突然の訪問
「おはようございます」
不意打ちにゼンと会って、リーンは「ひえっ」と声を上げて廊下にしゃがみ込んだ。
寝癖し放題の髪を押さえる。これならちゃんと支度をしたのに、今日は何も用事がないから油断していた。
「……何なさってるんですか?」
怪訝そうな声が降って来る。リーンは顔を赤くして、ちらっとゼンを見上げた。声と相違して、琥珀の目は面白そうに輝いていた。
「お嬢様もそんな可愛らしい声を上げるんですね。別に寝起きなんて何百回も見てますけど」
「何百回は言い過ぎよ!」
「はいはい。寝癖だらけのお嬢様もお綺麗です」
「……」
顔が熱い。ゼンはあっさりそう言うが、リーンにとっては一大事なのだ。
ゼンに手を取られ、リーンは立ち上がる。ゼンがどこから取り出したのか、リボンでリーンの癖毛を高く一つに結おうとする。
うなじは赤くないだろうか。耳も熱い。ふと、ゼンの手が止まった。
「――どうしたの?」
「いえ、あの」
ゼンは口ごもり、それからささっと結んだ。見られているのは心臓が痛いが、ゼンの気配が離れていくのは少し寂しかった。
「お嬢様、今日は休日で気を抜いてらっしゃいますけど、アイヴァン様がいらっしゃるそうですよ。支度してください」
「――え?」
びっくりしてゼンを見上げる。ゼンは少し苦笑した。
「それを伝えに行こうとしていたところなんです。ご主人様に御用があるようで、そのついでにリーン様にも会いに来ると」
「そうなの」
つくづく間が悪いと思う。休日だから気楽な恰好でごろごろしようとしていたのに、計画が台無しだ。
そう思ったことが分かったのか、ゼンは言った。
「ちょうどよかったんじゃないですか? お嬢様は何も無いと徹底的に怠けますから」
「……うるさい。ちゃんと計画立ててたのよ」
「計画なんてありませんよね? とりあえず部屋へ行って支度してください」
言われて、リーンは大人しく回れ右をした。どうも、アイヴァンは五回足を踏んだだけでは足りないらしい、とぼんやり考えていた。
***
ふわふわした金髪を押さえ、三つ編みにして垂らす。そう格式ばったものでもないのだろう。アイヴァンがここに来るのは久しぶりだった。
カルアが選んだ白が基調のドレスを着る。
「……子どもっぽくない?」
「可愛らしいですよ。きっとアイヴァン様も気に入ります」
別にアイヴァンが気に入ろうがどうでもいいのだが。
白のドレスと同じように、白のリボンでカルアが髪を結び直そうとしてきた。三つ編みは、さっきゼンが結んでくれたリボンを使っている。緑色だから確かに全体から浮いているが、リーンはカルアの手を止めた。
「このリボンは――そのままにして」
「ええ? はい。気に入られたんですか?」
首を傾げたカルアに対し、曖昧に笑う。緑は別に好きな色ではない。それをカルアも知っているから、不思議そうにリーンを見てきた。
誤魔化すように部屋を歩き回りながら、窓の外を見る。馬車が止まっていた。たぶんあれがアイヴァンだろう。
「お父様にって、なんの用かしら」
「口実ではないですか?」
婚約者に会いに来たに決まってますよ、とカルアは楽しそうにそう言う。その言葉が聞こえていたのか、扉からノックが聞こえた。
「お嬢様、応接室へ」
ゼンだった。にっこり笑っている。
「アイヴァン様がいらっしゃいましたよ」
せいぜい嬉しそうな顔をした方がいいのだろう。だが、リーンの顔に浮かんだのは引き攣った笑みだけだった。せめて休日じゃなければ、もっとましな顔ができただろうに、とこっそり思った。
***
「アイヴァン、ようこそいらっしゃいました。休日にわざわざ、訊ねてきて下さらなくてもいいのに」
わざわざ、の部分を強調すると、アイヴァンは苦笑する。
「お気に召さなかった? 僕は君の顔を見に来たんだけど」
来なくていいよと思ったが、言わない。黙ってにっこり笑うと、アイヴァンは座っていた向かいの椅子から立ち上がり、リーンの座っているソファに来る。
「可愛いね。こういうドレスも着るんだ」
肩についているリボンを指先で弄んでいる。覗き込まれるように顔を見られて、リーンはあやうく突き飛ばしそうになった。距離感が近いのだ。
「……ありがとうございます。お父様に用って、何でしたの」
「そっちは、大丈夫。うちの父の手紙を届けただけだから」
「そうですか」
なら帰れ。実のところ、休日を潰されてリーンはかなり苛立っていた。
それを察しているのかいないのか、アイヴァンはのんきに言った。
「久しぶりにゆっくりお喋りでもしよう。小さい頃はよく遊んでたのに」
「懐かしいですわ」
「君によく泣かされた。覚えてる?」
「……覚えてますけど」
そっと目を逸らした。小さく笑って、アイヴァンはリーンの三つ編みの先を指に絡めている。
「ちょっと狭いねこのソファ」
「それは、あなたがこっちへ来たから――」
「リーン、一瞬立って」
「え?」
言われた通り立ち上がると、アイヴァンはリーンの両脇に手を入れて抱え上げ、自分の膝の上に座らせた。
「これなら狭くない」
「……下ろしてください」
「なんで?」
「恥ずかしいからです」
「やだ」
子どもみたいな顔でアイヴァンは言う。拳を叩き込みたいのを我慢しながら、リーンは言った。
「じゃあ私があっちの椅子に座りますから」
「それもやだ。婚約者なんだから」
「……」
婚約者アピールを、社交の場ですらないこの家でやる必要はあるのだろうか。釈然としない思いでリーンは唇を尖らせる。ふふ、とアイヴァンは笑った。
「昔みたいだ」
「昔は、私があなたを膝に乗せてましたわ」
そうやって、泣き止まないアイヴァンを慰めていたのだ。虐められると、アイヴァンはすぐにリーンのところへ避難してきた。面倒だなあと思いながらも慰めていたのは、アイヴァンが放っておけないような気にさせるからだ。
「今もそうじゃなくて良かった」
「今だったら私が潰れます」
「本当に軽いね。食べてる?」
「心配ありませんわ」
アイヴァンがリーンの背に頭を凭せ掛ける。その仕草は幼い頃とそっくり同じで、少しだけ、リーンはアイヴァンに優しくしようと思って言った。
「何かあったんですか?」
「分かる?」
「虐められたり?」
「……今は大丈夫だよ」
君のせいだ、と小さな声が聞えた。リーンは首を傾げる。
「足を踏んだこと、怒ってますか?」
「違う」
「……えーと、じゃあ、昔泣かせたこと?」
「違うよ」
少し振り返って後ろを見る。呆れたような顔が見えた。
「……本当に君は……」
責任取って、と言われたが、心当たりの無いリーンは首を傾げるしかなかった。