日陰となる部分はもうかなりの暗さを帯びている。
夜が、近づいてきている――。
「ああ、どうしよう……ッ」
皇宮からの帰路の途中までは、ハシュはまだ自分の身に降りかかった災難に腹を立てることで意識も正常だったが――たぶん――、次第に自分に災難災厄を注いだ四月騎士団団長のロワの顔を独特の笑い声で脳裏がいっぱいになってしまい、「早くどうにかしなければ!」と脳内がパニックを起こしていた。
――手にするのは、書類がわずかに数枚入っているかどうかの薄い封筒が二通。
はじめて訪れる皇宮、その皇宮内に所在する四月騎士団の庁舎で欲しかったのはこれだけだというのに、
――なぜ、余計な重責を背負わされてしまったのだろうッ!
夕暮れ近くなってきた十月騎士団の本庁舎内は、これまで各部署で書類整理に追われていた文官たちが仕上げた書類を手に右往左往とし、その上官たちが必要とする書類を皇都地域に配されている各騎士団の庁舎から受け取ってきた伝達係の伝書鳩がハシュとおなじように帰庁し、それぞれの部署に届けようと右往左往としていた。
――今日の作業は今日のうちに。
――それをやり残してしまうと、明日の仕事を円滑に進めることができない。
――自分で自分の首を絞めるな、さあ、仕事は今日のうちに終わらせろ!
それがほとんどモットーである十月騎士団の文官にとって、「残りは明日」という甘えは存在しない。
「――あ、ハシュ。きみも帰ってきたんだ」
書類を手に慌ただしいようすはお互いさま。
けれどもハシュを見つけた同期の伝書鳩が「おかえり」と声をかけるものの、ハシュが返す言葉は、
「ダメッ」
の、ひと言。
そのまま勢いよくすれちがってしまったので、ハシュがどんな表情をしていたのかはよくわからない。
伝書鳩は唖然としながら、小さな姿となっていくハシュの後ろ姿を見やる。
ハシュは慌ただしくなってくると周囲が見えなくなっていく。それは同期としての付き合いでよくわかっているが、――にしても、だ。
「ダメって、何が――?」
□ □
毎日、毎日。
日々、終業時間ぎりぎりまで慌ただしさがつづく十月騎士団のようすに慣れてしまうと、この光景が当たり前で、皇宮内で見た四月騎士団の庁舎内の静けさはとてもではないがおなじ文官の騎士団とは思えないし、粛々とした空気感にはやっぱり慄然としてしまう。
無論、それは背負う業務があまりにも異なるため、日常の空気感に隔たりもあるのは仕方がないのかもしれないが、これはこれで嫌いな空気感ではなかった。
業務は忙しいし、上官は人使いが荒い。
書類は魑魅魍魎のように跋扈するし、上官たちがどんなに書類を捌いて退治しようと、明日には新たに裁可押印を求める書類が魑魅魍魎となって跋扈する。
でも――何となく人間味というものがあって、所作がスマートな騎士団には憧れるが、ハシュには案外このドタバタが性に合っているのかもしれない。
――それは後日振り返る感想であって、いまではない。
いまはとにかく、それどこではないのだから――。
赤煉瓦造りの本庁舎をはじめとする十月騎士団の敷地内の建物は、どんどん西へとかたむく黄昏色の日差しを受けて幻想的な風合いを見せていたが、建物内の陰影はすでにはっきりとしていて、影となる部分、陽の向きとは逆の廊下や部屋にはそろそろ灯りが欲しい、そんな薄暗さが広がっている。
トゥブアン皇国に四季があるが、それは暦をほぼ等間隔にした訪れではなく、とくに皇都地域は夏が短く、秋が長い。
秋は黄葉から紅葉へと葉の色付きがゆっくりと長くつづくので、風景としては美しいのだが……。
ハシュは静かに夜の色に向かって染まる薄暗さを極力見ないようにして、伝達係の伝書鳩が受け渡しで預かってきた書類を最初に提出する部屋へと飛び込む。
ここは日中の日差しの方向に大きな窓があるので、まだまだ明るい。
そして、何よりにぎやかだった。
思いのほか自身にも脚力があったので、厩舎から全力疾走してきたハシュの息はすっかり上がっていた。額から滴ろうとしている汗を袖で拭いながら、ハシュは声を上げる。
「お待たせしました! 四月騎士団からの書類をお持ちしました!」
「――何だ、ハシュ。まだ五月騎士団の内務府に行っていなかったのか?」
「ダメですッ」
「ハシュ、そういえば内務府の警備局のところなんだが」
「ダメですッ」
「すまない、ハシュ。内務府に持っていける書類が仕上がったんだ。ついでにこいつも届けてもらえないだろうか?」
「ダメったら、ダメですッ」
「いや、届け先は一緒だぞ?」
「ダメですッ!」
――今日はもう、「ついで」になんか聞きたくもない!
――これ以上、余計な足どりを増やさないでッ!
ハシュの姿を見るなり上官たちが声をかけてくるが、ハシュはとにかくそれを拒絶。
自分がいま、どれだけ忙しくて必死なのか。
見てわからないのだろうかッ!
――もうダメッ、もうダメッ!
これ以上物事が増えてしまうと、どこから手をつけたらいいのかわからなくなる。
とにかく今日は、このあとすぐに五月騎士団の敷地にある内務府の庁舎にすっ飛んでいって書類を受け取り、そのまま十二月騎士団を訪ねて教免の長である学長に心底詫びを入れながら事と次第を話して、明日の朝には四月騎士団の庁舎に向かってもらうとして……。
それから。
それから……。
きっと今日は帰れない。
十月騎士団の敷地内にある官舎の一室、現在ハシュが寝起きしている部屋に戻るなんて到底無理だ。
帰れないのであれば、明日、朝を迎えるまでどこでうずくまっていればいいのだろう……?
「上官ッ、クレイドルっていう方をご存じですかッ?」
「クレイドル?」
ハシュが弾みをつけて上官のひとりに尋ねると、上官は一瞬だけ怪訝そうに眉根を寄せたが、
「誰だ、それは?」
「ですよねッ!」
心のどこかでは「ああ、どこそこのあいつのことか?」などという、多少曖昧でもかまわないので心当たりがないわけでもない、そんな返答を期待したが、十月騎士団でもこの反応だ。自分で尋ねておきながら、ハシュはばっさりと会話を切る。
これではほかの上官に尋ねたところで、ハシュの望む返答は返ってこないだろう。むしろ、尋ね回っていたら、さらなる「ついで」を頼まれる危険性が出てくる。冗談ではない。
ハシュにはもう時間がないのだから、これ以上余計なことは聞きたくもない。
ハシュは足早に最初の部屋を出る。
それにしても――。
――クレイドル。
けっして珍しいと思える名前ではないというのに、どうして誰も彼もがこの名に心当たりがないのだろう?
ハシュはいまになって脳裏を全開に動かして、自分にこそこの名に覚えはないのかと問うてみる。
すると、同期全体で片指の半分ほどこの名を持つ者がいた……気がする。
おなじクラスで、ひとり。
だが、友人と呼べるほど親しくはなく、残りも何となく顔と名前は一致するが、声をかけ合うほどの仲ではなかった。いずれも武官の騎士団に採用されたと思われるが、記憶はそのていど。
ひょっとすると、彼らに該当者はいないだろうか。
ハシュは吟味してみるが、そもそもハシュたち同期は武官、文官の新人騎士として発ってまだ三ヵ月。ハシュは伝書鳩として方々を奔走しているから他の騎士団や年齢層も関係なしに見知りも増えたが、普通は直截の上官や年の近い先輩、所属する騎士団内でようやく存在を覚えられてきたていどだ。
皇宮内の騎士団を総括する皇宮諸事の一切を取り仕切る四月騎士団団長に目をつけられるなど、まずはあり得ない。
しかもハシュが知る同期は武官なので、接点の確率は万が一よりも低い。
だとしたら――。
ハシュにとっての頼みの綱は、これから訪ねることになる五月騎士団での聞き込みになるだろう。あそこは国府。国政の中枢なのだし、文官の騎士団のなかでは最大の人数を有している。
ぴたりと言い当てることができずとも、知らないと言って首をかしげる者もいないはず。
だったら早く、五月騎士団に向かわなくては……。
ハシュの工程で有力な手がかりを持つ場所は、今日はもうここしかない。
どんなに小さな事柄でもいいので、自分に安心できる何かを得ないと、ハシュの脳裏はあの七三黒縁眼鏡鬼畜の不敵な笑い声でいっぱいになり、完全に侵食されてしまう。
――ああ……。
――何で俺、さっきから急にあの人の顔しか思い浮かべていないんだろう?
初見であれだけの印象があったのだ。
きっと七三黒縁眼鏡鬼畜そのものが怖いのかもしれないし、売られた喧嘩だと思って熟してやろうと心中の奥底で勇んでいるのかもしれないし、それで熟すことができなかったらどうしようと思うと、やっぱり怖いのかもしれない。
どれが自分の本音なのかは自身でも判然としないが、とにかくあの顔が浮かぶたびにハシュの気焦りは強まる。
「おお、ハシュ。戻ってきたか」
「ダメったら、ダメッ! ダメですッ!」
自分に対して声をかけられると、ハシュはもう内容云々、条件反射で拒絶の言葉しか返せない。
あまりの気迫に上官は一瞬たじろぐが、
「いや……、奥さんが菓子を作ってくれたんだ。たくさんあるから、あげようと思っただけで」
「だから! もうダメ……じゃないッ、失礼しました、ありがたくいただきます!」
「あ、ああ。――ハシュの好きなナッツ菓子だ。食べなさい」
「はいッ」
差し出され、受け取ったのは、手のひらほどの大きさに包まれた菓子だった。質量からすると覚えのある菓子のように思われたが、いまは「何だろう?」と心を弾ませる余裕もない。
形状も崩れも気にせずに、ハシュはやや乱暴にスラックスのポケットにそれを押し込める。
ハシュは本来、不平不満はうっかり口にする方だったが、押しや圧しに弱いタイプだった。
それはハシュ本人も周囲も認識している。
だからといって、それにかこつけて用件を頼むわけではないのだが、ハシュは何だかんだといって熟してしまうので、つい口が頼みごとを発してしまうのだ。ハシュにとっては悪い意味で、上官たちはきちんとハシュを評価している。
――何があったのかは知らないが、ハシュが拒絶一方を口にするとは……。
ハシュの身に何が起こったのか。
まだ何も知らない上官たちが不思議そうに顔を見合わせていると、それがさも平和に見えて、ハシュは「人の気も知らないで」と完全に苛立ってしまう。
ついにはギリっと上官たちを睨みつけてしまった。
ハシュもハシュで、数時間前に上官に叱咤された脳みそを臓器以上に酷使して最終手段へと出る。
「上官ッ! 五月騎士団内務府からお預かりする書類は、どうしても今日、手にしなければならない火急の用件なのでしょうかッ?」
「い……いや、必要なのは明日だが。でもハシュ、お前は明日非番だろう?」
だから、今日のうちに書類を取りに行ってほしいと頼んだのだが……と上官が言葉をつづけると、
「一寸先も見えない状況で、明日なんか語れませんッ! もう非番なんかどうでもいいので、今日は書類を受け取りに五月騎士団まで行きますが、提出は明日にさせていただきます!」
「いや、休みはきちんと取りなさい。そのぶん、今日は無理をさせてすまないと思うが」
「いいです、そんなお気遣い! まずは明日の提出許可をいただきまして、ありがとうございますッ」
「……」
――いや、語ったのは必要の都合だけで、明日提出の許可をした覚えはないぞ?
上官は思ったが、どうにも先ほどからハシュのようすがおかしい。
確かにいまからハシュに五月騎士団の内務府まで書類を取りに行かせるが、ハシュが戻ってきて受け取るころには本日はもう終業時間だ。書類精査と作業は明日するつもりなので、明日の午前に書類が手もとにあればそれでいい。
それでもハシュに無理をさせるのは、ハシュが明日非番だからという理由だけで、心底無理をさせるつもりはない。
いままでハシュが、こんなふうに口ごたえをしたことはない――。
口ぶりからして明日まで時間を欲しがっているようだが、何をまた突然、そのようなことをいうのだろうか。
「どうした、ハシュ。何があった?」
できるだけ刺激しないよう上官は宥めるように問うてくるが、ハシュはついに爆発してしまう。
「もうッ、ついでばかりのせいで、俺! 今日は帰れなくなりましたッ」
「帰れない? 五月騎士団までの往復なら、まだ帰れるだろう?」
「帰れないんですッ!」
ハシュの感情はもう、自分で制御することも困難だった。
意固地のように拒絶ばかりを口にするハシュに、上官たちはいよいよ怪訝がる。
上官たちは立場上、ハシュたち伝書鳩の行動工程を正確に把握しておきたかったのだが、すぐさまそれを後悔する羽目になる。
「俺ッ、四月騎士団団長からいろいろ頼まれてしまったので、もうダメなんです!」
「――は?」
「は、じゃないですよ! あの七三黒縁眼鏡鬼畜! ご存じないんですかッ」
「――ッ」
これには上官たちも驚嘆する。
まさか、ハシュが想定外の人物の名を口にするとは!
天下の宝刀の一直線抜きのように、雷光一撃のようにハシュがとんでもない人物の名を口にするので、周囲は一斉に顔の色を失った。
確かにハシュには皇宮までの使いで、四月騎士団の庁舎から書類を受け取ってくるようにと頼んだ。――頼んだのは書類だけだというのに……。
「し、四月騎士団団長だと……ッ?」
「しかも、ロワ団長から直々ッ?」
「ハシュッ! いったい、あのお方に何の失礼をしたんだッ!」
「それよりもハシュ、そんな奇妙なあだ名をつけるもんじゃない!」
通常であれば、皇宮への使いも初めてである新人の伝書鳩が「彼」に目通りするなどあり得ない。どういう経緯でそうなったのかは知らないが、よりにもよって「彼」に目をつけられて戻ってくるとは!
上官たちの動揺は尋常ではなかった。
それだけでも充分に四月騎士団団長に対する心理的恐怖は伝わってきた。
今度は逆に、ハシュが唖然としてしまう。
しかもここは他騎士団で、文官とはいえ、現場叩き上げの上官たちだってその精神はか細くない。その上官たちさえも震え上がらせてしまうなんて!
いったい、どれほどの器の差、格のちがいがあるのだろう?
ハシュが自分を気焦りさせる黒幕を暴露した途端、上官たちはもうハシュに何かを頼もうとする声をかけなくなった。
それどころか「何をしでかしたッ」と、ハシュが失礼をした前提で尋ねてくるものだから、ハシュの苛立ちはもう止まらない。
「もうッ! そんなの、俺が知りたいですよッ」
ハシュは両の手に握った拳を震わせて、ほとんど半泣き状態で叫んでしまう。
――ああ……あの人って、ほんとうにヤバい人なんだ……。




