メタフィクショナルアイデンティティ・クライシス
なんだかんだ初めてのメタフィクション。ストーリー的なものは相変わらずないけれど、今までよりも物語味はある…たぶん。思い付きのアイデンティティが雪よりも早く溶ける話。
日はようやく沈み、虫の鳴く声が賑やかさを増していくのとは対照的に、闇は熱を奪いながら夜の帳が下りてゆく。道路は安寧を求めて進む者の紅白の光に満ち溢れ、まるで輝く大蛇が這うように動く。
俺は知っている。この世界は小説内で俺は主人公なのだ。
規則正しく明滅する三色の標は光の群れを指揮し、光は形を崩しながらも、黄色から赤へと指揮棒が振られれば、再び緩やかに形作り、規則正しく安全へと導いてゆく。
まずは自己紹介せねばなるまい。唯野博。大学生。22歳。就職活動に追われながら、卒業研究にも追われている。人生は…諦めている。
光の大蛇の傍らには闇に紛れて蠢く人々がどこかを目指し、互いに擦れ違いながら歩いている。彼らが互いを見つめる目は無機的であり、さながら0と1で電子信号で形造られるゲームのように無意識的にぶつからない様に動いている。それはさながら、互いに衝突することで引き起こされる人生の転機を避けているようでもある。
平凡な人生を歩んできたつもりだが、どこで間違えたのか今まで払っていなかったツケを払わされるように、今は追い詰められている。どうしてだろう。
興味深いことにそんな変化も意思も感じられない映像だが、その無秩序に見える闇に蠢く者たちの一人ひとりはよく見てみると、姿かたちがそれぞれ違い、さらには目に見えないその内面においてはより一層その多様性を発揮するのであった。ここでの内面とはより詳細なその生物的な特徴ではない。遺伝子的におよそ0.1%しかない違いのことではない。そうではなくて、より移ろいやすく儚く、長期的に見たときには同じ人物であっても、ある時点とその人生の最後においては全くの別物へとダイナミックに変貌するにもかかわらず、一つの一貫性があると信じられているものだ。
だが今はそのようなものは重要ではない。なぜなら、俺は気づいてしまったのだ。この世界はついさっき2021/11/7に作られたものであり、ある意味において現在進行形で作られているものである、と。例え、今が8月9日で、しかも2018年であったとしてもだ。奇妙なことだが、おそらく正しい。なぜなら、俺はこの世界の主人公であるに違いないからだ。「わかる」のだ。自分の人生などというものが作りもので、過去というものがなく、ついさっきまで平凡な人生だと感じていた数々の自分を形作ってきた思い出などというものが捏造されたものであるということが。
内面といえば人格だ。人格という概念は、己を知りたいという根源的な欲望に突き動かされて、あるいは冷笑的に見るのであれば他者に対してレッテルを張って分別したいという根源的な欲望に突き動かされて、心理学において様々な理論が誕生した。特性論に基づくビッグファイブ理論などはその理論を構築する過程において辞書に記載されている人格に関する形容詞を因子分析にかけてその因子を「開放性」、「誠実性」、「外向性」、「協調性」、「神経症傾向」へと絞り込んだのであった。
信号を渡る。大学を出て、神楽坂方面へと飲みに繰り出してゆく連中をよそに俺はJR飯田橋駅のほうへと歩いてゆく。なんという気付きであったか。もしかすると天啓かもしれない。俺の人生は詰んだものだとばかり考えていたが、体験をしたことはないがこれからいつものようにトラックに跳ねられて異世界に行ったりするのかもしれない。あるいは、駅のホームで後ろから薬をやってイカレてる奴に突き飛ばされて、異世界へ…なんてことなのかもしれない。何が起きてもおかしくない。なんて言ったってここは「小説家になろう」なのだから。マジかよ…震えてきやがった。
ここでの内面は、そのような人格を構成する特性の偏りによる多様性については話題にしない。そうではなくて、もっと自由に一般的な常識や科学的に裏打ちされた概念から離れて、この人口13,839,323人いる都市である東京都のJR飯田橋駅前の牛込橋から見える景色の雑踏の個人について思いを巡らせるのがこの小説の趣旨である。
どこか挙動不審に辺りを見渡しながら歩く、俺のテスト明けのオアシスであるサーティワンアイスクリームの前を過ぎ、ドトールを過ぎる。今まで何も変わらないと思ってたのに、気づいた途端引き返せない世界に足を踏み込んでいたとは。その時、視界の端で何かが飛び出してきた。思わず「ああ゛っ!」って情けない声を出しながら見ると、大学に行き始めて以来見たことがない大きさの丸々と太ったドブネズミが道を横切って行った。
ぞんざいに「雑踏」などと呼ばれる、街を行く者たちが立てる足音が確かに個々人の人生の一瞬であり、同時に主観的には変化に乏しい日常の一場面でありながら、その日常というのがそれぞれに違い、現実として帰る家も多くの場合において違うというのは当たり前でありながら、興味深いことである。その事実は「雑踏」などと一括りに映像的な現象として扱っていた思考を、個人一人ひとりへと見事にばらしてみせるのだ。
俺は走り去って小さくなってゆく、かつては自分の拳より大きかったドブネズミを呆然と眺めながら、安堵のため息をついていた。情けない。一瞬思考のすべてが真っ白にはじけ飛んでしまった。さっきまで万能感を感じるほどに熱していた思考が冷めてしまう。しかし、とてつもないデカさだった。ドブネズミなどというものを見るのは人生で初めてだったが、あれほどまでにデカいものなのか?ハムスターなんて比較にならないぐらい、2周りもデカかったぞ。少し急な階段を下りながら、ぼんやりと今日、昼食を食べながらスマホで読んでいた小説を思い出す。
人は他者の内面を直接感じることはない。けれども、ものの見方によって間接的にではあるがその存在を感じることができるのだ。それは決してその存在証明となるような確固たる事実としてなりえるものではないけれど、長くても高々100年ほどの時を耐えられないほど頼りない考え方ではないと思うのだ。
タイトルはなんだったか。忘れてしまった。もう300話以上は読んでいるはずなのに。明日は金曜日。誰も飲む相手はいないが花金の賑やかさは嫌いじゃない。たまには帰りにサーティワンでアイス買って帰るか。
参考文献欄
「「東京都の人口(推計)」の概要(平成30年8月1日現在)」(2021/11/7/21:42閲覧)
https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/08/27/05.html
たぶん、青年は主人公ではないと思う。何者なのでしょうね。