男は甘やかすと付け上がる。婚約破棄した伯爵令嬢は自分を大切にしてくれる人と幸せになる。
「やぁ、お待たせ」
カフェの椅子に座っているレディンシアに向かって声をかければ、彼女はぱぁっと表情を明るくする。
金の柔らかな髪に、薄い青い瞳。小柄な可愛い婚約者の彼女をうっかり1時間待たせてしまった。いや、今日は待たせなかった方か。いつもは2~3時間待たせたり、うっかり忘れてしまったりしている。
「いえ、読書をしていたので、退屈しませんでしたわ」
カフェのテーブルに本を置き、花のほころぶ笑顔を浮かべてそう答える私の婚約者はとても優しい。
街でのデートの時だって待ち合わせに私が何時間遅れても時には忘れてしまっても、にこやかに笑って許してくれる愛しいレディンシア。
テリー・アンシャル伯爵令息である自分と、レディンシア・パレス伯爵令嬢である彼女との婚約は二年前に決められた家と家同士の政略だ。
私は一目で可愛らしい同い年のレディンシアの事を気に入ってしまった。
なんて小柄で、思わず守ってあげたくなるそんな容姿で。
そして彼女はとても優しいのだ。
待ち合わせだけでない。パレス伯爵家で行われたお誕生日パーティの出席をうっかり忘れた時だって、そういう事もありますわと、許してくれたのだ。
単にうっかり忘れていただけなのだが。その日は街へ友達と繰り出して、川を上ってくる魔物の魚の大群を見に行っていた。
忘れたって仕方がない。一週間程しか見られない魔物の魚が川をさかのぼる様は見事な物で。私だって見たかったのだから。
テリーは17歳。婚約者のレディンシアも17歳。
王立学園で共にお昼を食べると約束をしているので、毎日、レディンシアがお弁当を用意していてくれる。色々と栄養バランスを考えられた豪華で美味しいお弁当だ。
その時はちゃんと一緒にお昼を食べるんだけれども。
ついつい、デートの約束とか、忘れてしまうのだ。
「私はテリー様を思って待っている時間も、楽しいですから。気にしなくていいですよ」
そう言ってくれる婚約者、愛しいレディンシア。
本当に優しくて可愛い婚約者に恵まれて、テリーは幸せだったのだが。
王立学園でやたらと高位貴族にベタベタしてくる桃色の髪の男爵家の令嬢がいた。
今まで、テリーは関係ないと思っていたのだが、その男爵令嬢マリーアに声をかけられたのだ。
「テリー様ぁ。私と一緒にお昼を食べませんか。美味しいクッキーを作ってきたのですう」
「いや、お昼は婚約者と……」
「一日位、いいじゃないですか。クッキーはとても美味しいですよ」
優しいレディンシアの事だ。
たまには別の女性とお昼を食べても許してくれるだろう。
レディンシアがお昼になって近寄って来た。
テリーはレディンシアに向かって、
「私は今日は別の者と昼ご飯を食べるので」
「解りましたわ」
こうして、男爵令嬢マリーアと共に食堂でお昼ご飯を食べる。
手作りのサンドイッチに、クッキー。
お世辞にも美味しいとはいえなかったが、彼女の胸の谷間が素晴らしかった。
思わずそちらへ目が行ってしまう。
マリーアが頬を赤くして、
「やーーん。変な所を見ないで下さいっ」
「いや、そんなに胸元を開けていたら」
「大きいって言われるんですう。悩みなんですう」
「魅力的だと思うぞ」
レディンシアの胸は慎ましやかだから、とてもマリーアの胸が新鮮で。
こんな胸に顔をうずめてみたいと思うのは男の本能だよな。
優しいレディンシアなら、マリーアの胸にちょっと顔を埋めても許してくれるよな。
思わずマリーアの傍に行き、甘えるようにその豊満な胸に顔を埋めるテリー。
「きゃぁ恥ずかしい」
いやはや、本当に幸せだった。
マリーアが優しく髪を撫でてくれて、
「テリー様ぁ。マリーアとお付き合いしてくれる?」
「ああ、いいよ。私は婚約者がいるんだが、とても優しいんだ。きっと許してくれるさ」
「嬉しいっ」
翌日の昼、
「これからはお昼は別の者と食べるから、お弁当を用意しなくていいよ」
とレディンシアに言ったら、レディンシアは頷いて、
「テリー様にはテリー様のお付き合いがありますから」
「すまないね」
こうして、堂々と昼休みマリーアとイチャイチャしながら、ベンチでお弁当やお菓子を食べた。
美味しいお弁当やお菓子ではないが、マリーアの胸に甘える事が出来るのなら、我慢するしかない。
美味しいお弁当が食べたい。
そうだ、レディンシアにお弁当だけは作って貰おう。
レディンシアとはクラスが違う。
放課後、教室へ向かえば、レディンシアは他の生徒達と共に帰る支度をしていた。
「レディンシアっ」
「あら、テリー様。何用でしょう」
「昼は別の者と食べるが、君の作るお弁当は絶品だから、これからも用意して欲しい」
「私、朝早くに起きてお弁当を手作りしておりますの。料理人に作らせてもいいのですけど、愛するテリー様のお弁当は自分で作りたくて。テリー様の為に作りますわ」
「嬉しいよ。レディンシア」
レディンシアが愛する自分に食べて貰えるお弁当も幸せだろう。
テリーはレディンシアにこれからも美味しいお弁当を作って貰えるように約束した。
そうだ。きっと優しいレディンシアの事だ。卒業したら結婚する事になっているが、マリーアの事を愛人にしたいと言えば許してくれるのではないのか?
レディンシアの家、パレス伯爵領は鉱山から金塊が見つかったとかで、とても潤っているのだ。
だから、貧乏伯爵家のテリーの家、アンシャル伯爵は、パレス伯爵と仲が良かったので、婚約を結ぶことになった。
持参金もたっぷりとつけてくれる。
レディンシアの持参金があれば、アンシャル伯爵領も立て直せるだろう。
その金で愛しいマリーアを愛人として囲ってもいい。
そんなこんなでいよいよ卒業式も近くなった頃、父であるアンシャル伯爵に呼ばれて、部屋に赴けば、そこにはパレス伯爵夫妻とレディンシアが何故かいた。
「何だ?今日来るなんて聞いていないぞ」
レディンシアはにこやかに、
「これからの事を相談したいと思いまして、今日は参りましたの」
「相談って」
「貴方には我が伯爵家に婿入りして貰うわ」
「え?君が嫁入りしてくるのではないのか?私はこの伯爵家の跡継ぎだ」
父のアンシェル伯爵は、
「お前の弟に継がせればよかろう。あちらがお前をお望みだ」
パレス伯爵夫妻も頷いている。
パレス伯爵はテリーに向かって、
「私は娘の希望を叶えてやりたいと思っていましてね」
テリーは慌てて、
「し、しかし、レディンシア。君には兄がいるだろう?」
「私、爵位はいらないと兄に言いましたわ。ただ、領地の屋敷の隣に私達用の家を建てて下さいとお兄様に頼みましたの。お兄様は喜んで建ててくれると。私はお兄様の領地経営を手伝う事にしましたわ」
「え?それじゃ私との結婚は」
「勿論、継ぐ爵位はないけれども、婿入りして頂きますわよ。私の夫として」
「だったら、愛しいマリーアを愛人にする件は?」
すると、今まで見た事もない形相で、レディンシアに睨まれた。
「貴方に愛されていないって私、解っていたの。私とのデートは遅れる、忘れる。お誕生日パーティなんて来てもくれなかったわ。お昼も別の女性とイチャイチャしながら食べていたって、彼女を愛人にしたいんですって?私と貴方との生活にアレはいらない。うふふふふふふ。うふふふふふふふふ。素敵な御部屋を用意致しましたの。楽しみにしていて下さいな」
ぞっとした。どういう部屋を用意したんだ?
怖くなってアンシェル伯爵家を急いで出ると走り出す。
逃げなくては。逃げなくては。遠くへ遠くへ出来るだけ遠くへ……
二日後、レディンシアは親友の伯爵令嬢と共に、カフェでお茶をしていた。
親友エレナーデ・ラットス伯爵令嬢は、
「だから、言ったじゃない。甘やかすのは良くないって」
「でも、私、本当に好きだったの。テリー様の事。だから、一生懸命何でも許そうとして」
「男ってね。甘やかすと付け上がるのよ。で?元婚約者はどうなったの?」
「家を飛び出たみたいでまだ見つからないわ。まぁ彼がひとりで生きていける訳はないんだから、ほとぼりが冷めた後、家に戻ってくるでしょう。婚約破棄して差し上げたので、もう私と彼は関係ないわ」
涙がこぼれる。
本当に愛していた。だから、尽くして尽くして。待って待って待って。どんな目にあっても、彼は結婚するんだから、いつか自分だけを愛してくれると思っていた。
それなのに……
「彼ね。愛人を囲おうとしていたのよ」
カフェオレのカップを手に、ぽつりと言えば、エレナーデは、
「王立学園でいちゃついていたあの?」
「ええ。まぁ彼女は今頃……」
「そうね。パレス伯爵家を怒らせたんですもの」
レディンシアは空を見上げる。マリーアの家、クリフ男爵家。商売の邪魔をして、家が消えるのも時間の問題だ。マリーアは借金の形に娼館に売られるだろう。
レディンシアはため息をついて、
「私、今度はいい方に出会えるかしら」
「ま、パレス伯爵家と縁を結びたがる家は多いでしょうね。そうそう、私の兄とか如何かしら。隣国に仕事をしに行っていたのだけど。戻ってくるのよ」
「あら、それは素敵ね」
レディンシアは、エレナーデの紹介で彼女の兄にまずは会う事にした。
待ち合わせはエレナーデとお茶をしたカフェである。
時間よりちょっと早く着いたレディンシア。
そこには先にお茶をしていたのであろう。端のテラス席で金髪碧眼の整った容姿の男性が、目印の赤の薔薇の花を胸に挿していて、レディンシアを見つけると、立ち上がり、
「妹から聞いている。私がエレナーデの兄、エリオス・ラットスだ。君より五つ歳上だ。隣国に仕事の関係で行っていてね。あ、立ち話もなんだ」
テラス席の椅子を引いて、
「さぁどうぞ」
レディンシアは椅子に座る。
初対面の彼との会話は楽しかった。
レディンシアの事を色々と聞きながらも、自己紹介を兼ねて、楽しい話をしてくれた。
隣国はどのように栄えているとか。どのような事を仕事でしているとか。
「まぁ、隣国で絹を研究してきたのですね」
「ああ、それを我が領地の特産にしようと思っていてね」
時間も忘れて話が弾み、いつの間にか日が傾いて来た。
パレス伯爵家の馬車が迎えに来たようで。ちょっと離れて護衛をしていた女性の護衛に声をかけられる。
「お嬢様。お帰りの時間です」
レディンシアは立ち上がり、
「エリオス様。今日は楽しかったわ」
「私も楽しかったよ」
夕日に照らされた彼の顔はとても美しくて。
また、会う約束をした。
何度か彼と会っているうちに、大切にされていると感じる事があって。
親友のエレナーデに、
「お兄様、とても素敵ね。有難う。エレナーデ」
「貴方と義理の姉妹になれるだなんて嬉しいわ」
そして卒業パーティ用に、エリオスはレディンシアにとても美しい紺から橙、金色のグラデーションの色合いの素敵なドレスをプレゼントしてくれた。
ついカフェでおしゃべりしていると日が暮れてしまう。
二人でカフェのテラスから夕日を眺めて。
又、会う約束をして。
幸せだった。
正式に婚約話も出ていて。学園を卒業しすぐに婚約したら嫁ぐ準備期間を置き、二月程で結婚することになって。
そして、いよいよ卒業パーティ。
卒業パーティで、家出をしていた元婚約者、テリーが近づいて来た。
「考え直してくれないか。君は私を愛しているのだろう?変な事を考えずに、我がアンシェル伯爵家へ嫁に来てくれればいいんだ。愛人にする予定だったマリーアの事は諦める。だから、レディンシア」
レディンシアはエリオスにエスコートされながら、しっかりとテリーに向かって、
「エリオス様は私の事をとても大切にして下さいます。待ち合わせをしても時間前に来てくれますし、誕生パーティも真っ先に駆けつけてくれて。愛される事ってとても幸せ。ですから、貴方の事はもう他人ですわ。私の事は構わないで下さいませ。アンシェル伯爵令息」
「レディンシアっ」
エリオスが前に出て庇ってくれた。
「男は甘やかすと付け上がるからね。君は付け上がって、レディンシアを大切にしなかった。私はレディンシアを大切にするよ」
レディンシアも愛し気にエリオスを見上げ、
「本当に男性の方って甘やかすと付け上がるのですね。私はもう間違えない。エリオス様を甘やかしたりは致しませんわ」
「私が君を待たせた事はあったかい?君を大事にしなかった事はあったかい?」
「いえ。そんな事は」
そして、テリーの事を睨みつける。
「もう、私に二度と関わらないで下さいませ。私は私を大切にしてくれる方と幸せになります」
テリーはがくっと膝をついて、俯いた。
レディンシアは後にエリオスと結婚し、一男一女に恵まれた。
決してエリオスを甘やかしすぎず、エリオスもちゃんと分を心得ていて。
互いに互いを思いやり、幸せな人生を送ったとされている。
テリーは男が内股になってしまうという辺境騎士団へ強制的に送られて、すっかりそこに馴染んで一生独身で過ごしたという。