表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/12

第0話 はじまり 大津博満の場合

口の中に広がる、薬の無機質な苦味。 


それをぬるま湯で一気に流し込み、俺は浴室へ向かった。


冷たいタイルの感触が、足の裏にやけに生々しい。


服を着たまま湯船に入る。


ゴムの栓を差し込んでから、蛇口を捻る。


湯がゆっくりと嵩を増していくのを確認して、俺は目を閉じた。


ようやくだ。


ようやく……。


俺は大学教授の父と、専業主婦の母との間に生まれた。


金に不自由はなく、何不自由ない生活。


だが両親の離婚で、その生活は一変した。


家にほとんど寄り付かなかった父より、いつもそばにいてくれた母が良い。


まだ幼かった俺は、深く考えもせずにそう言った。


それが。


貧しいということが、どういうものかを思い知らされる。


そんな日々の始まりだった。


母はパートや内職をいくつも掛け持ちし、その身を削るようにして家計を支えた。


父さんは家にいなかったけどお金はあったんだから、離婚なんてしなければ良かったのに。


そんな残酷な言葉が喉まで出かかっても、俺は口にできなかった。


時折会う父に、お金が無いと言いたかった。


でもそれを言うと母が悲しむとわかっていたから、俺は結局言えなかった。


母はその細い腕で稼いだ金で、俺を医大にまで通わせてくれたのだ。


母の苦労を知っているだけに、俺は母の願いを決して邪険にすることなどできなかった。


俺は、同性愛者だった。


けれどその事実は、墓まで持っていくと決めていた。


母のたった一つの願い――「孫の顔が見たい」というそのささやかな望みを叶えるため、俺は結婚を決意した。


相手は、同業者の小澤舞さん。


彼女からのひたむきで強いアプローチに、俺が折れた形だった。


そんな全てを諦めたような日々の中で、俺はヤマト君と出会った。


最初はただ顔が可愛い子だな、というくらいの感覚だった。


けれど診療所で話すうちに彼の全てを信じ切ったような真っ直ぐな瞳に、どうしようもなく惹かれていった。


健気に俺を信じて慕ってくれるヤマト君が、愛おしくて仕方がなかった。


どうかしている、と自分でも思う。


ヤマト君は、俺の半分も生きていない。


何より相手は現役の高校生だ。


法を犯している自覚はあった。


でも、やめられなかった。


彼といる時間だけ。


俺が俺自身の人生を生きていると、そう思えたのだ。


やがて舞さんが妊娠した。


同性愛者の俺でもちゃんと子を成すことができたのかという、そんな奇妙な驚きがあった。


だがそれが分かってから、俺は舞さんを抱けなくなった。


彼女には本当に、心の底から悪いことをしたと思う。


さらに俺は何かと理由をつけて、舞さんとの入籍をずるずると先延ばしにし続けた。


本当に、我ながら酷い男だ。


だが当然いつまでもそんなことが通るはずもなく俺はついに、ヤマト君と別れる決意をする。


その、最後の夜。


俺はヤマトくんに、


「俺の子を産んでくれないか?」


なんて馬鹿なことを口走ってしまった。


医者の言うことではない。


男には、不可能なことだ。


当然ヤマトくんは困惑していた。


でもそれは、紛れもない俺の本心だった。


眠っている彼の枕元に、結婚式の招待状を置いた。


日時も場所も、全てが書かれている。


いっそこの結婚式を、めちゃくちゃにしに来てくれないだろうか。


そんなあまりにも浅はかで身勝手な奇跡を、俺は心のどこかで願っていた。




ヤマト君がいない生活は、もはや地獄だった。


ただ仕事をして、舞さんや子供の相手をして日々が過ぎていく。


鏡を見るたびに自分の顔に深い皺が刻まれ、老いていくのを感じていた。


この地獄は、いつまで続くのだろうか。


いっそ、自分で終わらせてしまおうか。


そう考えるたび、母の顔が浮かんだ。


『親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ』


一休宗純の言葉だ。


……母より先に逝くことだけは親不孝な俺にも、どうしてもできなかった。


先日。


その母が膵臓癌で、あっけなく亡くなった。


悲しかった。


でもそれ以上に、心の底からほっとしていた。


ああ。


俺はなんて、親不孝な息子なんだろう。




……体が、ふわふわと浮いている。


温かい水の中にいるようだ。


もう、苦しくない。


ヤマト君


ヤマト君


ヤマト君……ヤマト


お願いだから、俺の所に戻ってきて欲しい。


『オーツさん』


はっと顔を上げるとヤマトが、そこにいた。


「……戻ってきて、くれたのかい?」


ヤマトは、ふわりと笑った。


でもその顔は、ひどく疲れているように見えた。


「なぜ、そんなに疲れているんだい?」


『色々、ありましたから』


それを聞いた俺はただただ、安堵した。


「そうか。」


そう言って俺は彼の体を強く、強く抱きしめた。


「……ゆっくり休むといい、ヤマト」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ