初日
何が何だかよく分からないまま、アイヴァンの屋敷へと行くことがいつの間にか決定していた。
いや、リーンもそれは承知していたのだし、両親への説明だのなんだのは全部アイヴァンがやってくれた。もちろん、リーンのゼンへの恋心は隠されたままで。
アイヴァンがあんなにてきぱきしているところを見るのは初めてで、リーンはだいぶ驚いた。王宮で働いているアイヴァンがどうしても想像できなかったのだが、その姿が垣間見えた気がする。
まるで嵐のように突然決まった話だったが、侍女や執事たち使用人はみんな祝福してくれたし、両親は泣いてすらいた。婚約者として一緒に暮らす、という話だが、まあほぼ結婚のようなものではある。分かってはいたが、両親が想像以上に喜ぶところを見て、リーンは複雑な思いを抱いた。リーンの気持ちを知れば卒倒するだろう。やっぱり、隠し通さないといけない。
怒涛の日々を過ごし、馬車に乗せられて、リーンはその一瞬でやっと我に返った。見送っている使用人の中にゼンの姿も見つけて、リーンは不意に泣きたくなった。
「お嬢様、おめでとうございます」
さっき、出発前の準備を終えたリーンを見てそう言ったゼンは、心底嬉しそうだった。
「お嬢様が幸せなら、良かった」
幸せ。そうだろう。リーンは幸せそうな笑みを咄嗟に浮かべて、ありがとう、と言った。
――君が攫ってって頼めば。
そうしてくれただろうか。いやそんなことはしないだろう。ゼンは、ちゃんと自分の職分を分かっているし、リーンに特別な感情だって抱いていない。
これを期に、どうにかけじめをつけないといけない。アイヴァンはああ言ってくれたが、いまさら解消だなんてとんでもない話だ。三か月で、どうにか折り合いをつけないといけない。
離れて、寂しさと苦しさが湧き上がって来る。これから先、あの低くて掠れた声も、お嬢様、と呆れたように言う顔も、琥珀色の目も見ることは無い。
ひたすら押し黙って馬車に揺られ、やがて屋敷についた。隣の領地ではあるから、丸一日かかったりはしない。
出迎えたアイヴァンを見て、みっともなく泣きそうになった。
「疲れた? 挨拶は明日でいいよ。君の部屋に案内するから」
柔らかく問われて、リーンは無言でうなずく。持参金として付いてきてくれたカルアにも支えられて、リーンはふらふらアイヴァンの家の屋敷へと入った。何人も使用人に会ったが、部屋に着くまでの記憶が定かでない。ベッドに横たえられて、アイヴァンの手が額に触れるのを感じた。
「熱がある。やっぱり、無理したんだ」
「……ちょっとくらいなら平気かと思いました」
「だいぶ高いよ。侍女を――」
「カルアだけでいいですわ。……カルアは?」
「ここにはいないよ。飲み物を用意すると言ってたけど」
「……頼ってと言いましたよね」
「え?」
うん、と戸惑ったようにアイヴァンは答えた。リーンはもぞもぞ動くと、ベッドのふちに浅く腰掛けているアイヴァンの腰に抱きついた。
「ちょ、ちょっと、ままままま待って! リーン? だよね?」
ひどく狼狽えた声が降ってくる。朦朧としているリーンには聞こえていない。
「……泣いていいですか」
「……え?」
「忘れたいので、泣いていいですか」
「あ――」
言えるのはアイヴァンだけだ。狼狽していたアイヴァンも落ち着いたのか、打って変わって、優しく背中をたたかれた。
「いいよ。――僕の前なら、泣いていいよ」
「……ありがとうございます」
ぼろぼろ涙が零れ落ちる。一度泣くと、箍が外れたようになって、止まらなくなった。泣き顔を見られたくなくて、アイヴァンの身体に顔を押しつける。
「ううぅ……」
もっと話したかった。それが無理ならそばにいたかった。笑いかけて、あの声で名前を呼んで欲しかった。綺麗ですと言われて嬉しいのは、ゼンだけなのに。
失恋した。それがよく分かって、堪らなくなる。鈍く心が痛んで、どうしようもなかった。
アイヴァンの屋敷に行った初日は、そのまま寝落ちした。
次の日目が醒めたリーンは、平身低頭してアイヴァンに謝った。熱で朦朧としていたせいだと言い訳しているリーンを見て、「僕は役得というか、なんというか」と複雑な顔で笑っていた。




