一月騎士団衛兵のお兄さんは、ハシュを甘やかしたい?
――クレイドル。
ハシュは姓名判定士ではないので正しくは言えないが、この名前はトゥブアン皇国においては男性名で用いられる部類で、地域によっては差もあるだろうが、けっして珍しい名前でもない。――多分。
平凡で多数を占めているわけでもないが、この名前の主を尋ねて「ああ、あの人ね」と相手を思い浮かべ、ハシュが喉から手が出るほど欲しい情報を持つ者は、すくなくともハシュに対して親身になってくれた四月騎士団の文官には存在しなかった。
まさかの事態――。
これには正直、血の気も引く。
「――申し訳ないことに、ウチの団長はときどきそうやって人を試すようなことをするんだ」
――人を試すも何も、自分都合で問答無用の命令はやめてくださいッ。
「九割が悪意あって……と受け取られがちだけど、じつは何か重要素が含まれていたりするから。あの方のことは計り知れないんだよ」
――控え目に言っても、十割全部が悪意に満ち溢れていますッ!
「でも、特定の誰かの名を口にしたのなら、すくなくとも架空の人ではないだろうから安心してほしい」
――架空の名で連れてこいって言われたら、俺にはもう打つ手がありませんッ。
「大丈夫。万が一、ロワ団長の意向に沿えなくても、首を落とされることだけはないだろうから」
「……」
――だけは……って?
――では、首以外は落とされるのでしょうか?
文官たちは気遣って四月騎士団団長の人となりを教えてくれるが、それに対してハシュにできることは心中でのツッコミしかない。
そうやって話を聞き、彼らも日ごろから四月騎士団団長には手を焼いていることを充分に理解する。ああ、とハシュは思わず目を伏せた。
結論からすると――。
あの七三黒縁眼鏡鬼畜について訂正するのであれば、「ヤバい人」どころではなく、もはや「何かを超越した人」、この表現のほうが適しているのかもしれない。
これは直感だが、彼に口で敵う者などこのトゥブアン皇国では……すくなくとも十二ある騎士団のなかでもほとんどいない気がする。
ためしにハシュは、脳内で自身が所属する十月騎士団のなかでは口達者なほうだと思われる上官の顔を浮かべてみるが、七三黒縁眼鏡鬼畜のほうが口端をつり上げて薄く笑い、初手で大手をかけるようすが安易に浮かんでしまう。
上官は初手を打つ前に大敗してしまった。
だとしたら、ハシュが喚いたていどでは勝算などありはしない。
「うん。クレイドル――珍しい名前ではないと思うのに、近辺でその名を持つ者はいないな」
「そうですか……」
早くも出ばなを挫かれ、しゅんと肩を落とすハシュに文官たちも気の毒そうに慰める。
皇宮諸事の一切を取り仕切る四月騎士団は文官の騎士団のなかでも特異なので、所属する人数も合わせて数百人ていど。規模は小さいほうだ。
とはいえ全員が全員を見知っているとはさすがに思わないが、それでも即座にその名を持つ相手が浮かばないとは……。
「ほかの同僚にも尋ねてみるよ」
「もし、その人のことを知っていそうなら、どこの誰なのかを聞いておくから」
「ありがとうございます……」
周囲の文官たちは親切だった。
ハシュは初見で、粛々とした空気のなかで動く四月騎士団の文官に対して「スマートな文官」と評価したものの、どこか淡々としすぎている印象も受けた。けれどもそれは就労時の立場の話で、個人となればこんなにも人情味を見せてくれる。
ハシュは、あの団長を筆頭にしている騎士団なのだから、個々もつんけんした人物ばかりが揃っているのだろうと思い込みそうになっていた自分を恥じる。
だが……。
――結果の是非を聞くだけの時間は、激務の伝書鳩にはない。
彼ら文官だって、本来はまだ就労の時間だ。
それを裂いてハシュの欲しい情報を得ようと集めるのは不可能であるし、就労後に情報を集めてくれたとして、例えばハシュがその是非を尋ねるにしても、これはハシュ個人に課せられた件なので、個人の用向きで皇宮の御用門をくぐり、四月騎士団の庁舎を訪ねられるかと問われても、それは越権行為で不可能だ。
ハシュも文官たちもそれは理解しているので、この誠意を確約できないのが惜しい。
それでも突然舞い込んできた伝書鳩を無碍にあつかわなかった彼らにハシュは感謝して、深々と頭を下げるのだった。
□ □
ハシュが四月騎士団団長の面会からここに至るまで、本来であればさほどの時間もかからなかったのだが、わずかの間だったとはいえ意識を失ってしまうというハプニングを起こしたので、来客者に対して皇宮内の案内を務める一月騎士団の衛兵のもとに戻るまで、思わぬ時間を費やしてしまった。
一月騎士団所属の武官だけに着衣が許される白地の軍装に身を包む優美な衛兵は、先に「訪ねてきた十月騎士団の伝書鳩が、どうやら四月騎士団団長に遊ばれて気を失った」と先触れで聞いていたので、
「――ハシュ、大丈夫かい?」
「へ?」
いったい、この伝書鳩は何を言われたのだろう?
四月騎士団庁舎の玄関ホールに戻ってきたハシュを見て、顔色が優れぬようすを見て、ハシュが意識を失った事実を実感する。
最初に皇宮を訪ねてきたときとは雰囲気も異なり、どこか憂いを纏って妙に目が離せなくなってしまう。左目もとのほくろがハシュの気鬱を語っているように見えて、酷く庇護欲に駆られる。
数人の文官たちに囲まれ、まだどこか足どりに不安があるハシュを見るなり衛兵がすかさず両手を伸ばして、当然のようにハシュを抱き上げようとしてきたので、――ハシュは思いきりあわててしまう。
「えッ、だ、だだ、大丈夫ですよ! 俺こそすいません、変に時間を取らせてしまって……わッ」
「駄目だよ、無理をしては。御用門までは抱いて運ぶよ」
「そッ、そそそッ、そんな、いいですって!」
言ってみたものの、あっという間の浮遊感。
気がついたときには、十七歳の少年の身体はあっさりと衛兵の腕のなかに収まってしまった。
衛兵はどちらかと言うと秀麗優美のスマートな青年の部類だったが、ハシュをものともせず軽々と抱き上げてしまったので――いわゆる、お姫様抱っこと言われる淑女に対する丁寧な横抱き――、ハシュはここでようやく羞恥で顔を真っ赤にして、ちがう意味で血色を取り戻してしまう。
かぁ、と耳まで赤くするハシュに、衛兵が愛らしいものを見るように微笑む。
「ふふ、ハシュ。きみはとても軽いね」
「そ、そそそ、そうではなくて……ッ」
衛兵の抱き方には品があるので、ハシュは腕のなかにいても特段目立ちはしない。
だが!
玄関ホールでは十月騎士団で見られるような文官たちの右往左往のような慌ただしさはいまもなく、人影も粛々としてまばらだったが、それでもハシュをここまで送ってくれた文官たちの目がある。
武官であれ、文官であれ、等しく荒波に揉まれて世間の厳しさを覚えていくのが新人騎士だというのに、
――意識を失ったていどで、伝書鳩がおんぶに抱っこと甘やかされるなんて!
ハシュとしてはこの意識のほうが強かった。
対して周囲は冷やかしの目を向けるどころか、「四月騎士団団長に何事かを命じられて、意識を失ってしまった哀れな伝書鳩」という極めて同情的な感情でハシュを心配し、そのまま運ばれたほうがいい、ともの言いたげな視線を向けてくる。
けれども目上の者に、……ましてや格上どころではない武官に抱き上げられてしまう経験などないハシュにとっては、恥ずかしくて、情けなくて堪らない。
「ほんとうに、大丈夫ですから!」
「――けど」
「お願いですッ、俺は伝書鳩ですから、お手を煩わせるわけにはいきませんッ」
それに皇宮で倒れて甘やかされたと上官にでも知られたら……。
きっとお叱りの呼び出しを受けた直後に、ハシュは十月騎士団名物の「文鎮の刑」を頭上で受けることになるだろう。
文鎮とは、無論、あの文鎮だ。
幸いにしてハシュはまだ直撃を受けたことはなかったが、いまは痛みの予測より自身に課せられている恐怖の気焦りが勝っている。ハシュには急いで皇宮を出なければならない用ができてしまったのだから。
早くつぎの行動に移らないと――。
「でもね、ハシュ。一度意識を失った身体は――」
栄養のあるものを食べて、横になってしっかり寝ないと身体の機能は正常を取り戻せない。
衛兵はそう言って諭そうとするが、
「お願いですッ、俺ッ、俺……ッ」
この場合はどう訴えるのが正解なのか。
今度は意識が興奮して卒倒しそうになってしまう。
すでに涙目になって懇願するハシュは、ぎゅっと衛兵の白地の軍装を握ってしまう。それを受けた衛兵が何とも言えぬ表情をしてわずかに迷い、――仕方なしに小さな息を吐いてくる。
「……まったく、職務第一は新人騎士の美点であり、欠点だよ。足元がおぼつかないようだったら、すぐさま抱き上げるからね」
「あ、ありがとうございますッ」
言って、衛兵はわずかに身を屈めてハシュを丁寧に下ろしてくれた。
思わず騒いでしまったけれど、これでようやくほっとできる。
ハシュの足の爪先が地面にきちんと着いて、ハシュがひとりでしっかりと立って歩行可能だと判断できるまで衛兵はけっして手を離そうとしなかったが、
「あ……――」
意識が戻ってわずか。
落ち着いてすぐに騒いでしまったせいか、ハシュは目の前をくらりとさせてしまい、二歩目で身体が大きく揺れて、首が喉を突き出すようにがくりと後ろに反れてしまった。
かくり、と膝から崩れ落ちそうになる身体のいうことの利かなさに、
「あ……れ?」
と、ハシュは困惑してしまう。
これではとてもではないが、まともに歩けもしない。
「ほら。御用門まで甘えなさい」
「うう……」
そう判じた衛兵にハシュはふたたび抱き上げられてしまい、そのまま四月騎士団の庁舎を出るかたちになってしまった。
衛兵の動作はほんとうにスマートで、上着、あるいは外套の裾になる白地の燕尾が風雅に揺れているが、いまはもうそれに惚れ惚れと感嘆している暇はない。
一介の伝書鳩が破格の優遇を受けるなんて……。
きっと――。
皇宮に仕える一月騎士団の衛兵や四月騎士団の文官たちがハシュをかまってくれるのは、軍装を纏う未成年の新人騎士がここでは酷く珍しいから、それで弟のように世話を焼いてくれているにちがいない。
失態の自分がその厚意に甘えるのは、よくないことだ!
ハシュは四月騎士団団長から受け取った厚みのない封筒で、恥じる自分の顔を隠すのだった。
□ □
「――ふん、根性の土台もなっていない伝書鳩を貧弱と勘ちがいするとは」
四月騎士団の庁舎を出たハシュの姿は、庁舎二階にあるとある一室で窓辺に寄りかかっていればすぐに見やることができた。
伝書鳩の帰り筋など興味もなかったが、この部屋を出た直後にどうやら倒れたのは室内にいてもそれを見てあわてる周囲の気配を扉越しで察することができたし、――その時点で、この部屋の主である四月騎士団団長のロワはハシュの精神を最弱と評価し、一時間経っても起きないようだったら皇宮から放り投げろと命令しようとさえ思っていた。
――さぞかし泣いて、沈鬱に肩を落として庁舎を出るだろう。
そう思い、たまたまごくわずかに興味が湧いて、窓辺に寄りかかっていたところ……。
突然の無理難題を押しつけられた伝書鳩は、悲壮感に暮れて重たい足どりで去ると思えば、一月騎士団の衛兵に抱き上げられて退場とは。
皇宮への来訪者はすべて異質と思え、衛兵はそれを念頭に常姿勢を正せ、そう厳命しているというのに……。
これは正直おもしろくない。
「まったく、あやつが一月騎士団団長に就任してから、皇宮最前の警護護衛規律もずいぶんと緩くなったものだ。――あとで苦言を呈せねば」
窓ガラスに反射するのは、いまもきっちりと前髪を七三に分けて整髪を保っている、特徴的な黒縁眼鏡をかけたロワの顔だった。
容姿はひと目で神経質なのが見てとれるし、だが、壮大な唯我独尊、傍若無人の気配がありありとしすぎて、むしろそれが当然として似合っている。
ふん、と相当つまらなそうな顔をしていたが、その口端がゆっくりとつり上がる。
「さあ、伝書鳩――。あとはお前次第だ」




