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さすがに意識を失いました

「――ふははははッ!」


 何とも言い難い、奇妙で恐怖を覚える高笑いが背後から聞こえる。

 奇妙――と思えたのは、冒険物語にでも出てくる悪役の笑い声を実際に熟してしまう人物がいるとは……と感じたそれ。

 恐怖――と思えたのは、きっちり前髪を七三に分けた黒縁眼鏡の高圧的な彼が、こんなにも高らかに笑うことができるのか……と感じたそれ。

 どちらの比率が勝って鳥肌が立ったのかはわからないが、ハシュにとってロワは完全に「ヤバい人」だということが確定した。


 ――しかも、敵にしたらとことん厄介。

 ――だからといって味方にしても充分に厄介極まりないだろうが。


 とにかくとんでもない目に遭って、しかも時間制限の用件をふたつも押しつけられてはハシュもたまったものではない。

 おかげで奇妙な震えが込み上がってきた。

 どうにかこうにか「四月騎士団団長執務室」の扉を閉めることができたものの、けっして薄くないはずの扉越しからまだ笑っている四月騎士団団長の声が突き刺さって、いよいよ力尽き、ハシュはずるずると扉に背をつけたまま座り込んでしまう。


「な……何で……」


 何で、自分がこんな目に遭うのだろう?

 自分はただ、十月騎士団の伝達係として、正しい手順で上官が必要とする書類をこの四月騎士団から受け取るために訪ねたというのに、どうして自分の失言から――失言? あれは失言の部類に入るのか?――十二月騎士団に所属する学長が明朝に呼び出されることになり、ハシュが知りもしない「クレイドル」なる人物を連れてこいと命じられ、承ったと言ってもいないのに従わざるを得ない状況になってしまったのだろう?


 ――学長、ごめんなさいッ!


 できることならいますぐ恩師でもある学長に詫びを言いに駆けつけたいが、その前にいま預かった書類を一度十月騎士団の本庁舎に届けなければならないし、そのあとすぐに五月騎士団の内務府に向かわなければ本来の業務に支障が出てしまう。

 秋を迎えている時期、日の入りも早くなってきた。

 おなじ時間でも夏はまだ日差しも残光もあったが、いまの時期はすでに暗い。目指す刻限の予定をまちがえると、世界はあっという間に夜の色に染まってしまう。

 灯りのない夜道に騎馬を走らせることはできない。

 それに……――。

 ハシュはくらくらする脳内で必死に最善の策を模索する。

 学長に呼び出しを伝えろと執行された以上、これは()()()()()()()()()()

 どう考えても五月騎士団を出たその足で十二月騎士団に向かわなければ、明朝の出立を余儀なくされた学長の心の準備と支度にも支障が出るだろうし、おおよその刻限に四月騎士団の庁舎を訪ねなければ、今度は誰に何の被害が及ぶのか、ハシュにはもう見当もつかない。

 こういう場合、いまから戻る十月騎士団で上官に相談し、指示を仰いでもらった方がいいのだろうか?

 それと、――クレイドル。


 ――どこの誰だよ、クレイドルって……。


 ああ……。

 ハシュにとって最優先なのは業務である書類の受け渡しだというのに、脳内にこだまする四月騎士団団長の高笑いのせいで、ハシュはどんどん優先順位がわからなくなってしまう。

 とにかく行動に移さないと……時間が……。

 だが、立ち上がりたくても貧血に近い状態で目の前はどんどん暗くなるし、気力が萎えて身体もかたむきはじめてくる。

 何だろう……?

 急に目を開けているのが辛くなってきた。

 眠いわけではないのに……。


「――おい、大丈夫かッ? 意識はまだあるか?」


 意識が急速に遠のこうとしている。

 そこに声をかけてきたのは、ハシュを四月騎士団団長の執務室まで案内してくれた同騎士団所属の文官だった。

 彼はハシュが最初の入室に戸惑ったとき、自身の保身のためにハシュを平気で蹴り込んで鬼畜がいる執務室に放り込んだ極悪人だが――すくなくともハシュには、そうと印象が残っている――、いまは心底心配そうに目の前で膝を付いてきて、手を伸ばして肩や頬を叩いてくる。

 意識はまだあるか、と問われたとき、


 ――この執務室に出入りしたら、意識を失うのが普通なのか!


 と、普段のハシュであれば内心でそう叫んだだろうが、いまはとてもそんな思考までたどり着くことができない。


「下に食堂がある。そこですこし休みなさい。――立てるか?」


 ハシュの目つきがいよいよ虚ろになってきたのを察し、文官はあわてて周囲を見やって大きく手招きし、救護の要請をかける。

 運よく数人が駆けつけてきたが、よりにもよってとんでもない部屋の前で座り込んでいる未成年の少年にぎょっとして、文官である軍装と十月騎士団の伝達係だけに着用を許されている肩章を見て少年の正体を悟り、文官たちは心底同情して深いため息をついた。

 そのため息の重さと深さが、四月騎士団団長という人物を物語っている。


「ロワ団長の笑い声か聞こえたから、何事かと思っていたけど……」

「とにかく部屋から離れないと。いつまでもここにいたら、さらに突かれる」

「この子、団長とは初見ですよね? あそこまで高笑いさせるなんて、何をして気に入られたのです?」


 ――気に入られた……?


 彼らはいったい、何を言っているのだろう?

 ハシュは残る意識のなかで聞き捨てならない台詞を耳にしたが、それに対してもう意識が回らない。起きているのが辛い。


「……――」

 そうして舞台の緞帳幕のように意識が落ちてしまう。かくり、と頭が垂れて、手がだらりと下がってしまった。


「お、おいッ」


 座り込んだまま横に倒れるハシュを支えようと咄嗟に文官たちが手を伸ばし、なかでもわずかに体格に優れた文官がひょいと抱き上げてくれる。

 ハシュは目に見えての小柄ではないが、十七歳の標準的な少年にしては細身だったので、その身体は難なく文官の腕のなかに収まってしまった。


「おい、きみッ」

「しっかりしろ!」


 血の気も引いたハシュの顔色に文官たちはあわてる。

 左目もとにあるほくろまでぐったりとしているように見えて、ハシュを抱き上げている文官とはべつの文官が頬をかるく叩いてくるが、ハシュはそれにぴくりとも反応することはなかった――。



□ □



「――……ん……」


 鼻から抜けるような声、あるいは音を漏らしながら、一度は闇の底まで落ちたハシュの意識がゆっくりと浮上してくる。

 重く閉じていたまぶたがぴくりと動き、唇も弱々しいが動きはじめて、まるで生き返る何かのように鼓動の動きを感じながらぼんやりと目を開ける。――だが、目に何が映っているのかがよくわからない。


「――気がついたか?」

「……」


 自分を至近から覗きこむ顔に何かを問われたが、その意味がわからなかった。

 ハシュは見知らぬ文官の腕のなかに収まっていて、彼の膝の上で横抱きにされるような姿勢をとっていたが、それに実感はなく、混濁から意識もまだ正常には戻らず、ただただぼんやりと目を開けたまま。


 ――ハシュはわずかの間だったとはいえ、自分が気を失ったことを知らない。


 まだ上手く意識が定まらず、身体も重くて動かず、顔色も戻らず、虚ろな目でぼんやりとしていると、


「もう大丈夫だ、安心しなさい」

「きみはね、ロワ団長の執務室から出たすぐに意識を失ってしまったんだよ」


 周囲がそうやってハシュに情報を与えてくれるが、ハシュはぼんやりとしたまま。意識の混濁は記憶も混濁させていて、ほんとうに彼らが何を言っているのかがよくわからない。


「ここは四月騎士団の庁舎内にある食堂だ。ほんとうは仮眠室に連れて行きたかったんだけど、きみがうわ言で書類、書類とうなされていたから」


 そう言ったのは、いまもハシュを膝の上に乗せている文官だった。横抱きにしているハシュを年の離れた弟のように見やり、安堵させようと優しく頭を撫でてくる。

 文官にしてはどこか野太い印象もあったが、小さく笑う表情に誠実さが浮かぶ。


「伝書鳩はほんとうにご苦労な職務だな」

「……」


 ――伝書鳩……?


 伝書鳩って、何だっけ……?

 その言葉さえも疑問に思えたが、そうだ。――それは自分の別称だ。勿論、それは個人の愛称ではなくて、職務上の立場。そう……十月騎士団所属の伝達係、伝書鳩はその別称……。

 そうだ……とハシュの意識は弱々しくも記憶をたぐり寄せて、自分の身に何が起こったのかを思い出そうとする。酷い目に遭った、と記憶が結論に着地するが、それはまだ他人事の感覚でうまく実感が湧かない。


 ――お……俺……。


「あ……あの、俺……」


 意識を失ったと言われたが、これに実感はない。

 ただ頭も身体も酷く重くて、ぼぅとする意識を無理やり支えるのでいまは精いっぱいだ。


 ――ハシュはまだ記憶の空白のなかにいた。


 よくはわからないが、どうやら自分は何かの弾みで意識を失ったらしく、自分を介抱する文官によって横抱きにされているらしい。

 トゥブアン皇国では武官も文官も騎士の軍装の基本は襟詰めなので、意識を失っている最中のハシュが苦しくならないよう首元の襟が緩められ、それは鎖骨近くまで解放されている。

 辛うじて動くようになってきた目で周囲を見やると、自分は横抱きにされながら食堂の長テーブルの一角にいて、そばには四、五人の文官がいて、ハシュを心配そうに囲んでいる。そのうちのひとりには見覚えがあった。

 いまはまだ就労時間なので、食堂を利用している文官たちの姿はほとんどない。かわりに夕食時に提供する料理の仕込みで厨房がにぎわっていて、いい匂いが漂っている。

 どの騎士団の食堂もおなじような造りで、一度に大人数で会することができるよう天井の高い大広間のようなところに長テーブルがいくつも並び、それを挟むように長椅子も伸びている。

 厨房はその正面奥にあって、手前には幾種類も用意される料理を配膳するため横並びのカウンターがあって、給仕係がトレイを手にする文官たちに注文の料理を提供している。

 ハシュは皇宮所属の騎士団以外の騎士団の庁舎や食堂には顔を出しているので、それがわかる。


「――レモン水だ、飲めるかい?」


 そう言って目の前にレモン水が用意されたが、ハシュは自分を横抱きにしている文官の腕のなかから起き上がるのがまだ困難で、自分の背を支える文官に力を貸してもらい、どうにか上体を正してみるが、用意されたレモン水のグラスがうまく手に取れず、


「飲めそうなら、飲ませてあげるよ」

「……」


 促されて、こくん、とうなずくと、乾いた唇にグラスが当たり、ゆっくりとかたむけられてハシュの乾いた喉を潤そうとレモン水がゆっくりと口のなかに入ってくる。


「……ん……」


 ひと口含んで、ひと口飲んで、もうひと口味わって……。

 ハシュはゆっくりとレモン水を飲み干していく。


 ――まるで小さな子どもになったような気分だ……。


 まだぼんやりとする頭でハシュは思うが、周囲の文官たちにはいささか異なるようすでハシュを目に映してしまい、――酷く庇護欲に駆られていた。

 ハシュは細身だが、たおやかな印象はない。

 暗めの橙色の髪はやや短めで、本来の表情に戻れば元気で明るく、そんなふうに受け取れるし、性格は実際に素直、喜怒哀楽に富んでいる。

 だが、いまは意識が定まっていない虚ろさがハシュの容姿に危うい儚さを演出し、左目もとのほくろがそれを強調してくる。

 レモン水を飲むときに濡れた唇を小さく開けたまま、ありがとう、と言いたげにうなずくさまがまた堪らない。

 また、ハシュのようなぎりぎり未成年の少年を見ること自体に不慣れはないのだが、この皇宮に所属する一月、二月、四月騎士団で武官、文官になるためにはあるていどの年齢が条件となるので、まだ十七歳の新人文官が皇宮にいると思うと奇妙な違和感を覚えてならない。

 一方のハシュは、飲んだレモン水が身体中に染み渡ったことでようやくほんとうの思考が脳内に戻り、自分が何をしていたのかを急速に思い起こす。


 ――あれ……? この食堂、十月騎士団の食堂じゃない……。


 造りはほとんど一緒だが、慣れ親しんでいる雰囲気とはどこか異なる。


 ――それに、この人たちの軍装……。


 文官の軍装は総じて異なりを見せることはなかったが、生地の色味が微妙にハシュの所属する十月騎士団とは異なる気もする。

 顔はいずれも初見だが、ひとりに見覚えがあって、彼にあまりいい印象がない。どうしてそんなふうに思っているのだろう?

 それに、いまも実感している心身の酷い疲労は何だというのだ?

 全力疾走のあとだって、こんなに重いと思ったことはないというのに……。

 ハシュのまばたきが徐々に回数を増やす。


 ――ここ、確か……。


 四月騎士団――だ。

 この騎士団の庁舎は皇宮にあって、ハシュは伝書鳩だから御用門を潜ることを許された。訪ねた用件は書類を受け取ること。書類は受け取ったが、ハシュはとんでもないことをあの七三黒縁眼鏡鬼畜に強要されて……――。

 刹那、ぞくりとハシュの身体が震える。


 ――二日やる、()()()()()を連れてこい。


 いま、心をいちばんに揺るがす、その命令。

 クレイドルという名前が脳内いっぱいに広がると、つぎは唯我独尊の高笑いが「ふはははは」と聞こえてきて、ハシュは、ぞぞぞ、と肌を粟立たせてしまう。


「そ……だ……」


 ようやくのことで、ハシュの瞳に本来の焦点が戻っていく。

 その顔色はまだ本来の血色を取り戻してはいなかったが、いまの自分に何が課せられたのかを唐突に思い出すと、ちがう意味でさらに顔色が青ざめてしまう。


「そうだ、俺――ッ」

「わッ?」


 それまでわずかに動く、そこそこ容姿に恵まれた人形のようだったハシュが突然がばりと横抱きの状態から身を起こしたので、介抱していた文官や周囲たちもおどろき、


「き、きみッ、急に動いたらまた貧血を起こすぞッ」


 あわててハシュの動きを制そうと手を伸ばすが、


「あ、あのッ、クレイドルっていう人を知りませんかッ?」

「クレイドル?」

「はい、クレイドルです!」


 意識をはっきりと取り戻すや否や、唐突に名を特定して尋ねてくるハシュに文官たちは目を丸めるが、ハシュは周囲の表情を真剣に見やり、


「俺、四月騎士団のロワ団長に連れて来るように命じられたんです。――クレイドルっていう名前の人なんですけど」


 クレイドル――。

 多分それは男性だろう。

 ひびきからして女性に付く名前ではない。

 だとしたら……?

 皇宮内ではどのように各騎士団の立ち入りが制限されているのかは知らないが、あの四月騎士団団長のロワが初対面の人間に会おうなどとは思えないし、ましてや相手が一般人であるのも予想し難い。

 それを考えると、ロワの身近である皇宮護衛の一月、二月騎士団、彼を団長とする四月騎士団と、周囲にいる武官、文官の顔ぶれがもっとも怪しい。

 そして、皇宮諸事の一切を取り仕切る四月騎士団とのつながりは多くないが、立ち入りの頻度で考えれば武官の騎士団ではなく、他の文官の騎士団がつぎに怪しい。つまり、残るは五月、自身が所属する十月騎士団。

 ハシュは咄嗟に的を絞ってみたが、疑う騎士団に所属する騎士だけでも人数は相当数いる。

 各騎士団で登録者名簿を見せてもらえれば探すことも困難ではないだろうが、如何せん、名簿を手にするには「許可」という裁可押印の書類を何枚も用意することが必至。

 だが、ハシュに押印を巡る時間などそもそもないし、仮に名簿に辿り着けたとしても膨大なページをめくり、しらみつぶしに探す時間が存在しない。

 大体、ハシュのような新人文官に名簿を手にする資格などないのだ。

 そして、ハシュが咄嗟にここまで知恵を浮かべたのだ。

 あの七三黒縁眼鏡鬼畜が、名簿の存在を知らぬはずもない。


 ――名前しか言わなかったのには、きっとからくりがあるはず。


 相手が遠くにいると見せかけて、じつは手もとすぐにその人物がいたりするのだ。――こういう場合は。

 だとしたら、まず、四月騎士団という身内から割り出していった方が早い。

 ハシュの思考は一気に全力疾走する。それを人探しの指針として、自分を囲む四月騎士団の文官たちに一縷の望みを賭けたが、


「クレイドル、ねぇ……」

「その人を呼びに行けばいいのかな?」

「ロワ団長にはどこに所属している人だと聞いている? ()()()()()()()、かわりに呼びに行ってあげるよ」


 ありがたいことに、突然の尋ねにもかかわらず周囲の文官たちは協力的な姿勢を見せてくれたが、ハシュに情報を問い返すことによって、かえってハシュを絶望に追い込んだ。


「――え……?」


 ハシュに「彼」のことを問うてくる文官たちは、一同クレイドルのことを知らないようすだった。互いに顔を見合わせ、「知っているか?」などとささやき合っている。

 せっかくレモン水で生気を取り戻してきたのに、ハシュの顔色はしばらくそれを得ることができずにいた――。

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