孤独な君と癒せぬ騎士if
目を開く。同時に意識が覚醒する。
私は見慣れぬ場所に立っていた。
王宮でも離宮でもない、真っ暗闇の場所。
光源が何一つないのに不思議と自分の体を見下ろせばハッキリと見ることができた。
体を動かしてみる。特に違和感はない。
此処は何処?
そう心の中で呟くと同時に目の前にぼんやりとした光が現れる。
小さな光はゆっくりゆっくり大きくなり、私の手のひらより大きくなると白一色だった中心にゆっくりと色が浮かんでくる。
ぼやけた色は次第にくっきりと複雑な色合いへと変わり、色だと思ったものはやがて“ある景色”になった。
光に映し出された景色はとても見覚えがあった。
王宮での私の自室だ。
見慣れた天蓋付きの寝具の隣に、見慣れない鏡台。その鏡台の正面に誰かが座っている。
一瞬目を疑ったけれど間違いない。
私だ。
私が見ている景色の中に私が鏡に向かって座っている。
そう認識すると同時に明るい鼻歌が耳に届く。
私は真新しい櫛を手に髪を漉いていた。
揺れる黒髪は艶やかで、鼻歌と相まって踊っているようだった。
恐ろしい気持ちでゆっくりと鏡を見る。
鏡は私を写している。鼻歌を歌い、ご機嫌で髪を漉く私はとろけるように笑っていた。
ゾッとして景色から目を背ける。
いつの間にか呼吸は荒くなっていて、心が凍てついたかのように全身が寒い。
有り得ない。
そこに写っているのは私なのに、あまりにも私からかけ離れている。
身綺麗にする習慣はもうずっと昔にしなくなった。
何より、何よりも違うのは、私が笑っている。
もう何年も昔に口角を上げなくなって、嬉しいとか喜ぶといった感情とは縁のない生活をしてきた。
だからもうずっと昔に笑い方なんて忘れてしまった。それなのに。
恐る恐る景色の方へと視線を戻す。
私は使っていた櫛を置いて胸に手を当てながら鏡に向かっていた。
その唇が言葉を紡ぐ。
『お父様が会わせてくれたあのお方、とても素敵な人だったわ』
うっとりとした表情で鏡に向かって私は続ける。
『話していても全く不快にならない、それどころか気遣いの細やかな優しい人だった』
『お姿も素敵だったわ。笑顔もまるで太陽のように明るくてあたたかい』
『嗚呼……私、あの人と一緒になるのね』
徐々に赤らんでいく頬。
胸に当てた手をぎゅっと握って、まるで幸せを噛み締めるように笑う。
そう。その姿はまるで恋をする乙女であった。
意中の相手に身を焦がし、待ち遠しくて落ち着かない。
人を、他人を、誰かを、想っている姿。
それ以上見ていられなくて私は光に背を向けた。
うずくまって、目を閉じて、両の手で耳を押さえて、何もかもを遮断する。
泣いてしまいそうだった。
そこにあるのはいつかの、遠い昔に置いてきた夢に見た私。
素敵な方に出会って、恋をして、結ばれることを願う、何処にでもいる娘。
“魔女”ではない私でなければなれない私。
もう絶対に手に入ることはない“幸せ”を得ている私。
ずくずくと胸に鈍い痛みが染み込んでいく。
苦しいけれど涙は出なかった。
この私は泣くことすら忘れてしまっている。
そうそれが私であるはずだ。
人ではなくなった“魔女”。
笑うことも泣くこともできない人じゃないもの。
目を開けて背後を見る。そこには何もなかった。ただ暗闇だけが広がっている。
でも、また光が現れたら。
恐怖に私は這うようにしながら走り出す。
何もない場所を走って、走って、走って。
もう前に進んでいるのかも分からなくなって、どんどん足が重くなっていくのに合わせて勢いを無くして、痛みを感じて足を止めてしまう。
息は上がって、苦しくて、その場にペタリと座り込む。
どうして、今更あんなものを見せられたのだろう?
あの日から夢だって見なくなったのに、どうしてこんなに質の悪い幻覚のようなものを。
「多分、意地悪がしたかったのでしょうね」
聞いたことのない声がすぐ傍から聞こえた。
慌てて周囲を見渡せば、座り込んだ私の後ろに知らない人間が立っていた。
背の高い男性。
身なりは良く、一目で位の高い人間だと分かる。
顔にはところどころ小皺が目立つ。青い瞳は真っ直ぐに私の方を向いていた。
「……誰……ですか……」
未だ荒い呼吸で声を絞り出す。
怖い。
だって、この人は笑っている。
“魔女”の私を見て、笑顔でいられる人間なんていない。それなのに。
男は少し困ったような顔をした後ゆっくりと笑んだ。
まるで敵意はないとでも言うように。
「難しい質問ですね。近い答えで言えば貴女の縁者ということになるかもしれませんが……果たして今の状態でそれが正しい形なのかはとても難しい」
「縁者…………?」
私は必死で頭を巡らせ記憶を辿る。けれどどんなに思い出しても父の血縁にも、母の血縁にもいま目の前にいる男性がいた覚えはない。
会った事のない親戚などはいないはずだ。
遠い血縁でも、一度は出会っている。
だけど朧げな記憶には彼に合致する姿はない。
体を引きずって彼から少し離れると再び彼が困ったような顔になった。
「貴女から見たら怪しいでしょうが、害意はありません。
なんならこの先話す間、絶対に貴女には指一本でも触れないと約束いたしましょう。
ですので少し警戒を解いてもらえませんか?」
にっこりと穏やかな笑みを浮かべる男性。
不思議と彼は嘘をついていないという確信が私の中にある。
根拠はない。でもこの人は絶対に嘘をつかない。
信用ができる。
あんなに怖かったはずなのに、いつの間にか恐怖は消えて、逆にホッとしている私がいた。
理由はないけど、間違いではないだろう。
私の沈黙を受けて彼の顔が再び穏やかな笑顔に戻る。
「良かった。これで逃げられてしまったらどうしようかと思ったのです。
追いつくことは容易ですが、貴女くらいの女性がこのような男に追いかけられたら怖いでしょう?
怯えられるのは本意では有りませんから」
「……逃げない代わりに、お聞きしてもよろしいかしら?」
「なんでしょう?」
先程よりもずっと落ち着いた気持ちで私は男性に向かい合う。
「……先ほど貴女の言った、貴女が私の……縁者であることに間違いはないのですか?」
「ええ。間違いはないです」
「……でも、貴女と出会った覚えが私にはありません」
「それはそうでしょう。縁者といっても貴女から見た私はずっと昔の先祖にあたる人間ですから」
「え……?」
先祖?
その言葉を受けて先ほどとは違う記憶の糸を手繰る。
王宮に飾られていた歴代の王の肖像画。
小さな頃によく絵を見比べて遊んでいた。
だからお父様から順番に遡ることは出来る。
1人、2人、3人……ゆっくりと思い出し目の前にいる男性の顔と照らし合わせる。
違う、違うと何度か繰り返し、ふと記憶と男性の顔が重なった。確か、彼の王の別称は……。
「賢王さま……?」
「ああ、惜しいですね。とてもとても惜しいです。
でもよく覚えていましたね。ここに貴方を知る誰かがいればさぞ鼻を高くしたでしょう」
「それは、どうかしら……あ、えっと、違うわ。惜しいってどういうことなのですか?」
「……後の世に賢き王と名高いその人は私の弟……そう、私はその当時王位継承権を捨てざるをえなかった王子であり、賢王の治世を手助けした歴史に名の残らない男。
いやいや、よく似た兄弟と言われていましたが……子孫である貴女に言われるとくすぐったいものですね」
よほど嬉しかったのか男性はニコニコと微笑む。
その顔を見ながら私は、困惑した。
確かに見れば見るほど肖像画の賢王と似た顔立ちをしている。
でもなぜそのような人がいま私の目の前で私に語りかけているのだろう。
そもそもこの空間はなんなのか。
どうして私と彼しかいないのか。
それに、さっき見たアレは、私のような有り得ない私は何なのか。
「色んなことが気になって何から聞いたらよいか分からない、と言った顔ですね」
「えっ……!?」
「ああ、すみません。人の顔を伺うのが癖になっているせいですかね、表情から察してしまうのですよ。
けれど女性に対して不躾でしたね。申し訳ない」
「そ、そんな……謝ってもらうほどのことでは……」
自分より背の高い男性、しかも先祖だという偉大な人間に頭を下げられて驚いてしまう。
顔を上げて欲しいと言おうとして、そういえば彼をどう呼べばいいか分からないことに気づいた。
名前は知っている。
ご先祖様のお名前は覚えられる限り頭に入れているから。
けれどその名前を直接呼ぶのは失礼にあたるだろう。
「え、えっと……何とお呼びすればよろしいのでしょうか……賢王さまの弟君となると……お祖父様……かしら?」
自分で言っておいて違和感が強い。
頭では何代も前の人物だとわかっていても、目の前に立っているその姿にはとても似合わない。
うんうんと唸る私を目の前の人物はとても楽しげな笑みを浮かべて見てくる。
まるで小さな頃に臣下の前では「お父様」ではなく「国王」と呼びなさいと正された時の父の顔のようだ。
こっちは真剣に悩んでいるのに、その姿が微笑ましい、そんな親が見守るような優しい表情。
不思議と温かい気持ちになる、久しく忘れていた慈愛を向けられて思わず目をぱちぱちしてしまう。
「ふふ、これ以上いじめても可哀想ですね。お祖父様でいいですよ。
貴女は私の弟の直系の子孫ですしね……もっとも、正確な話をすれば私はその人物その人とは異なるのですが。
愛し子シエール。貴女は自身を正しく認識できていますか?」
「そ、それは……どういう……?」
「思い出して。貴女は、一体いつからここにいるのでしょう?」
「いつから……?」
問われて首を傾げる。
目が覚めたらここにいた。
だからそれ以上前からここにいたという記憶はない。
目を覚ます前の私は離宮にいた。
時間を凍りつかせた孤独な、いや、1人だけ途中から私の時間を動かす人がいた。
彼は私の手を引いて、その日2度目の訪れとなる花畑に連れて行って。
そして私が魔力を手放すと同時に、
―――――――――ッッッッッッッッッッ!!!!!
突然体が引き裂かれるような痛みが全身に走る。
息ができない。
視界が明滅して何も見えない。
立っているのか座ってしまったかも分からなくなる。
上も下も右も左も分からない。
私は、ワタクシは、わたくしは。
「シエール」
名前を呼ばれてハッとそちらに意識を向ける。
でも、その声はいつも聞いていた彼の声じゃない。
心配そうにこちらを見つめる瞳も、優しく肩に触れる手のひらも、全部彼とは違う。
相変わらず暗闇の中に私はいた。
けれど自分を認識した私の瞳からは涙が落ちていく。
消えていく姿を見送るしかなかった時のように次々と雫が頬を伝って何もない空間に消えていく。
私は私を正確に理解した。
私はシエール。その、手放した魔力の、残滓だ。
先ほど見た私とは違う私こそが、現在を生きる正しいシエールの姿。
魔女とされたシエールを捨てた、魔力のことも、大事な友人のことも覚えていない今のシエール。
「意地悪ですよね。身勝手に愛を押し付けておいてその愛を要らないと言えばその罰と言いたげに酷い物を見せつけるのですから」
「……お祖父様、貴方も……私と……」
「ええ、同じですよシエール。愛を手放す方法を見つけ書き記し……その後自らも実行した男の魔力の……その記憶です。
私の場合覚えていた人物が亡くなっているのでね、ただ漂うだけの空気のような存在です。
ですが貴女は事情が違う。
シエールという女性が愛を捨てることを覚えていたのが、その女性の魔力によって創られた存在だった。
よって愛が離れると同時に覚えていなければいけない……咎を背負うための人物が消滅してしまった。
前例のない事態に貴女の内にあった愛は行く当てを無くしこの空間を作った。
ここは貴女を責める場所であり、貴女とまだいたいという愛の身勝手が作った寄る辺なのです」
改めて己のいる場所を見渡す。
先祖の姿を取った魔力以外ただ黒に塗りつぶされた暗闇。
魔力を発現したシエールがずっと心に抱き続けていた孤独を色にしたような場所。
「貴女は正しく自分を認識できた。なら此処から出る手段も簡単だ。
手放す時と同じように思えばいい。今度は覚えていて貰う人物も必要ない」
その声は嘘をついていない。
だけど心に小さな引っかかりを感じて彼を見上げる。
穏やかにこちらを見つめる瞳がじっと私を見続けている。
どうして彼は私を見ているのだろう。
「……私がシエールの魔力の記憶であることは理解いたしました。
でも、ではなぜお祖父様……貴女は私の魔力が作った空間に貴方がいるのでしょうか?
私に自分がどういうものか理解させるため、ですか?」
「……それも喚ばれた理由の一つではあります」
「それ以外の何かが有るのですか……?」
「ええ、そうですよシエール。この場所を消してしまう前に気づけた貴女にはそれを教えてもいいでしょう」
すっと彼は私の胸を指さす。
視線を落として自分を見る。
見慣れたドレスに身を包んだ姿だけがそこにはある。
でも、何かが違うような気がした。
じっと目を凝らす私に彼は言う。
「貴女は本来誰かがしばらく現世に持っていなければいけなかった記憶。
だけど持っている存在が消えたことにより貴女はすぐに現世から消えることになった。
だから無意識に、生存本能を真似してソレにしがみつこうとしたのでしょう。
流されそうになって掴まった板と共に流された貴女はその板を掴んでいることをやっと思い出せるのです。
だって貴女は目を開いたから」
ソレと呼ばれたモノ、違和感の正体に気づいて私は顔を上げる。
すると傍らにいたはずのお祖父様の姿はゆっくり薄れ始めていた。
役目を終えたからだと瞬時に理解する。
「此処での出来事は夢よりも不確かでこの世界には必要のない情報でしょう。
それでも、私と言う記憶はあなたと言葉が交わせて良かったと思っていますよ。
愛し子。私だった人間が憂いた未来に生まれてしまい愛されてしまった少女。
シエール。
貴女の選択は貴女だけのもの。
大事になさい。ただの記憶であるとしても許されることがあるのなら強欲に掴みなさい。
ただ意地悪をされるばかりでは不公平ですからね」
最後に優しく笑って彼は煙が風に乗っていくようにかき消えた。
暗闇には私だけ。
いや、正確には私と、私という記憶がしがみついた手放したくなかった、ソレの二人きり。
「……気付くのに遅れてごめんなさい」
私は自分の胸の上に手を置いて、そのまま手を自分の体の中に沈める。
痛みはない。胸に手が入っていると言う感覚もない。
だけど沈めた手に触れた温度はしっかり感じた。
その温もりを両手で包み込んでそっと胸の内から取り出す。
そっと両手を開けば、ソレは青く輝きながら、か細く揺れる火のような形をしていた。
「ウルス」
目頭が熱くなって泣いてしまうそうになるのをギュッと堪える。
かつて彼女の魔力によって創られた初めてで唯一のお友達。
彼の存在は確かに消滅したが、騎士として彼女の傍に居た彼の一部は生きていた人間だった。
その魔力とは関係のない欠片がいま私の手の中で小さく存在している。
この欠片の中にウルスという騎士の記憶は存在していない。
人間の形を取れていないことがその証拠だ。
小さな欠片にあるのは最初に生まれた時から最後まで向けられていたシエールへの“親愛”。
これだけでは魂にもなれず、転生もできずただ消滅してしまうことだろう。
「……貴方の献身はきっとその先を望んではいないのでしょう……。
でも、私は……あの時のシエールは確かに願ったのよ」
“消えないで”
「貴方だけが私の友達だった。ずっと傍に居てくれた。
燃やされても姿を変えるなんて無茶をして、ずっと約束を守ってくれた。
でも、その約束が一方通行なんて今の私には悲しすぎるのよ」
温かさを感じながら目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは平凡で、だけど火傷痕が目を引く少年の姿。
姫の咎を背負って消えた騎士の姿。
「今度は私が傍にいるわ。貴方の姿も声も私が覚えている。
貴方が何も覚えてなくてもいい。貴方が私にそれを求めなかったように、そこに居て、幸せになって欲しいの。
笑っている姿を見ていたいのよ。ウルス」
私は願う。
私にしがみついていた魔力が小さな灯火に活力を注いでいく。
手のひらから離れて、目の前で炎の中から、いや炎が人の姿に変わっていく。
目を閉じてそこに立つのは記憶に残るそのままのウルスという少年だった。
その手を取って、強く握りしめる。
「さぁ、行きましょう私の大事な友達。
今度こそ……一緒に生きましょう。私が全部覚えているから」
暗闇に亀裂が走る。
眩い光が二人の空間を包み込んでいく。
そしてそのまま光に流されていく。
記憶が魂となって現代から離れていく。
いつかの未来に生まれ落ちるために。
その先を知る権利を持つのは、未来に生まれ落ちた人間だけだ。