現在までに考察済みのことを一気に掲載します
・n次元世界における視界
n次元世界における視界は、(n-1)次元と遠近感である。
具体的な例をあげると、3次元世界の視界は、2次元と遠近感である。
「2次元と遠近感は、もはや、3次元ではないか?」と考える向きもあるが、根本的に違う。
結論を先に述べると、3次元の視界とは、「立体の表も裏も側面も、そして、内部も、同時に視認できる視界」のことである。
「そんなことは、不可能だ!」と、言われるだろうが、不可能である。3次元世界では。
しかし、これが、4次元人の、当たり前の視界である。
話を2次元世界に落として考えてみよう。
2次元世界での視界は、縦に重力が働くため、縦の1次元と遠近感である。
縦の1次元の視界とは、テレビの走査線を1本だけ取り出したものに、似ている。(実際には、テレビの走査線1本にも、細いとはいえ幅があるので、1次元とは言えない)
「そんなもので意味が分かるのか?」と、3次元人は考えるだろうが、きっと、4次元人たちも、われわれ3次元人に対して、似たような想いを抱いているのではないだろうか。
さて、2次元人が、2次元世界で、円を見ることは、3次元人が、3次元世界で、巨大な円柱を見ることに似ている。
3次元人が、円柱の裏側や内部を見ることができないように、2次元人は、円の後ろ側や内部を見ることができない。
しかし、3次元人は、2次元図形である円の「2次元人にとっての手前も後ろも側面も、そして、内部も、同時に視認できる視界」すなわち「2次元の視界」を、持っている。
この、「2次元人」「2次元の視界」「3次元人」の関係を、「3次元人」「3次元の視界」「4次元人」の関係に、応用して考えると、「4次元人は、3次元図形である立体の『3次元人にとっての立体の表も裏も側面も、そして、内部も、同時に視認できる視界』すなわち『3次元の視界』を、持っている」ということになる。
よって、「2次元と遠近感」は、「3次元の視界」とは、ほど遠いものと、言わざるを得ない。
・n次元世界における行動
n次元世界における行動は、n次元世界における「平坦な地形」においては、(n-1)次元的なものとなり、その場の地形の起伏や建造物などにより、n次元的な動きとなる。
3次元世界で考えてみよう。
地面が完全に平坦なら、わざわざ飛んだり跳ねたりしない限り、動きも平坦なものとなる。これを、「2次元的な動き」と呼んでいる。
基本的に、地図を平らな紙に記載して、あまり支障がないことからも、「3次元人が『2次元的な動き』をしている」というのは、そう乱暴なことではないことは、同意していただけると思う。
そして、横断歩道橋などの、まさしく、「立体」交差のための機構を使えば、「立体」的に動くことができる。
階段、エスカレーター、エレベーターなどの上下移動のための構造物の使用により、3次元的な動きとなるわけだ。
もちろん、山に登ったりしても良い。
さて、ここで、タイトルにもある2次元世界の行動について考えたい。
2次元世界における行動は、1次元的となる。
1次元といえば、すなわち、数直線である。
たとえて言うなら、落ちることのない平均台の上での暮らしである。
横に動くことができない、というより、横という概念がない、横というものを想像することすらできない。
人と人が行き交うには、片方が片方を飛び越えるしかない。
「建造物や地形に頼らない限り行動は1次元的である」という理念には、軽く反してしまうが、道具を使うことなく人と人が行き交えないと、非常に不便なので、重力が低いということにして、「2次元世界では、人と人が行き交うときは、どちらかが相手を飛び越える」ということにしたい。
・2次元世界における惑星とそれによって決まること
2次元世界における惑星は、3次元世界における惑星が、ほぼ球であることから、ほぼ円であると考えられる。
日の登る方角を「東」、日が沈む方角を「西」と定めるのが、妥当であろう。
当然、「北」と「南」は、存在することができない。
すべてが赤道直下となる。
「横」というものが存在しないので、当然、「右」も「左」も存在しない。
ここで、2次元人たちにとって、「右」や「左」のように重要になってくるのが、「東」と「西」である。
2次元人を、2次元世界の中で裏返すことは、不可能である。よって、2次元人にとって、東や西は一生変わることのないものである。
なので、2次元人の生活には東と西が、3次元人にとっての右と左のように、染み付いている。
新人は、「東も西も分からない新人ですが、よろしくお願いします」と挨拶する。
「前後不覚」のことは、「東西不覚」という。
西瓜はあっても、南瓜はないと思われる。
・第1話補足、2次元人が2次元世界を横から見たところを思い描くことについて
2次元人が2次元世界を横から見たところを思い描くことについて考えたい。
結論から言うと、それは不可能である。
第1話で、「3次元の視界」を3次元人が思い描くことができないことは、ハッキリとではないが、触れている。
「3次元の視界とは、『立体の表も裏も側面も、そして、内部も、同時に視認できる視界』である」と考えたのは、あくまでも、「3次元の視界が満たすべき条件」を考えたにすぎず、「3次元の視界を思い描いた」と言うことはできない。
一般的に、より低次の視界の中により高次の視界を展開することは、どうしても不可能である。
よって、1次元の視界しか持たない2次元人が「2次元の視界」を思い描くことも不可能であり、それはすなわち、「2次元人が2次元世界を横から見たところを思い描くこと」が不可能であることを意味する。
・今ごろになって申し訳ないが、大変基本的なことの確認
今ごろになって申し訳ないが、大変基本的なことを確認させていただく。
よく、3次元から4次元に上がるときに足される第4の次元として「時間」があげられことがある。
私は、このことについて、次のような解釈をしている。
平面座標のグラフ、すなわち、2次元のグラフ、これを、時間の変遷に沿って並べる。すなわち、第3の次元として時間を加えるわけだ。すると、グラフが連続的に変化する場合、立体のグラフが出来上がる。すなわち、3次元のグラフである。
3次元に第4の次元として時間を加えることは、これの延長と私は捉えている。
立体のグラフを時間の変遷に沿って並べる。3次元世界には存在しない第4の次元の方向に並べる。
立体のグラフが連続的に変化しているなら、それらは、4次元的につながった1つの4次元の図形を描くことだろう。それは、きっと、美しいし、便利なのだと思う。
しかし、私が、今、考察しているのは、そういった利便性とかは全く関係なく、純粋に「空間」としての「次元」なのだ。
だから、ここでの議論では、何次元から1次元上がる場合でも、それは、純粋に単純に、ただの「方向」であるものとさせていただく。そういう世界観ということに、させていただく。
・2次元人の脚の構造と歩行の方法について
2次元人の脚の構造と歩行の方法について、私の考えたものを書いていく。これが最適とも最良とも言うつもりは無い。しかし、なかなか理にかなっていて、現実的だと、自負してはいる。
まず、2次元人の脚の構造だが、3次元人がガニ股になって立っているところを、想像していただきたい。その、ガニ股に開いた脚を、完全に平面になるように、180度まで開いてしまう。これが、2次元人の脚の基本のイメージである。
2次元人の全身の身体の構造については、のちに詳しく記述するが、2次元人の身体は東西対称でリバーシブルである。
2次元人には背中はなく、東側にも西側にも腹があり、どちらの腹の下にも、1本だけ脚がある。脚には、3次元人と同様に1つの膝と1つの足首がある。足の指は1本だけある。全体的な構造は、3次元人の脚ととても良く似ている。どちらの膝も足も、外側を向いている。
さて、その脚で、どのように歩行するか? だが、進行方向の脚で小さく跳ねるようにしてして進む。そう、スキップの要領である。これならば、進行方向と逆の脚が、反対の方に膝が突き出ていても、負担にはならない。また、人と行き交うときには、相手を飛び越えるわけだが、スキップならば、スピードを上げることも、大きくジャンプすることもできる。
・2次元人の身体の構造について
2次元人の身体の構造について、私の考えたものを書いていく。これも、これが最適とも最良とも言うつもりは無い。しかし、なかなか理にかなっていて、現実的だと、自負してはいる。
前話でも触れたが、2次元の身体は東西対象、リバーシブルとするのが現実的であろう。それは、2次元世界では、振り向く、振り返る、という動作ができないからである。
また、横というものが存在しないわけであるから、耳を顔の横に配置するわけにもいかない。そこで、2次元人の顔を以下のように設定してみた。
頭のてっぺんにうさぎのような耳、その下に一つの目、その下に一つしか穴のない鼻、その下に口がある。目は3次元人のものを、90度回転させて縦にしたものをイメージしていただきたい。目玉も横に動くことはないので。口には上下とも1本ずつ歯があり、顎もある。
さて、ここが理解しづらいようなのだが、2次元人の肩は顎の真下にある。3次元人の鎖骨を水平に90度回転させたものを想像していただきたい。2次元世界には横が存在しないための苦肉の策である。
肩には、1本の腕がついていて、腕の構造は、3次元人のものととてもよく似ている。1つの肘と1つの手首がある。
さて、手の構造であるが、指は2本とする。3次元人の親指と人差し指だけが存在すると思っていただきたい。こうすればつまむことができる。
肩の下には胸があり、胸の下に腹がある。腹の下に前話で触れた脚がある。
なお、これらの構造が基本的には基本的には東西対象に存在するわけだが、ヘソが東西両方の腹にあるのはおかしな話である。だから、どちらかの腹にランダムにあることにしたいが、左利きより右利きの方が圧倒的に多いみたいに、あえて東側にヘソがある2次元人の方が圧倒的に多いことにしておく。
また、2次元人の生殖器や子宮は2本の脚の間にあり、性行為は股割りのようにして行うものとする。
そして、理由は後述するが、2次元人には肛門はない。
・2次元世界には筒が存在できないことと、そこから発生すること
2次元世界には筒が存在できない。その理由は至極簡単で、2次元世界で筒を実現しようとすると、3次元世界の筒の断面のように=のようになってしまう。
これの何がいけないかというと、2つのパーツで構成されていて、なおかつ、2つのパーツをつなぎ止めるものが何もない。これではバラバラになってしまう。よって、2次元世界には、筒は存在できない。
それに対して、袋は存在できる。「袋だって立体的だ」と言われる方もいらっしゃったが、問題はそこではない。筒の断面が=のように2つのパーツになってしまうのに対して、袋の断面は(ものすごく大雑把に考えれば)Ωのように1つのパーツで構成されている。よって、袋はバラバラになることなく2次元世界に存在できるのである。
さて、筒が存在できないと存在できないものは、実は意外と多い。まず、前話で触れた肛門を説明してしまおう。
3次元人の身体は、消化器官も含めて考えたら、1つの筒である。
だから、もし、2次元人の身体も肛門のある消化器官だとしたら、前述のように身体が東側と西側にバラバになってしまう。
よって仕方ないので、2次元人の消化器官は袋構造であるとする。
では、不要なものはどうするのか? というと、いささか汚いが、吐き戻してもらうしかない。
さて、少し脱線するが、2次元人には、せっかく、東側と西側の2つの口があるので、片方を消化器官と繋げて、片方を呼吸器官と繋げようかと思う。そして、また、東西どちらの口が呼吸器官に繋がっているか? も、ヘソと同様、ランダムであるが、圧倒的な偏りがあるように設定したい。これは、一般的に、ヘソのある側が消化器官なのだが、それすら、一部の例外がある、としたい。
ところで、実は、服というものは、筒の集合体なのである。胴を覆う筒に穴を開けて、袖という筒をつけたものがTシャツという具合だ。
だから、2次元世界には服も存在できない。よって、2次元人をけむくじゃらにしておいた方が良さそうだ。
そして、車輪もまた、筒でなければ意味が無い。ただの丸い板ではなく、車軸を通して動力からの回転を伝えたり、動力なしでも荷台や客車を支えてこその車輪である。
袋構造は存在可能なので、ボールペンの先のような構造のローラーは存在できるが、これでは、動力を生むことや、動力を伝えることができない(車輪が存在できないのと同じように歯車もまた存在できない)。
よって、せいぜい、押して転がすものはあっても、自動車は存在できない。
また、これはとても重要なことなのだが、ネジやボルトもまた、2次元世界には存在できない。ネジもボルトも螺旋という筒構造なくして実現し得ないからである。よって、2次元世界には、ネジもボルトもナットも存在しない。その分、接着剤と剥離剤の技術は進歩するのではないだろうか?
・その他、書き漏らした細々としたこと
その他、書き漏らした細々としたことについて。
まず、2次元世界における建造物は、全て外観がピラミッドのようなものか、それに平坦な部分を足したものと決められている。つまり、建物の外側を人が登って降りられるようにしておかなくてはならない。そうしておかないと、その建物が「世界の果て」となってしまうからである。
そして、2次元人と2次元人が行き交う時は、片方が片方を飛び越えるわけだが、建物を越えるときは、降りる人が登る人を飛び越えるのが常識である。
逆にいうと、平地での飛び越えには厳密なルールはない。考えるべき要素が多すぎるからである。だから、お互いを飛び越えようとして、空中で2次元人同士がぶつかってしまう、という光景も別に珍しくはないわけである。
また、往来で、2次元人が集まることも禁止されている。人が飛び越せなくなるからである。
そして、2次元世界では、ルールやマナーはとてもよく守られる。守らないものが現れることは、世界の破綻を意味するからである。
・第4の次元を時間とすることについて
私の「第4の次元を単純な方向とする」ことへ異論を挟む方がいらっしゃったので、なぜ、私が「第4の次元を時間」としたがらないか? についての説明を試みたいと思う。
しかし、これには、かなりの困難が予想されるので、理解されない可能性は高いと思う。
まず、ここでも、「4次元の世界」を我々3次元の世界で論じようとしても、我々3次元人の2次元の視界の中に、4次元の世界のイメージを展開することが不可能である、という問題が立ちはだかる。
そこで、ここでも、「もし、2次元から3次元に上がる時、足されたのが第3の方向ではなくて、時間であったとしたら?」ということをモデルケースとして考えるという手法を取ってみよう。
すなわち、「3次元世界が今の我々のものとは違い『縦、前後、時間』の3つの直交するベクトルによって構成されているところを想像してみよう」という試みである。
仮に、それぞれの2次元世界を前述のような2次元世界であったとする。新しく追加された横が時間であったとするならば、とりあえず、右に進むと未来で、左に進むと過去とすることに、なんら問題はないはずだ。
とても分厚いベニヤ板を立てたところを想像していただきたい。ベニヤ板を構成する一枚一枚の薄い板が2次元世界で、それらが幾重にも重なっている。
さて、「第4の次元は時間」説のよくある主張に、並べられた過去や未来の世界からの干渉の話がある。
そういった話を聞いてみると、どうやら、その3次元世界を構成している一枚一枚の2次元世界たち全体にも、等しく「時間の流れ」があると思えてならない。なぜなら、それぞれの一枚一枚の2次元世界の時が止まっていないからである。
すなわち、そういった世界観の方たちの話には、どうしても、「第3の次元としての時間」とは別に、「すべての2次元世界に等しく流れる時間」が存在するとしか思えない。
これを全く問題視しない方もいるだろうとは思う。しかし、私は、「もし、2つの時間が存在するとしたら、その2つは対等なのか? もしくは、どちらかがより上位なのか?」ということも気なるし、なぜ、この問題が「そこでのみ起こるのか?」ということが非常に気になる。
実際、それは、2次元から3次元に上がるときには起こらなかった。ではなぜ、3次元から4次元に上がるそのときを選んで起こるのか? どうして、4次元から5次元に上がるときではいけないのか? それらに対する答えはおろか、考察というものを見聞きしたことがない。まぁ、単に私の見識が浅くて、まだ、知らないだけなのかも知れませんが。
なお、2つの時間が存在することの何が問題かと言うと、「2つ存在できれば、可算無限個存在できる」からです。この命題がいささか暴論であることは、2次方程式の解が2つあっても可算無限個存在しないことから分かると思います。しかし、2次方程式の2つの解は、ある点を挟んで対称に存在します。つまり、「対等」な存在と言えます。しかし、「第3の次元としての時間」と「すべての2次元世界に等しく流れる時間」が対等とは考えられない。なぜなら「第3の次元としての時間」は「抗える存在」であるのに対し、「すべての2次元世界に等しく流れる時間」は、どう考えても「抗えない存在」だからです。この明確な差を抱えたまま「対等」であることなど可能であるはずがない。よって、「第3の次元としての時間」と「すべての2次元世界に等しく流れる時間」は、2次方程式の2つの解のような対の存在であるはずはなく、この2つの存在を許すことは、「可算無限個の時間」の存在をも許してしまうことになるのです。
つまり、このことから、「第4の次元を時間」とすることも可算無限個の時間の存在を許すこととなると考えられるので、「第4の次元を時間」としたくないのです。
・「第3の次元としての時間」を使って「すべての2次元世界に等しく流れる時間」に抗うことについて
ところで、「すべての2次元世界に等しく流れる時間」には「第3の次元としての時間」を使って抗うことが可能だ。と考える方もおられることでしょう。すなわち、「第3の次元としての時間」を移動して、過去や未来を改変して「抗おう」という考えです。
しかし、それが可能であるとすると、当然、「同一の時間の2次元世界に複数の住人が相矛盾する改変を行う」という事態に対する考察をしなければならない。それは、「クラウド上に存在する1つのファイルに対して複数の人間が相矛盾する改変をまったく同時に行った」場合の対処を考えることに良く似ている。
クラウド上の同一ファイルにまったく同時に改変が行われた場合の対処としては、
①すべての改変を無効とする。
②1つの改変を選択して、それのみを有効として、他の改変は無効とする。
③すべての改変を別々のファイルとして保存することによって、すべての改変を有効とする。
の3つに大別される。
そして、まず①の考え方を「1つの2次元世界への改変」に当てはめて考えると、誰一人として望んだ改変結果を得られていないので、「すべての2次元世界に等しく流れる時間」に「抗えた」と言うことは出来ない。
では、②の考え方を「1つの2次元世界への改変」に当てはめて考えると、ただ1人を除いて望んだ改変結果を得られていないので、やはり「すべての2次元世界に等しく流れる時間」に「抗えた」と言うことは出来ない。
さて、③の考え方を「1つの2次元世界への改変」に当てはめて考えた場合であるが、これがまさしく並行世界すなわちパラレルワールドの発生のキッカケとなるのであろう。
しかし、1つのドライブ内に複数のファイルを保存するのならば、それぞれに異なるファイル名を付ければ解決するのであろうが、では、1つの3次元世界の中に異なる並行世界を「置く」としたら、どこに置けばいいのだろうか? それぞれの並行世界の置き場所は、第3の次元軸の同一の座標上しかあり得ない。他の座標に置こうとしたとろで、その座標にも既に「別の時間の2次元世界」が存在しているので、なんの解決にもならない。そう、この問題を解決できる手段があるとしたら、「同一の第3の次元軸上の同一の座標上に更に新たな次元軸を足し、その次元軸上に並行世界たちを並べる」ということくらいしかないと思われる。
それが「いけない」と言う気はないが、結局は3次元世界というものが3次元世界の中で完結できず、4次元世界に半ば逃げる様にして「助け」を求めるのは、「なんとんも無様な話であるなぁ」と思ってしまうのである。
なぜ、たった1つ上の次元に助けを求めることが「無様」であるかというと。ではもし、その追加した次元軸上の同一の並行世界に重複する改変が行われたら、どう対処しますか? 先程の対処との整合性を保とうと思ったら、同様に、更に次元軸を追加せざるを得ない。ここまで話せば、もうお分かりだとは思いますが、同様のことは無限に繰り返されあっという間に次元軸は増加し、次元軸で針の山のようにならざるを得ない。この様子は、まさに無様と呼ぶにふさわしいと思うのです。
だから、私は「すべての2次元世界に等しく流れる時間」には「抗えない」というスタンスを取るのです。