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闇を裂く杖 第二話

 病室に軽いノックの音がして、それを追ってすぐに声がした。


「伯母さん、綾子です」


 ひそやかな声だったが、芯と張りがあるおかげで、床に就いているカネの耳にもよく届いた。


「おはいり、綾ちゃん」


 戸を開けて入って来たのはおさげ髪が愛らしい少女だった。カネの枕辺に歩み寄った綾子の手を、カネはきゅっと握った。


「いつもありがとうねえ。迷惑かけてすまないね」


「迷惑だなんて」


 綾子は抱えていた風呂敷包みを解いて、洗濯してきた衣服をカネの床の脇にある、小箪笥にしまっていく。


「伯母さんは私のお母さんみたいなものだもの。孝行させて」


 綾子の母は綾子を生んですぐに亡くなった。その母代わりに、息子の武彦と一つ違いの綾子にも乳を含ませたカネは、確かに綾子にとって母と慕うものだった。


 武彦の死後、カネはもともと弱かった体の調子を崩し、入院していた。浴衣を纏った体は、今や骨と皮ばかりと見まがうほどに衰弱していた。綾子は一生懸命、カネに栄養をつけさせようと、料理やら菓子やらを運んでくるが、ほとんど手を付けられることはなかった。






 それから数日、カネの病状が急変したとの知らせを受けて、綾子は病院に駆け付けた。


「伯母さん、伯母さん、しっかりして」


 綾子がカネの手を取ってさすっていると、カネはうっすらと目を開けた。


「綾ちゃん……」


 カネの目に涙が溜まっていく。


「新聞の記者さんが来たの……。あの男が恩赦で刑務所から出てくるって聞いたのよ」


「まさか! まだ一年も経っていないのに!」


 カネが涙をぼろぼろとこぼす。


「悔しい、悔しいわ、綾ちゃん。武彦は帰ってこないのに。武彦を死なせた男がゆるされるなんて。なんで私はあの男の裁判をぼうっと見ていたのかしら。なんで、復讐してやらなかったのかしら」


「伯母さん……。仕方ないわ。事故だったんだもの」


 綾子の手を振り切って、カネは枕の下から一枚の名刺を取り出した。掠れたような、良く聞こえない小さな震え声で綾子にうったえる。


「この新聞記者さんがね、武彦の事件を調べてくれているの。重森安喜良の父親の不正を暴こうとしていて、武彦のことに疑問を持ったと言って。武彦はね、殺されたのよ」


 綾子はすぐに口を開くことが出来なかった。


「……そんな、まさか」


「重森安喜良はわざと武彦を突き飛ばしたって。見ていた人がいたの。武彦が倒れて動かなくなっても笑っていたって。それに、武彦は何度も殴られていたって言うのよ。それを、喧嘩両成敗だって言って警察は取り合ってくれなかったんだって。武彦はまだ子供なのよ、大人と喧嘩なんて出来るものですか。そもそも武彦が誰かと喧嘩をするなんて、あり得ないわ。ねえ、綾ちゃん。そうよね、綾ちゃん」


 カネは綾子にすがりつくと、わんわんと声をあげて泣き出した。


「殺してやりたい! 重森安喜良を殺してやりたい!」


 綾子はカネの肩を抱き、背中をさすってやることしか出来なかった。




 カネが眠ってしまってから、綾子は名刺をとって病室を出た。病院からすぐ近い公衆電話を見つけ、新聞社に電話をしたが、名刺を置いて行った藤田という記者は留守だった。電話をくれるようにとの伝言を残し、綾子は家に帰った。


 その夜遅く、綾子の家に藤田記者が訪ねてきた。


「電話より、直接お話しした方が良いと思ったので」


 そう言って頭を下げた藤田記者の頭頂部は少々、髪が薄くなり始めていた。




 藤田記者は綾子の父母の位牌が並んだ小さな仏壇に手を合わせてくれた。父が戦争から帰らなかったことや、カネが生活の面倒をみてくれていることなどを話すと、たいそう同情を示してくれた。そうして綾子が聞きたかったことに話はうつった。


「私はもう少しで定年なのですよ。それまでに、どうあっても重森議員の不正を暴きたいのです」


 綾子が淹れた茶を一口すすってから藤田は語った。


「重森議員は、選挙のたびに金をばらまいているのは周知の事実なのです。同じくらい、息子の安喜良が起こした事件をもみ消していることも、多くの人が知っているのです」


「安喜良が事件を? どんな事件ですか」


「それはもう、様々です。盗み、恐喝、婦女暴行、暴力、とにかく、悪事を働いていない日はないのではと思うほどです。そうして、とうとう武彦君の事件が起きてしまった」


 綾子は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめて俯いた。


「武ちゃんは……、武彦は本当に、殺されたんですか?」


「そうです。間違いありません。安喜良が事件後に仲間に話しているのを聞いた人がいるのです。『あの餓鬼のすました顔が嫌いだったんだよ。殴り殺した方が楽しかっただろうな』と」


 藤田記者は綾子が唇を強く噛んで震えているのを見た。泣き出してしまうのだろうと思ったが、綾子はしっかりとした瞳で藤田記者を見据えた。


「恩赦があるというのも、本当ですか」


「本当です。来月、重森安喜良は出てきます」


 綾子が握りしめたこぶしの震えが、止まった。



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