令嬢の憂鬱
――昔の約束。ずっと思い出すことは無かったのに。
どうしてアイヴァンは変わったのだろうと思っていた。
――分かったよ。頑張るから。
頑張るから。リーンの為に変わったというのは、自惚れだろう。そうに決まっている。アイヴァンだって、あんなこと忘れているに決まっている。
ベッドで寝がえりを打つ。目を開いても、暗い部屋しか見えなかった。
――でも、今日のアイヴァンは少し雰囲気が違って、戸惑った。
あれが普通なのだろうか。昔と一緒だと言っていたけれど、そうなのだろうか。分からない。アイヴァンはリーンのことなんて好きじゃない。それは分かっている。分かっている。
「……分かってる」
でもなんで、あんなことをするのだろう。あんなことを言うのだろう。
思考が堂々巡りしているのを自覚して、リーンはため息をついた。
アイヴァンには弱みを見せたくなかった。アイヴァンに相応しい婚約者として頑張りたいからだ。ただの意地なのに。
あんなものを真面目に守っているのだとしたら、アイヴァンは相当なばかだ。ならやっぱり、リーンの勘違いなのだろう。
アイヴァンが好きになるのはたぶん、もっと女の子らしい可愛い子だ。アイヴァンはきっと大切にすると思う。リーンとは正反対の、可愛らしくて優しくて気が利いて、人から好かれる女の子。
それでいいと思っていた。アイヴァンが優しくしたい人がいるなら、その人にだけ優しくすればいい。婚約者なんてそんなものだ。父親たちが勝手に決めただけで。
「……ばかみたい」
今さら、何か間違えたのかもしれないと思った。全部、リーンの勘違いならいい。そうでないと、リーンは、アイヴァンにずいぶんひどいことをしたことになってしまう。
君は僕を見ないよねと言われたようなことがある気がする。その意味がようやく少し分かったような気がした。
これ以上考えても分からないから、眠ろう。そう思うのに、全然眠気はやって来なかった。
***
「は? 結婚?」
「うん。年頃だし、そろそろしてもいいんじゃないかって」
にこにこ笑う父の顔を見上げ、それからリーンは愕然として悟った。
――年頃。確かにそうだわ。
とっくに結婚していてもいい年頃なのだ。どうして気づかなかったのだろう。幼馴染の感覚でずっといたから、どうしても実感できなかった。
ひょっとしたら、前に来たのも、その話をする為だったのかもしれない。今さら思い至って、リーンは自分の迂闊さを呪った。
落雷にでも打たれたような顔の娘を見て、全く想定外だったことを悟ったらしい。父は眉尻を下げた。
「家から離れるのは寂しいかもしれないけど、アイヴァンの家なら良く知っているし、アイヴァンの両親とも仲が良いだろう? 上手くやれるよリーンなら」
ウィッキンズ家には、リーンの他に兄が一人いる。年が離れている上に普段は仕事だなんだとほとんど顔を合わせないが、家を継ぐのは彼だ。だから、結婚するなら家から離れるのは確実だった。しかもアイヴァン自身が長男で家を継ぐ立場にある。
それに、確かにアイヴァンの両親のことはよく知っているし、嫌いではなくむしろ好きだった。
でもそれとこれとは別問題だ。壁で気配を消しているゼンをそっと窺った。
結婚まで。結婚したらきっぱり忘れる。そう決めたし、そうできると思っていた。甘かった。
ゼンは、リーンが初めて自分の弱いところを見せた相手だった。それが自分の中でどれだけ大きかったことなのか、今また自覚した。最悪だった。
青ざめたリーンを見て、父はさらに心配するような顔をした。
「――まさかと思うけれど、アイヴァンと結婚するのは、嫌だとか?」
「そんなことありませんわ。ずっと決まっていましたし」
笑みは上手く作れただろうか。作れていろ、と自分を叱咤する。
「でも突然で」
そのまま言葉に詰まる。それで。どうすればいいのだろう。アイヴァンと結婚する。そう踏み切れるだろうか。こんな気持ちで、ちゃんと妻として務めを果たせるのか。そもそも、リーンはアイヴァンが何を考えているのか少しも分かっていない。少しも分かっていないことだけは、やっと分かった。こんななのに、結婚なんて。
何も言えなくなったリーンを見て、そばで黙って見ていた母がそっと助け舟を出した。
「アイヴァンと話す方がいいんじゃないかしら。当人同士の問題なんだし」
「そう――させていただけるなら」
「ああ、そうだね。そうしよう。アイヴァンも対応してくれるだろう。仕事はあるだろうが」
アイヴァンの家はリーンの家と同じ伯爵家だ。アイヴァンが仕事をしている、という事実にも今さら実感がわいて、混乱する。小さくてよく泣いていたアイヴァンが成長しているということに追いつけていない。
私一人だけ、子どものままだったんだわとリーンは思った。もう十七歳。甘やかされて育っていることは分かっているつもりだったが、自分の想像以上に、リーンは大事に育てられていた。
「さっそく連絡しよう。リーンも、それでいいね?」
笑顔で問われて、リーンは頷くしかなかった。




