婚約者の憂鬱
緑のリボン。赤く染まった頬。
それで、誰のリボンなのか朧気に分かった。だから解いた。三つ編みは歪んでなんかいなかったし、結び直してあげようなんてこれっぽちも思っていなかった。
でも、青ざめるリーンの顔を見てすぐに後悔した。リーンが悲しむのは何より嫌だ。
あんなリボン捨てればいいのに。思いながらレモンパイをつついていると、怪訝な目を向けられた。
「……何か顔についてますか?」
「いや別に」
無意識にリーンを見ていたらしい。慌てて目を逸らし、アイヴァンは誤魔化すように笑った。
「昔は君、自分でタルトを作ろうとして火傷して大騒ぎになったよね」
「……ずいぶん昔の話を蒸し返さないでください」
気まずそうにリーンは眉をひそめた。リーンはそういうところは不器用なのだ。火傷の痛みに泣いていたリーンが、アイヴァンが見た唯一のリーンの泣き顔だった。
彼女は滅多に泣かない。婚約者のはずのアイヴァンの前でも、家族の前でも泣かないらしい。
リーンは強いから。彼女の父親はそう言うが、アイヴァンはそうは思わない。リーンは我慢強いだけで、周りを気にせず生きられるような強さを持っているわけではない。
――だから。
アイヴァンにだけでも弱みを見せればいいと思うのに、そうは上手くいかなかった。リーンと会うたびに、弱みを打ち明けられる相手と思われていないことを痛感して、辛くなる。
リーンが頼れるように変わろうとしたのに、リーンの中ではまだ泣き虫だった頃のままなのだろうか。
そう思うと無性に腹が立って、やりきれなくなった。
紅茶に映る自分の顔が少し険しいのを見て、アイヴァンは咄嗟に笑みを作った。
「リーン、ちょっとこっちへ来て」
「……なんですか?」
あからさまに警戒するリーンに苦笑する。それでも、しぶしぶという風にリーンは立ち上がった。アイヴァンも立ち上がると、リーンの背後に回る。
「ちょっと、髪を上げて」
「こうですか?」
露わになった白いうなじ。警戒するくせに、こういうところは抜けている。アイヴァンは少し苦笑し、そのままで、と言った。
こっそり持っていた箱からネックレスを取り出すと、慎重にリーンの首元に回し、留め具を首の後ろでつける。
「どう?」
「綺麗ですわ」
鎖骨の間、くぼみに収まっている赤い宝石の嵌まったネックレスは、リーンに良く似合っていた。美しい赤の瞳と合っている。
「やっぱり似合うね。僕の見立てだ」
満足そうに頷くアイヴァンを見て、リーンも少し笑う。
「ありがとうございます。急なので、私は何も用意できませんでしたが――」
「ああ別にいいよ。僕が、付けたところを見たかっただけだし」
「……そういうのが軽薄なんですわ」
君にしか言っていない。そう返そうとした言葉を呑み込んだ。
どうせ信じてくれないのだろう。この前嫌と言うほどそれを知らされた。リーンはアイヴァンを見ない。アイヴァンが、リーンを好きだとどれほど言っても、冗談だと思われて終わりだろう。自分が好かれているわけがないと思い込んでいるのが、アイヴァンには信じられなかった。
ついでに、あのすまし顔の執事に想いを寄せているのも、信じられない。
「リーン」
「はい?」
「君は、僕の婚約者なんだよね?」
「そうですわ」
「……なら」
僕だけを見ていればいいのに、と思っても、言う勇気は無い。根は、泣いてばかりいた頃と何も変われていないのだ。
言う代わりに、リーンの白魚のようになめらかな手を取る。指を絡ませて、弄ぶように親指で柔らかな手のひらを撫でると、徐々にリーンの白い頬が赤くなる。肩に頭を凭せかけると、リーンの華奢な肩が少しだけ震えた。
「……あの」
「なに?」
「……なんか、やです」
「何が?」
「……手が、いや、です」
「昔と一緒だよ」
「……」
リーンが固まる。肩が再び震え、それから自由な左手でアイヴァンの身体を押しやった。
だいぶ非力だったが、これ以上近くにいるとアイヴァンの自制心も危うくなりそうだったので、大人しく押しやられる。
リーンの顔は、見たことないほど赤く染まっていた。耳まで真っ赤で、目は潤んでいる。その表情に呆気にとられ、アイヴァンは絶句した。
鈍感なリーンに対する意趣返しのつもりだったが、その顔を見て、アイヴァンも狼狽える。何をしてもリーンが動揺することはないと、高を括っていたのだ。
驚きと混乱でプルプル震えながら、リーンは無言でアイヴァンの背中を押した。そのまま部屋から押し出されそうになり、アイヴァンは慌てて言った。
「ちょ、ちょっと待っ――」
「待ちませんわ。このっ――」
リーンの目が、アイヴァンを睨んだ。
「軽薄男! ばか! 二度とその面見せないでちょうだい!」
蹴りだされるように、部屋から追い出される。外にはゼンが立っていた。たぶん、用があればいつでも行けるように待機していたのだろう。
「……お嬢様に何なさったんですか?」
呆れ顔で訊ねられ、アイヴァンはむっとして黙り込んだ。
お前にだけは教えてやるか、という無言の敵意を感じて、ゼンは黙って頭を下げた。