分かれ道 芝浦山手の場合
「……なんだよ、それ。」
僕の涙をぬぐってくれた光哉の指先がまだほんのり温かくて、なんだか気恥ずかしい。
『綺麗な涙』
光哉が言ってくれた言葉。
その意味がよく分からなくて、僕はそのまま質問した。
「ああ。」
光哉は少しだけ視線をあちこちに動かしたあと、ソファに座り直してポツリポツリと話してくれた。
「高1のときに咲良と映画に行ってな、そのときの映画のキャッチコピーが『最も綺麗な涙』だったんだよ。」
説明されても、やっぱりよく分からない。
「……それがなんで今、出てくるの?」
「その日に見たんだよ、お前が涙を流しているのを。俺はそれを見て、『綺麗な涙』だと思った。……小澤先生のご主人が、お前の元からいなくなった日だったらしい。」
その言葉に、僕は思わず息をのんだ。
見られてた?
あの日グシャグシャになって泣いてた僕の姿を?
光哉に?
そうだったんだ。
そうだったんだ……。
「『オーツ』さんて言うんだその人、大津博満先生って言うお医者さん。」
「……好きだったんだな?」
光哉の静かな問いかけに僕は、
「うん」
と、小さく頷くことしかできなかった。
すると光哉はまるで、自分に言い聞かせるみたいにポツリと言った。
「思えば……お前の『綺麗な涙』を見たあの日から、俺はお前に心を動かされていたんだな。」
その言葉に、胸の奥がギューッと甘く締め付けられる。
だとすれば。
あの日の涙も決して、無駄じゃなかったと思えた。
ふと、1人の男の顔が浮かぶ。
僕はその名前を出すべきか、一瞬だけ迷った。
『鷲那豊樹』
でもその名前をだすことは、今はできなかった。
代わりに僕は、そっと光哉の頬に手を添える。
光哉がビクッと、大きな目を動かして僕を見上げた。
僕はその唇に、そっと自分の唇を重ねた。
「……やっと光哉の唇の感触を、ちゃんと味わえたよ。」
そう言って笑いかけるけど、光哉は顔色一つ変えないで僕のことを見返してくる。
「そうか。」
とでも言いたげな、いつも通りの涼しい顔。
でもその耳だけは、隠しきれないくらい真っ赤に染まっていた。
本当にカワイイ。
そう思って僕は、その細い腰にそっと手を回した。
その瞬間だった。
いきなり、強い力で唇を塞がれた。
さっきまでの優しいキスじゃない。
光哉の方からもっと、強くて深いキスをされる。
ビクッとして目を見開く僕に、光哉は一度だけ唇を離して言った。
「……今回のキスは、酒の味がしないな。」
「え!?」
僕は思わず固まった。
光哉はそんな僕を見て、悪戯が成功した子供みたいにニヤリと笑う。
「今日はここまでだ、お前こそ覚悟するといい。」
そう言い残すと光哉は、スルリと僕の腕から抜け出して自分の部屋に戻って行った。
……もしかして。
僕が光哉と2年ぶりに再会したあの夜、酔っぱらってやらかしたのは……キス?
覚えてないなんて、もったいなさすぎる!
そんなモヤモヤを抱えたまま、僕はその一晩を過ごした。
「と、言うわけなんだよ!」
ガン!
僕は持っていた大ジョッキをわ、テーブルに叩きつけた。
「芝浦くん、その話はもう何度も聞いたよ。」
目の前で職場の同僚が、呆れたみたいに苦笑いしてる。
あの夜僕は、光哉の部屋に戻った。
これからは幸せな夢のような日々が待っている。
そんなノロケと妄想を、僕は飽きもせずにこの同僚に聞かせていたのだ。
「ホラ、そろそろ行くよ。」
そう言われて、僕たちは店を出る。
だいぶ飲んじゃったなー、夜風が気持ちいい。
二人でタクシーに乗り込むと、心地いい揺れにすぐに意識が遠のいていく。
そんな、まどろみの中だった。
誰かに、呼ばれた気がした。
優しくて、懐かしい声。
隣を見ると、同僚はすっかり寝ていた。
僕はタクシーの運転手に同僚の家の場所を伝えると、自分だけフラッと車を降りた。
フラフラと声のしたほうに歩くと、いきなり視界が開けた。
ツンと鼻をつく海の匂いが、肺いっぱいになる。
海に、出た。
僕は吸い寄せられるように、波打ち際に向かう。
指先で、夜の海に触れてみた。
冷たくて、気持ちいい。
そんなことを考えていると足がもつれて、ザブンと水の中に転んでしまった。
アハハと笑って、立ち上がろうとする。
でも、力が入らない。
水のせいか、身体が思うように動かなかった。
……仕方ないか
僕は目を瞑って
水の流れに身を任せた
まぁ
これはこれで悪くないかも
そんなことを考えていると
耳元で、光哉の優しい声が聞こえてくる。
『今日は疲れただろう? ゆっくり休むといい。』
とても、優しい声。
ああ、幸せだな。
そう、感じていると。
『ゆっくり休むといい、ヤマト。』
あれ?
光哉って僕のこと、『ヤマト』って呼んだっけ?