令嬢の初恋
――リーンが十四歳になった頃だった。
真っ暗闇の中、一人で取り残されたリーンは茫然と周囲を見回していた。
「見て。あれがウィッキンズ家のリーンよ」
「あの赤い目。見たら呪われそうね」
「何もしていないのに、前睨まれたのよ」
「ええ、ひどい!」
「調子乗ってるんでしょ。アイヴァン様が婚約者だからって」
「父親同士が仲良いだけでしょう」
「アイヴァン様だってきっとうんざりしているわ」
「可哀想に、あんな性悪女が婚約者だなんて」
背筋を伸ばす。聞こえないふりは上手くなった。何も気にしていないという目で、前だけを見る。
赤い瞳。本当は好きだったはずなのに、年を重ねるにつれて嫌いになっていった。青い瞳だったなら、あんな風に言われることは無かったのだろうか。
そんなことはないのだろう。嫉妬なんて取り合うだけ無駄だ。分かっている。
何でもはっきり口に出してしまう自分が悪い。女は、口を噤んで、完璧な笑みを浮かべて、美しければ、それで用が足りるのだ。
分かっている。分かっている。分かっている。
鏡の前で何度も練習した笑みを浮かべて、綺麗に取り繕って、口を噤めば。
隣にいるアイヴァン。彼の隣は、息が詰まった。昔はこんなことは無かったのに。
言いたいことも言えない自分が、アイヴァンすら嫌いになってしまいそうな自分が、本当に大嫌いだった。
「お嬢様」
低く掠れた声がして、揺すり起こされた。
「こんなところで眠ると風邪を引いてしまいます」
机に突っ伏して眠っていたらしい。ぐしゃぐしゃになった紙が腕の下敷きになっている。
「――失礼します」
そっと、頬を拭われた。びっくりして目を丸くしていると、その顔をゼンが覗き込んでくる。
「悪い夢でも?」
「あ――」
夢と分かって、力が抜けた。ぽろぽろ零れる涙は止まらず、リーンは慌てて袖でごしごし拭う。その手を止めて、ゼンは言った。
「痛くなってしまいます」
「やめて――見ないで。誰にも、言わないで」
怖かった。泣いている自分は誰にも見られたくなかった。自分の弱いところは、誰にも見せたくない。家族にだって。
強く在りたかった。他人に左右されない自分で在りたかった。でもそれは難しい。何を言われても大丈夫だと思っていたのに、悔しかった。
「泣いてしまえば自然に止まりますよ。ベッドまでお運びします」
抱え上げられて、ベッドに優しく寝かされる。涙で歪んだ視界の向こう、優しい琥珀色の目が見えた。
「誰にも言いません。私は、執事ですから。命じられれば口を噤んでおります」
「じゃあ――言わ、ないで」
「承知いたしました」
みっともなく、涙が止まらなかった。声も上げずにただ泣くリーンを見て、ゼンはそっとその頭を撫でた。
「嫌、ですか?」
「――ううん」
体温が心地良い。少しだけリーンが笑うと、ゼンはほっとしたように息を吐く。
「みっとも、ないわ。……泣くなんて」
震える声で呟く。泣く自分は嫌いだ。自分を可哀想だと思っているようで、大嫌いだ。
事情を問わないゼンがありがたかった。誰にもこんな自分は見せたくないと思っていたが、ただこうしてそばにいてくれる人がいるのは、ひどく安心した。
「お嬢様は、よく頑張ってらっしゃいます。……よく我慢なさいました」
眠れるまでそばにいますよ、と言う。その言葉に驚くほど救われて、リーンの涙は自然に止まった。
「頑張れて、いるのかしら……」
「もちろんです。十分すぎますよ」
少し力を抜いてください、とゼンは言った。涙で曇らなくなった視界に、ゼンの柔らかい笑顔がはっきり映る。
きっとあの時から、リーンは恋をしていたのだ。




