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ハシュのやつ、これから出るんですか?

 時計の針を見やれば夕暮れにはまだ早いと思われたが、うっかり夏季節の感覚で行動を逆算していると、例えば、たかが三十分だけでもその読みは大誤算へとつながり、とんでもない目に遭ってしまう。


 ――午後も三時近く。


 ほんの数週間前まではまだ日差しの高い夏の空や色、隆々に盛り上がる雲の一団たちを遠景に見やることもあったが、おなじ時刻のいま、日差しの傾きには角度がついて影も伸び、世界は陽の薄い黄金色に照らされてどこか切ない黄昏色が染みこんでいるようにも見えていた。

 とくにこの時間帯になると風向きも変わるので、心地のいい風から涼しさを感じるようになって、もうじき夕方かな、と肌感覚でもわかるようになるので、そのときに西の空を染めはじめている黄金色を見やるとなお風情を感じる。

 草むらからは涼やかな虫の音が聞こえて……。

 何もなければ、こんふうに情緒を感じて夕暮れ近い時間も楽しめるのだが……――。



□ □



 ――十月騎士団の厩舎に、一頭の騎馬が戻ってきた。


 騎乗していたのは、ハシュとおなじ新人文官の伝達係の伝書鳩。

 彼もまた上官の指示で書類を受け取り、目的の騎士団まで手渡すために朝から奔走していたが、夕暮れがはじまる時間にはこうして厩舎に戻れるよう、ちゃんと計算して動いている。

 就労の終業時間までは時間もまだあるが、さっさと上官に書類を渡して、ちょっとだけひと息つくために食堂に寄って何かを飲んで……。


「はあぁ……」


 伝書鳩は大きく両手を上げて、思いきり伸びる。


「まぁったく、伝書鳩を見ればすぐに()()()を頼むのは、どこの騎士団も一緒なんだから」


 伸びて、伸びて、伸びて。

 背筋を思いきり伸ばして、ハシュよりわずかに背丈のある伝書鳩はぼやく。

 ぼやいた後は気が抜けて、「ふあぁ……」とあくびが漏れてしまった。

 伝書鳩の業務は基本的に「決断の長」を団長とする十月騎士団の、その裁可の押印を必要とする書類の受け渡し。他の騎士団同士のやりとりにあまり関与はしないのだが、十月騎士団のように伝令や書類の受け渡しに特化した伝達係の伝書鳩は伝達経路の統制で、他の騎士団には存在しないのだ。

 なので、簡単な伝令や他の騎士団同士の書類の行き交いくらいなら、彼らにだって厩舎はあるのだから適当に人を使いに出せばいいのにと思うのだが、結局は十月騎士団が最終的に関与するため、まわりまわって自分に返ってくる。「ついで」は結局、まったくの他人事でもない。

 とはいえ……。

 伝書鳩は、これに関しての機動力がある。

 皇都地域にある全十二騎士団の敷地や庁舎に赴くのが仕事なので、つい「ついで」を頼まれやすい習性をしている。

 一度これにうなずいてしまうと、


 ――あの子なら、何だかんだと頼まれてくれるぞ。


 と、余計な情報が付随して、今度は断りにくくなってしまうから厄介極まりない。

 それには気をつけろよと、この伝書鳩は研修で面倒を見てくれた先輩にいちばん重要なアドバイスを受けたので、それをのらりくらりとうまく、頑なに実行している。

 いまも剣技の六月騎士団の庁舎から戻ってきたのだが、ここで危うく騎馬隊で構成される八月騎士団の庁舎まで「ついで」を頼まれそうになって、伝書鳩はどうにか回避。

 無論、重要だとか火急だとか言われてしまえば仕方もないが、これにうなずいたら最後、今日の帰りはきっと陽は落ちていただろう。


「これがハシュだったら、きっと……」


 何だかんだとうなずいてしまい、余計な用件のほうを重くつけてげっそりとして帰ってくるにちがいない。


「ハシュって、きっぱり言うわりには圧しに弱いもんなぁ」


 せっかく前にコツを教えてやったというのに、「頼む」とか「お願い」とか言われるとハシュは背を向けることができない。

 いつもため息をついて、げんなりとしながらふり返ってしまうのだ。

 そんなハシュを見ると、どうしたら要領を学ばせることができるんだろう、とついつい心配げになってしまう。


 ――この時期から数年ほどかけて、月は「蒼月(そうげつ)」に入る。


 蒼月といっても月そのものに大きな変容はないのだが、特徴があるとすれば通常の月の色合いが「白銀」に対して、この周期の月は「蒼く」見える。

 加えて、通常の大きさよりも遥かに上回るように見えるので、これからの時期の夜空はいつ見ても幻想的で美しい。天文学に興味があれば、しばらく夜空を眺めっぱなしで過ごすだろう。

 一般的にはこのていど。

 強いて利点を上げるのであれば、夜の訪れが早くなるこれからの季節、大きな蒼月が齎す明かりのおかげで多少は夜道になっても騎馬を歩かせながら帰路につくことができる――それくらいだろうか。


 ――だからといって、伝書鳩に日暮れが過ぎても働けと言うのは酷というもの。


 これが武官の騎士であれば、手に松明、あるいは持ち手付きの角灯――ランタンでも用いて夜道をさらに照らしながら騎馬を進めることもできるが、文官の騎士にはそれが禁じられている。

 とくに国事、国政、軍事の書類伝達をあつかう新人文官の伝書鳩たちに火器を手にして騎乗するのは厳禁とされている。

 なので、伝書鳩たちの就労時間もおのずと季節の日の入りに左右されるので、庁舎内に籠って書類と格闘していると上官たちは「つい」それを忘れがちになり、時計で見やる勤務時間いっぱいまで「ついでに」と言って、伝書鳩たちの移動距離を伸ばしてしまいから厄介にもほどがある。

 いま戻ってきた伝書鳩は、その点要領がいいので、余計な足どりを使わないコツを掴むのがうまく、段取りも上手だった。

 その伝書鳩が戻ってきたとき、


「あれ……?」


 と、ひとつの疑問が浮かんだ。

 この時間の厩舎といえば、同期の伝書鳩たちが奔走を終えて、つぎからつぎへと帰庁してくるころだというのに、そのうちの一頭の騎馬が馬具を外されているのではなく、装着されているのが目についたからだ。

 見れば、馬種類は軍馬。

 これからその軍馬に騎乗するのだとしたら、騎手はあるていどの距離を移動することが必要になると読み取ることができる。


 ――でも、こんな時間から誰が?


 疑問はさらに浮かぶが、よくよく見ると、厩舎の厩務員が装着した馬具の確認を行っている軍馬は栗毛色!

 あの栗毛色は、自身に騎乗する騎手を選ぶことで有名だ。

 この厩舎のなかでもっとも手を焼く競走馬の黒馬とおなじように、騎馬隊で構成される八月騎士団に所属していた現役のころ、その気性の荒さで長く実用的な軍馬として活躍するには困難と判断され、文官の騎士団に下された。

 栗毛色も黒馬と同様、老齢引退したわけではない若さがまだ充分にあるので、矜持が高く、気に入らなければ平気で騎手を振り落とそうとする。

 そういったときは思いきり厩務員に尻を引っ叩かれて、渋々言うことを聞くこともあるが――すくなくとも、いま帰還した伝書鳩にはあつかえない。こちらだって選びたくもないし、どうもいけ好かない。

 その伝書鳩が知るかぎり、あの栗毛色を御することができるのは、この十月騎士団でも五指もいればいいほうだ。


 ――しかも、これからの時間に乗る必要がある騎手はさらにかぎられる。


 栗毛色の軍馬を見て、咄嗟に浮かんだのがひとり。


「まさかハシュのやつ、これから出るつもりなのか?」


 この時間から移動を余儀なくされるというのであれば……五月騎士団だろうか?

 距離からいえばそこが妥当だが、だからといって全力疾走の往復をしなければ十月騎士団への帰庁のころにはすっかり陽が落ちている。

 その言葉だけで済むのであれば、ハシュの馬術なら可能だろうと同期の伝書鳩も納得するが、でも……。


 ――これからハシュに走らせるなんて……。


 陽が暮れてしまったらハシュは動けない。

 灯りが云々、騎馬の動きが云々、視界不良が云々、そうではない。


 ――ハシュに夜は駄目だというのにッ。


 日ごろから上官には口酸っぱく伝えているというのに、彼らはすぐにそれを忘れてしまう。

 ハシュも、ハシュだ。

 自分がそうだとわかっているのに、結局は圧しの弱さに屈するそれが仇となって、寸前まで奔走させられてしまう。それで後で泣く羽目になるのだから、


「まったく、もう……」


 そろそろ同期の伝書鳩全員でハシュを囲み、上官に対して「ついで」の断り方をうまく言えるようきつく指導しないと、と同期はやれやれと思う。

 ハシュは日ごろから明るく元気があって、まだ子どもっぽく起伏もあるが、友だち甲斐のある少年だ。けっしてドジ属性ではないのだが、こちらが何かと気にかけていないととんでもない目に遭う属性なので、心配はとにかく尽きない。

 もう、ここにはいちばんの効き目役がいないというのに――。

 そんなふうに思いながら、下馬しながら厩舎に戻ってきた伝書鳩は厩務員たちに「戻りました」と声をかける。


「おお、今日も一日ご苦労さん」


 彼らは伝書鳩に向かい労いの言葉をかけ、手にする手綱を交代する。

 伝書鳩と奔走してきた騎馬たちは、厩舎に落ち着いて戻る前にかるく動き納めのできる簡単な馬場へと連れて行かれ、そこで自身が落ち着くまでを過ごしている。

 その馬場には一頭、すでに戻ってきている騎馬がいて、呼吸を整えるように歩いているようすが目についた。はて、と思えたのは、それが十月騎士団随一の脚の速さを持つ競走馬の黒馬だったからだ。

 黒馬の息づかいは、まだどこか荒い。

 馬種類が競走馬なので、全力疾走させられたのだろうと容易に想像もつくが、


 ――でも、黒馬って……。


 見た目は見事な毛艶で優美極まりないが、あれこそ気性の荒さが一匹狼系の黒衣の騎士のようで、他人を容易には近づけさせない。

 あれは人を選ぶどころではない。

 この十月騎士団ではもう、ハシュくらいしか御せる騎手はいないのだ。


 ――すでにハシュ専用の騎馬と言っても過言ではない。


「ハシュ――戻ってきたのに、また出かけるんですか?」


 戻ってきたと言いきれるのは、ハシュしか御せない黒馬の息が荒いこと。

 加えて、厩舎のなかではほとんど脱ぎ捨てられたような馬術用のブーツや手袋があって、それを「やれやれ」と呆れながら拾っている厩務員の姿が目についたからだ。

 少年兵時代、それは馬術の時間でもっともガミガミと教官たちに言われてきた躾だというのに、それをもう散らかすとは……。

 いつでも出立できるように用意されている軍馬の栗毛色を見やりながら声をかけると、ハシュの投げ捨てたブーツや手袋を拾う厩務員とはべつの厩務員がうなずき、


「ああ、いまほど四月騎士団から戻ってきてな」

「四月騎士団ッ? ハシュ、皇宮に行けるようになったんですかッ?」


 皇宮に所属する騎士団名を聞いて、伝書鳩はおどろく。

 あそこは規律が厳しい。いくらこき使われ放題の伝書鳩とはいえ、たかが三ヵ月の新人文官がご用向きで日ごろとおなじように訪ねられる場所ではない。

 それを任されるということは、よほどの急ぎを頼まれ、戻ってきたのだろうか?

 ならば、馬場で呼吸を落ち着かせている黒馬の意味も分かるが、


「いまは書類を届けに本庁舎にすっ飛んでいったが、このあとは五月騎士団に行って、そのあと十二月騎士団まで向かう羽目になったと言っていたな」

「はぁ? もう夕暮れがはじまりますよ?」


 ――なのに、これから五月騎士団?

 ――そのまま十二月騎士団?


 ハシュのこれからの工程を聞いて、伝書鳩はほとんど驚愕する。


「何で十二月騎士団に行かなきゃならないんですか? だって、あそこは……」


 少年兵で構成された、いわば寄宿学校のようなものだ。

 今期の修了生は――つまり、ハシュたち同期――すでに新人騎士として配属が決まった正式な騎士団に従事しているので、来期の修了生に関してスカウト込みで多くの騎士団がそわそわとするのはまだ先のことであるし、そもそもよほどの用件がないかぎり、十月騎士団の伝書鳩が向かうような騎士団ではないのだ。十二月騎士団とは。

 なのに、いったい誰に何の用件を頼まれたのだか……。

 驚愕の後、今度は呆れたような顔つきになってしまうと、


「何をしでかしたのかは知らないが、学長に謝りに行かないと……と言って、半べそを掻いていたぞ」

「べそ……」


 それは久しぶりに聞いた稚拙な表現だったが、ハシュが絡むとどうも適切な表現のようにも聞こえてしまうから不思議だ。

 伝書鳩は目をぱちくりとさせてしまう。

 学長といえば十二月騎士団のなかでは団長に次ぐ、まさに文字どおり次団長のような存在で、武芸の教官や学術の教師たち教免所持の師をまとめる「教免の長」とも呼ばれている。

 少年兵の時代であれば謝りに行く用もあっただろうが、もうハシュだって無関係の文官だ。

 いまになって、何を謝りに行くというのだろう?

 しかも、五月騎士団の後で?


 ――それはどうしても今日のうちでなければならないのだろうか?


 多分……単純計算をしても、五月騎士団までの道のりはぎりぎり日没前には到着できるだろうが、そこから十二月騎士団に向かうことにはとっくに夜だ。

 夜、唯一の明かりとなる蒼月も、この時期なら東の空から昇りはじめているだろうが、それでも世界は西も東も濃い藍色の夜空に染みている。

 ハシュに夜は無理だというのに!

 ハシュは自分で自分のことを、ほんとうにわかっているのだろうか?

 これは一度説教だな、と伝書鳩が心底呆れると、


「あと……人探しがどうのこうのと騒いでいたな」

「……何、それ」


 ――ハシュのやつ、いったい何をしでかしたんだ?


 何というか、ハシュに関してはまともな構築論では把握ができない。

 謝って?

 人探し?

 それはどう考えても伝書鳩の仕事ではない気がする。


「ちぇ、ハシュのやつ……」


 明日、自分は非番で、たしかハシュも非番だったと記憶していたので、互いに伝書鳩の疲労を忘れて、気分転換に皇都のにぎわう街に出て、何か美味しいものでも耐えて息抜きしようと誘おうと思っていたのに。

 誘うのは簡単だし、ハシュもきっと同意するだろうから、伝書鳩はすでに美味しそうな店のいくつかに目星をつけている。

 だが、しかし――。

 これだけの工程の末、ハシュは帰ってこられるのだろうか?

 いや、無理だろう。

 どう予測しても五月騎士団を出るころの夜の世界に尻込みして、今日は一晩そこで泊まる羽目になるかもしれないし、だとすれば明日、自分の非番を犠牲にしてハシュは十二月騎士団に向かうだろうから、ハシュを誘って出かける計画は白紙にするしかない。


 ――ま、出歩くのはいつでもできるからな。


 この騒ぎの顛末は後日じっくり聞くとして、伝書鳩はそれ以上何かを考えることを止めにした。ハシュはいつだって想像の斜め上を行くので、考えるそのものに意味がなくなるのだ。

 この考えの切り替えの速さが、ハシュにはない、彼の要領のよさでもあった。

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