屋敷
「――伯爵様の娘だからって、えらっそうよね」
「前睨まれたのよ私」
「こわーい。あの赤い目、呪われそうじゃない?」
「アイヴァン様も、あんなに評判が悪い令嬢を貰うなんてかわいそう」
「やだ、まだ結婚なさってないわよ。夜だって」
きゃあ、という悲鳴じみた声が聞こえる。廊下で足を止めたまま、どうにも出られなくなってアイヴァンは途方に暮れた。
リーンがあまり良く言われていないのは知っている。愛想の良い方ではないし、顔だって黙っていると威圧的だ。だからといって、今アイヴァンが出て行っても余計ややこしくなることは請け合いだろう。
「……メイドの教育がなっておりませんで……」
背後、老執事のレヴェンが苦々しい顔をしていた。子どもの頃からアイヴァンを見ているから、アイヴァンの気持ちもリーンのこともよく知っている。アイヴァンは苦笑し、首を横に振った。
「どうしようもないけど、リーンに聞かせたくはないな。どうすればいいだろう――」
小声で言う間に、思いもよらない声が聞こえた。
「――お忙しいところすみませんが、何か手伝えることはありますか?」
きゃあきゃあ言っていた声が一瞬で静まる。少しも弱いところを見せない、凛とした声が響いた。
「私も、アイヴァン様の為に何かして差し上げたくて」
リーンだ。アイヴァンのいないところで、リーンが屋敷でどのようにしているのか、知ることは無かった。
「……お嬢様の手を煩わせるようなことはありませんわ。どうぞごゆっくりなさってください」
「そうですよ。お茶でもお持ちしましょうか?」
「旦那様のことは、私たちで手が足りておりますので」
アイヴァンは思わず唇を噛んだ。勢いあまって出ようとした主人を、慌ててレヴェンは止める。
「……そうですか」
わずかに気落ちした声。アイヴァンでなければ気づかないだろう。そのまま足音が遠ざかり、元のようにメイドたちがひそひそ話し始めるのを後に、アイヴァンは慌てて方向転換した。
「リーン!」
廊下の端、リーンの背中が見えて、アイヴァンは呼び止めた。びくりと肩が震え、振り返ったリーンは、夜会で会っていた時のような、凍ったような目をしていた。
人を拒絶するような強い目だ。きっと引き結ばれた唇と輝く金髪。威圧的な美しさが、不意に崩れた。
「……お見苦しいところを」
お見せして、という言葉を聞く前に、アイヴァンはリーンを抱きしめた。
腕の中で、リーンの身体が強張ったのが分かった。
「……言ってくれれば良かったのに」
「大したことじゃありませんわ。仕方ないですし」
少しも震えない声を聞いて、どれだけこんなことを経験してきたのだろうとアイヴァンは思い、気が遠くなりそうだった。仕方ない。そんなことは無いだろう。
「こんな、顔ですし。愛想も無いし。性格悪いのは否定できませんし」
「リーンは、綺麗で可愛くて優しいよ」
小さく笑ったのか、リーンの肩が少し揺れた。
「……あと、嫉妬ですわ。私だとアイヴァンに相応しくない」
「誰がなんと言おうと、僕は君が良い」
「物好きな方だと、私も思いますけど」
「物好きでもなんでもいいよ。悪い?」
「……お好きにどうぞ」
放してください、とぽんぽん背中をたたかれて、アイヴァンはようやくリーンを放した。アイヴァンを見上げたリーンは、柔らかい笑みを浮かべていた。
「気を遣ってくださって、ありがとうございます。でも、私も早く馴染みたいので。ちょっとくらいは本当に、平気ですわ」
「本当に?」
「ええ。……それより、お仕事はいいんですの?」
「ああ、今から出ようとしてたから――」
まずい、と思って慌てて振り返ると、レヴェンが壁と同化したように立っていた。
「もう出かける準備は整えております。――あと」
咳払いし、レヴェンは言った。
「場所は、考えてください」
リーンが一瞬で真っ赤になる。こんなに簡単に赤くなるのは、一緒に暮らすまで知らなかった。
可愛い、と思い、それから悪戯心が湧き上がって、アイヴァンは言った。
「出かける婚約者様に、何か言ってくれないの?」
「……お仕事頑張ってくださいませ」
「甘さが足りない」
「場所を考えてくださいとついさっき言われませんでした?」
「言うまでここから動かないから」
「……は」
「は?」
耳まで赤く染めて、リーンは睨むようにアイヴァンを見つめて言った。
「早く帰って来てください! ばか!」
言いましたよこれでいいんでしょ、と言いながら、リーンはアイヴァンの背中を押す。じゃあこれで失礼いたします、とリーンは叩きつけるように言って、逃げるように足早に部屋に戻って行った。
「……氷でも持ってきますか?」
レヴェンが同情するような目を向けてくる。
真っ赤になったアイヴァンは両手で顔を覆い、「ずるい……」と呟いて廊下に座り込んだ。




