舞踏会
「五回は踏んでくれたね。前より腕が上がってる」
痛そうな顔で笑いまじりにそう言う。リーンは澄ました顔で答えた。
「申し訳ありませんわ。踊るのが下手で」
だから今後は誘わないでくれるとありがたい。言外に滲ませたがアイヴァンは大体察しない。察しても無視する。むかつく。
「それだと他の男と踊るだろう」
「社交ですから」
「それが嫌なんだ」
君の身体に触れさせたくない、とアイヴァンは笑って言った。真意かどうかは分からない。リーンは黙ってアイヴァンを見た。
婚約者。不思議な響きだ。幼い頃にすでに決まっていた約束。アイヴァンは嫌だと思ったことはないのだろうかと時々思う。それとも諦めているから、こうしてリーンを愛しているかのように扱うのだろうか。
アイヴァンは人気だ。綺麗な顔に優しい物腰。家格も申し分ない。学問も武芸も良く出来る。リーンに向けられる悪意の大半は、アイヴァンが婚約者であることによる嫉妬だと言ってもいい。
そんなアイヴァンが、リーンを好きなはずはなかった。可愛げがないと自分でも自覚している。結局、愛想が大事なのだ。愛想の無い女なんて好かれない。
「リーン」
そんな顔するな、とアイヴァンが言う。リーンは、はっとして笑みを作った。笑顔を作るのは苦手だった。
アイヴァンの手が優しく、リーンの髪に触れる。すこし解けてしまったところだ。
「ちょっと外に出ようか」
人の多さに酔っていた。素直に頷くと、アイヴァンは慣れた手つきで立ち上がらせてくれる。何人かの視線を感じた。あんな性格の悪い女のどこが良いのかしら、とあからさまな悪口も聞こえる。
聞くたびに、愛想笑いを作れなくなっていった。自分で仕方ないと決めたはずだ。そう言われなくなる努力をするより、それに耐える方を選んだのは自分だ。意地を張っている。でも、そういう自分を選んだのも、自分だった。
外には美しい庭園が広がっている。招待主である伯爵自慢の庭園ということだった。
「上手に編まれてる」
器用に、解けたところを直してくれる。されるがままになっていると、不意に剥き出しになったうなじに体温を感じた。アイヴァンの手がゆっくり撫でている。
「……また踏みますよ」
「それは勘弁」
ぱっと手を離す。戯れのように触れるそれは、小さい頃の時と同じだとリーンは受け止めていた。アイヴァンは相変わらず、食えない綺麗な笑みでリーンを見下ろしている。ずいぶん背が高いんだなと気づいた。ゼンよりも高そうだ。幼い頃は、従兄といっても、まるで弟のようだった。気の強いリーンが何度泣かしただろうか。
思い出にふけっていると、アイヴァンは少し微妙な顔になって言った。
「……なんかすごく、不都合なことを思い出されている気がするんだけど」
「いえ、小さい頃は、アイヴァンも可愛かったなと」
「今は可愛くないって?」
頬を両手で挟まれ、ぐっと顔を近づけられた。リーンは瞬きして、頷く。
「いつの間にか大きくなっていました」
「……君は本当に、僕を見ないね」
「見てますわ。何言ってるんです」
顔には自信があるんだけどな、とアイヴァンは冗談交じりにそう言った。そりゃあるだろう。リーンは首を傾げた。
「自慢ですね?」
「そうだね、自慢」
なのにな、とアイヴァンはじろっと横目でリーンを見た。そんな目で見られる覚えは無い。
「あの執事と、どっちが良い?」
「は?」
顔ですか、と問うと、顔、と頷かれた。なぜそこでゼンと比べるのだ。リーンは特に迷わず、言う。
「一般的に言えば、アイヴァンでしょう」
「一般的」
その言葉にまた微妙な顔をする。それからアイヴァンは眉を顰めて言った。
「一般的に見て、僕の方が顔が良い。で、背も高い。君に足を踏まれながらでも一曲踊れる」
何を言いたいのかいまいちつかめず、リーンは黙って聞いていた。
「僕が駄目な理由、ありますか?」
「……なんでゼンと比べるんです」
普通なら、他の貴族の子息だろう。不審げな目で見るリーンに対し、アイヴァンはへらっと笑った。
「いや別に。でも、どうも僕は好かれてないみたいだし」
「……気を使わなくて結構ですわ」
リーンは躊躇いがちに言った。
「婚約者なんてただ結婚するだけです。私に気を遣わなくて結構ですから、お好きな方に優しくなさってください。結婚後だって、恋愛するのは自由でしょう」
「僕は、結婚後の恋愛は反対だけど」
「だからって私を好きな振りしなくて結構です」
昔のアイヴァンは、こんなことをするような人ではなかった。どちらかというと臆病で、武芸も踊りも全然駄目だったのだ。綺麗な顔が女みたいだと揶揄われて虐められていた。それを覚えているから、今のアイヴァンに違和感を覚える。いつから変わったのか――思い出そうとしたが、アイヴァンはそれを遮るようにリーンに言った。
「僕は、――そういう言葉を初めて訊いたんだけど、ひょっとしてずっとそう思っていたり?」
「え? ――まあ」
「……今、自分がだいぶ情けないんだけど」
「ばれてないと思っていたんですか?」
わざとらしくでれでれするのだって、そういうアピールなのだろうと思う。リーンを愛していると周囲に伝える為だけの。それをリーンに信じ込ませる為の。リーンが婚約者に愛されていないと陰口を叩かれない為の。
アイヴァンはそういうことをする。優しいからだ。小さい頃から見ているから、よく知っていた。
リーンが真っ直ぐ見つめると、アイヴァンは目を逸らした。
「構わなくて平気ですわ。私は悪口を言われたって大丈夫なので。アイヴァンは、自分のしたいようにすればいいだけです」
「――本気で言ってます?」
「私は冗談は言いません」
「リーンは本当に変わらないよな」
「アイヴァンは変わり過ぎです」
アイヴァンは両手で顔を覆って項垂れた。そんなにショックだろうか。しかし彼はすぐ、顔を上げた。
「……本当にむかつく。足踏んでもいい?」
「嫌ですわ」
顔をしかめると、アイヴァンは力なく笑った。こんなに気の抜けた彼の顔を見たのは久しぶりで、少し懐かしく思った。