じつはハシュ、秘かに有名だったりします
「――この子、先ほどの伝書鳩だろ? いったい何が……」
書類を受け取るのが目的の、十月騎士団の新人文官……伝書鳩が訪ねた先は四月騎士団の庁舎。
行きははじめての皇宮ということもあって緊張のようすはあったが、足どりそのものに不安はなかった。なのに、抱えられて戻るとは。
ひょっとするとうっかり足を滑らせて転び、足を痛めてしまったのだろか?
そんな心配を滲ませる尋ねに対し、
「ええ、心をぐさりとやられましてね」
などと、ハシュを抱く衛兵は揶揄で返さなかったが、
「経緯はわかりませんが、初見でロワ団長と直截対面したようで――」
「……なるほど」
衛兵はそれだけしか語らなかったが、周囲の衛兵には充分に理解できたようだった。
あの四月騎士団団長執務室に出入りした者の末路は、総じて哀れの一途。それが通説となるほど被害は計り知れない。つまり――この伝書鳩も立って歩けないほどのショックを受けたのだろう。あの方が相手では仕方もない、と。
誰もが心底同情めいたため息をついてくる。
一方のハシュは、それで罷り通る四月騎士団団長の人となりに改めて肌をぶるりと粟立たせしまう。
――皆さんッ、何でそこで腑に落ちるんですかッ?
そんな人がこのトゥブアン皇国の唯一皇帝の御座所である皇宮の統括者でいいのかッ、と心中で叫んでしまったが、同時に、
――ちょっと待って?
先ほどから衛兵に横抱きにされたままのハシュを見て、後者こそ四月騎士団団長が絡んでは仕方もないと理解されたのはいいが、前者は何だ?
自分は簡単に転んで怪我でもしそうだと思われるほど、見た目のイメージがドジかそそっかしいかに思われるのだろうか?
自分で自分に対する被害妄想の揶揄であればそれもかまわないが、まさか実際に周囲がそんな目で見ていたとは……。
これこそ由々しきッ!
――俺、そこまでドジじゃありませんからッ。
これはどこかで身の潔白を証明せねば! とハシュは拳を握って震わせる。
その間、衛兵たちは視線でやりとりし、ハシュが皇宮まで騎乗してきた騎馬を待機場から連れてこようとひとりが足を向けた。
ハシュの知っているかぎり、武官、文官に関わらず来訪者が騎乗してきた騎馬を預かる待機場は騎士団敷地すぐのところにあるのだが、やはり皇宮は目につくところにそれはなかった。
思えば、気性と反する皇宮に苦手意識を持ったハシュが騎乗してきた競走馬の黒馬は、ちゃんと大人しくできているだろうか。
待っている間、ハシュもようやく優美な衛兵の腕のなかから解放されて、久方ぶりに自分の足で地面に立つことを許された。衛兵がまだ心配げに腕を伸ばしているなか、ハシュは自身の平衡感覚や立ちくらみの是非を確認し、大丈夫だと伝える。
まだどこか頭が重いような感覚もあるが、きっとそれは心配を抱えている証であって、不安を払拭するためにとにかく行動に移したほうが脳内もシャキッと戻るかもしれない。
大丈夫でないのは、クレイドル探し、それだけだ――。
だが、心理的ショックと急な貧血で意識を失って倒れた事実が邪魔をして、衛兵が渋り、なかなかハシュをひとり立ちさせてくれない。
ハシュのやや暗めの橙色の髪は短いほうだというのに、その前髪を整えるように衛兵が白い手袋をはめていた指先で触れながら、
「ハシュ、強がって無理をしては駄目だよ。――帰りは万が一の落馬の危険もある。私は皇宮から離れられないけど、誰かを護衛としてつけようか?」
「へッ?」
などと尋ねてくる。
衛兵はすっかりハシュを贔屓にしているようすだった。
これは身に余る光栄だが、ハシュは伝書鳩だ。これ以上の配慮は過ぎた領分。
しかも相手は、トゥブアン皇国に十二ある騎士団でもっとも花形と謳われる一月騎士団!
その武官を侍らせて十月騎士団に戻りでもしたら、ハシュは確実に上官から容赦のない落雷を受けるだろう。
――書類の受け取りご苦労、……だが!
――誰が皇宮で遊んでこいと言ったッ!
きっと、こうだ。こうにちがいない。
こちらの事情も知らない上官の怒鳴り声がいまにも聞こえそうだ。
ハシュは、ぞぞぞ、としながら、
「とんでもないですッ、ご配慮いただけるだけで充分ですから!」
「でも――」
「大丈夫です、俺はすでに二度ほど落馬の経験をしているので、そこはどうにかなります」
無論、落馬の経験は人生はじめての乗馬体験からはじまった少年兵を育成する十二月騎士団での話で、それ以外でのことはない。
何が悪くて落馬する羽目になるのか。口ではうまく説明できないが、肌感覚とでもいうのか、ハシュは何となく理解している。
なので「大丈夫です」と真面目に自信を持って答えるハシュに周囲は面喰い、一瞬目を点にしてしまう。――どうにかとは、いったい?
それに……。
ハシュには騎馬にしがみついてでも行かなければならない場所がある。
「俺、これから五月騎士団と十二月騎士団に向かわなくてはならないので、これくらいでへこたれているわけにもいかないんです」
「五月……?」
「そのあとに、十二月騎士団まで向かうのかい?」
「念のために聞くけど――、それは今日これからの予定なのか?」
「はい」
「……」
周囲は、ハシュがさらりと口にする今後の工程にそれこそ目を丸くしてしまう。
午後を過ぎたいま、現役の武官である衛兵たちでもこれから五月騎士団を訪ね、そのあと十二月騎士団に向かえと言われたら、顔に出さずとも快くは承諾できない。
最大の理由はその距離間だ。ここ皇宮を起点に考えても五月騎士団までの道のりは騎馬を全力疾走させても一時間はかかるし、ましてや離れた十二月騎士団ともなると二時間はかかる。
――無論、この数字は片道の時間だ。
その片道だけで済むのであれば、まだ陽のあるうちの視界が効くなかで動くのは可能だが、いまは秋を迎えて日の入りも早くなってきている。
とくに森林と平原をくり返すような道のりの十二月騎士団を目指すのは、日が暮れてしまうと現役の武官でも容易ではない。周囲に灯りなどないし、道中、無理をさせて走らせる騎馬には幾度か休みを与えなければならない。実際は思いのほか時間がかかる。
――だいたい、十二月騎士団はわかりやすく言えば全寮制の学校だ。
二年間の厳しい修練に励む少年兵と、それを指導する教師陣たち。あとは日常の生活を支えている家政従事者たちで構成されているので、平素、十月騎士団の伝書鳩が向かう用件などないに等しいというのに。
すくなくとも今日のうちにこれらを訪ね、十月騎士団の本庁舎に戻るのだとしたら、就業時間をとっくに超えた夜だ。
誰もが思う――。
この十月騎士団の新人文官である伝書鳩は、いったいどういう距離計算と時間計算をして熟そうとしているのだろうか。
そして、この伝書鳩を走らせる十月騎士団の上官たちもずいぶんと無茶をさせる。武官もたいがい若年層には無茶をさせるが、文官もなかなかではないか。
衛兵たちはさすがに唖然、絶句といった表情は見せないが、内心はそれに近かった。
「ハシュ、ほんとうに無茶は……」
先ほどまで意識を失っていたというのに、この子は……。
衛兵が気にかけてくれるが、ハシュは大丈夫だとうなずく。
本音をいえば、ハシュ以上にこれをげっそりと思う者はいない。
しかも五月騎士団の内務府に向かうのは公用で、十二月騎士団に向かうのは権力乱用――もとい、極めて公用に近い私用。
いま、急いで十月騎士団に戻り、誰かに五月騎士団までハシュのかわりに向かってもらおうかと脳裏の端には助力を乞うかとも浮かんだが、十月騎士団の伝達係はハシュを含めた少年兵修了同期の八人が新人文官の伝書鳩として日々、皇都地域を奔走している。
そのうちの誰かが用件を終えて、いま、十月騎士団の本庁舎に書類を抱えて戻ってきているのかどうかはここにいては判然もつかないし、二年間学び舎を共にした同期……友人たちの誰かにこれから片道一時間の代理を頼むのは申し訳がなかった。何より、ハシュが心情的に嫌だった。
四月騎士団団長に余計なことを頼まれさえしなければ、五月騎士団での用件は、ハシュになら熟せると判断されたからこそ上官に振られた仕事だ。
伝書鳩としての仕事を熟せるようになった、それを認められるようになった。
自分では日ごろこき使われていると嘆いているが、職務を任される、熟せるようになった、それを全うせねば、受けた以上は……と職務には真面目で忠実なのだ。
――このていどでへこたれていては、剣を握る憧れの武官にはなれないぞ!
などと、自身を奮い立たせる奇妙な気力の目標も建てているので、自身でやると決めたからにはハシュは頑固になる。
――見た目とは異なり、ハシュは負けん気が強かった。
何気なく仰ぐ空はまだ青いが、薄雲が伸びているせいもあってその色は薄い。
日差しの色にも濃さはなく、日中を過ぎた風は心地よさよりも涼しさを感じるようになった。
風が午後の残りの時間を伝えてくる。
――とにかく、進めるところまで進まないと!
そんなハシュのもとに、預かってもらっていた騎馬の黒馬が手綱を取られて歩いてくるのが目についた。
「お世話、ありがとうございました」
言って、ハシュはぺこりと頭を下げる。
そして――。
待機場はどうだったのか、水はゆっくり飲めたか、餌は食べたか、すこしは休息できたか。周囲にほかの騎馬がいたのかはわからないが、そこでは変に鋭い眼光を向けて喧嘩に近いものを売りはしなかっただろうか。
黒馬を見るなり、ハシュはつい尋ねたくなってしまう。
無論、各騎士団の待機場にも専任の厩務員がついているので、束の間とはいえ疎かにされることはないし、丁寧にあつかわれていただろう。
かえってそれが黒馬の気性では居心地が悪かったようで、ハシュを見てようやくほっとした表情を黒馬が見せてくるので、ハシュは「あはは」と笑ってしまった。
「ごめんね、待たせてしまって」
じつを言うと、ハシュも黒馬を見て心底安堵することができた。
衛兵たちは優しいが、自分がここにいてはかえって彼らの職務の邪魔になるのでは……そう思っていた節もあるので、ハシュは黒馬の首もとに顔を寄せて額を当ててゆっくりと目を閉じ、手を伸ばして黒馬の顔を撫でる。
「――さ、これから気合を入れて戻るよ」
ひとしきり撫でると、ハシュは軍装のポケットに入れていた薄めの乗馬用の手袋をはめる。
何気ないしぐさだが、それをすることで気合が入ってくる。
表情が改まってくると、左目もとのほくろもキッとしたように見えるので、愛らしいはずなのに何だか勇ましい。
わずかな会話ではあったが、衛兵たちはハシュという少年のことを理解することができた気がする。
明るく真面目で、想定外のことを突然と言い出すが、どこか無邪気さがあって、とにかく忙しそうで、何だか目が離せない――。
実際に意識を失った現場に立ち会ったわけではないが、本人に無理をして立っているようすはもうなかった。それでも一度は倒れた身だ。ほんとうなら充分に休んでもらいたいが、それをすることはないだろう。
だから、不思議な庇護欲に駆られるのかもしれない。
「いいかい、きみの騎手は一度具合を悪くした。道中、落馬なんかさせないように」
皇宮で終始ハシュの傍にいた衛兵が揶揄含みに黒馬に伝えると、途端に黒馬が癇に障ったような表情を見せた。
――自分の騎手に対し、誰がそのような無様をするものかッ!
侮るな、と威嚇するように眼光険しく、前脚を踏み鳴らしてくるので、
「こ、こら、どうしたの?」
ハシュはあわてて黒馬を押さえるが、黒馬は衛兵から睨みつけたまま。
そのようすはまるで、不機嫌極まりない黒衣の騎士のようでもあった。
「この子はずいぶんときみを慕っているようだね」
鼻息の荒い黒馬の威嚇など気にも留めず、衛兵たち周囲が苦笑する。
これにはハシュも困ったように笑い、宥めながら、
「日々全力で走らせているので、いまではすっかり気の合う相棒のような存在です。十月騎士団の騎馬ではいちばんの俊足なので、いつも助けてもらっているんです」
競走馬に距離を負担させたくはないが、時間との勝負のときはどうしても起用してしまい、ほんとうに助けられているのだ。
「見たところ、現役引退するにはまだ早そうな騎馬だけど」
「きっと騎馬隊規律より、伝書鳩を背に走るほうが性に合っているのかもしれません。この子の走り、俺は好きなんです」
軍馬起用が早期にお役御免の沙汰を受けるのは、だいたいはいわくつき。
だが、いまを充分に評価するハシュの本音に安堵したのか、黒馬も落ち着いてきた。
できることならもっとハシュからの誉め言葉を聞いていたかったが、伝書鳩は絶えず時間に追われている。先ほども気合を入れて戻るよと言われたのだ。――ならば望みどおり、走ってやる!
黒馬は「早く乗れ」と急かすように鼻先でハシュを押してくる。つられたハシュは鞍に手をかけると身軽そうに身体を持ち上げて、流れるような所作であっという間に乗騎してしまった。
さすがは文官騎士のなかでも乗馬に慣れている伝書鳩。
日々、騎馬とともに奔走させられている感のある慣れた動作だったが、それ以上にハシュの所作にはどこか見惚れるものがあった。衛兵らは危うく感嘆の口笛を鳴らすところだった。
「――あッ! すいませんッ、非礼は充分承知していますが、時間がないのでこのまま騎乗で帰らせてください!」
黒馬の背に跨って、ここがまだ騎乗禁止区域であることを思い出すが、衛兵は特段咎めようとはしなかった。むしろ、その先にある御用門の両脇に立って装飾槍を持つ衛兵たちに「大目に見てやってほしい」とかるく合図を送ってくれる。
優美な衛兵が黒馬に跨るハシュを見上げる。
「きみの奮闘に成果が訪れることを祈っている。――明後日、また会おう」
「はい!」
彼ら衛兵の破格の気遣いに、ハシュは心底感謝する。
白を基調とした軍装の一月騎士団の衛兵に見送られるなんて!
今度、同期の伝書鳩たちにこのことを話さなければ。
ハシュは数歩ほど黒馬をゆっくりと前進させる。
前しか見ないハシュの背は少年らしく細いというのに、どこか威風を感じる。
そして、
「はッ!」
握った手綱で合図を送るなり、黒馬がもっとも得意とする瞬発力を発動させてスタートを切る。
身なりは新人騎士の文官、話している最中は表情多彩な明るい少年だったというのに、こうして一瞬で集中力を高めて騎馬を走らせる姿は現役の武官騎士に見劣りしない魅力があった。
□ □
「――あの子だろ? 八月騎士団の騎馬隊連中が喉から手が出るほど欲しがっていた、馬術の得意な子は」
一月騎士団に所属する武官は、出身のほとんどが剣技の六月騎士団で占めているが、剣技、武芸に長けているので馬術にも相当の心得はある。
その実力と肥えた目で見ても、ハシュの騎馬姿には素直に見事だと思えるものがあった。ハシュがスタートを切ると同時に、どうしようもないほどの好奇心が疼いた。
その自覚に、ひとりが自身に対して苦笑する。
「ちょっと、あの子とは騎馬戦でもしてみたくなったな」
色気のある目を細めてかたちのいい顎を撫でると、すぐそばの衛兵が呆れたようにねめつける。
「おいおい、子どもに剣を持たせて本気で突っ込む気か? あの子、吹き飛ぶぞ」
「いや、そうじゃなくて――競馬のほう。俺もスタートには自信があるからさ、お相手願いたいなって」
「確かに。あの瞬発力を見せられたら、ちょっと勝負してみたくなるね」
彼らはそんなふうに雑談をはじめる。
「そういえば、今期の十二月騎士団修了生の武芸披露会――ここでは事実上の、目指す騎士団に対する実技試験のようなもの――を見たんだけど、競馬でひとりだけやたらと群を抜いて独走する子がいてね……そうか、あの子か」
「後続四馬身、離したままだったよな。あれは僕も見ていたよ」
「あの子、確か名前は……」
「――ハシュ」
彼らの雑談を締めるように、唯一その名を知る衛兵が答える。
「ハシュ、ね」
最後に彼らも名を口にし、ハシュを見知っておこうと心に刻む。
これはハシュ本人が聞けば、即時卒倒に値する名誉であった。
ハシュはその修了生の武芸披露会で馬術を披露し、とくに実技試験というよりは現役の武官たちを楽しませる意味合いの強い競馬で独占勝ちをして、数年に一度といわれるほどに会場を沸かせた、じつはちょっとした有名人でもあるのだ。
――それだけの技術があるというのに、なぜ、畑違いの文官の最高峰である十月騎士団に攫われたのだろうか、と。
まったくちがう意味で――。
ひとりが「カツ」と足音を鳴らした刹那、衛兵らはまるで能面を被ったかのように一片の表情も変えない、皇宮の門前に立つ衛兵本来の無表情に近いそれに戻る。
彩色豊かが一瞬で無色になる、それを感じさせるほどに一切が静まる。
そのうちのひとりである優美な衛兵も表情を消したが、すでに姿形もないハシュが走り去っていった方向を見やり、ぽつりとつぶやく。
「よりにもよって、クレイドルさんを探す羽目になるとはね。――成果は願うけど、前途多難だよ?」
黒衣の騎士のような競走馬とともに疾風のように走り去っていた、伝書鳩。
あの少年は無事に「彼」のもとに辿り着くことができるのだろうか――?




