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闇を裂く杖 第一話

「武彦! 武彦!」


 中年を過ぎた女が泣き叫びながら、青年の体を揺さぶる。嗚咽が警察署の霊安室にこだまする。


 青年にはなんの反応もない。ただ、なされるがままにゆさゆさと揺れている。彼の母であるその女、カネは武彦の胸に顔をつっぷして大いに声をあげて泣いた。



 原田武彦、享年十七歳。


 製紙工場に勤務していた。母一人子一人で、幼い頃から聡明であったが、父のいない家計を助けるため、中学卒業からずっと工場で働いていた。


 彼には親しい友人も恋人もいない。温厚で人の好い性格であったが、引っ込み思案なところがあり、孤独の中に生き、母親のカネと、幼い頃から親しくしていた従妹だけが彼の心の支えであった。



 武彦は人に蔑まれることはないまでも、純朴さと几帳面さのせいで人に良いように扱われることが多かった。中学時代には同年の素行の悪い男子生徒たちから金品を巻き上げられていたという噂もあったが、戦争前後の当時、貧しいものたちが弱いものから奪っていくことは多く見受けられ、学校でも深くは追及されなかった。



 卒業し、学校から離れ、武彦の周囲もかなり変わった。同僚には年代の近い華やかな女性も多かったし、武彦のことを好男子と認めてくれる同年配の男子もいた。ただ、武彦は、自分の評価がどうであっても、謙虚で控えめな性質を変えることはなかった。



 親しくしていた従妹である綾子に「俺はどうあっても、出世など出来る人間ではないから」と本音をこぼすこともあった。そんな時、綾子は「いい、いい。武ちゃんは、武ちゃんの思うとおりに生きるのがいい。だって、優しいもの」と言って、慰めた。



 そんな武彦の日々が変わったのは、重森安喜良に出会ってからである。


 安喜良は地方議員の息子で、二十歳にもなるのに、学校にも上がらず、職にもつかず遊び歩いていた。


 ある日、武彦が同僚に誘われて、初めて玉突きに行ったとき、隣の卓にいた安喜良に絡まれたのだ。他の同僚は上手く逃げたが、武彦はわざとゆうゆうと残り、他のものの盾になったのである。


 それに気づいた安喜良は武彦を仲間に引き入れようとしたが、武彦は毅然と断り、帰路についた。


 以降、安喜良は武彦に纏わりつくようになっていった。




「お母さん、俺に何かあっても、悲しまないでください」


 ある日、突然そのように語りだした息子に、カネは驚いて尋ねた。


「お前、なにか不安なことでもあるのかい?」


 武彦は首を振って、微笑んだ。


「俺には何も心配事はないですよ」


 だが、それから一週間後、武彦は無残な姿で発見されることとなった。



 犯人はすぐに捕まった。重森安喜良だ。安喜良は武彦の死骸が発見されてから二日後に、自ら警察に出頭した。


「事故だったのだ」


 安喜良はそう語った。玉突き場で安喜良と小競り合いになった隣の卓にいた男を止めに入った武彦を、安喜良は邪魔だと突き飛ばし、武彦は卓に頭を強打して死亡したのだと言った。



 母は泣いて、泣いて、泣いた。武彦の数少ない友人が武彦を誤って殺したのだと思うと、許せないと思う気持ちとともに、武彦が「許してやってくれ」と言っているような感じを受けたのだ。


 議員の息子という立場上、カネとは違う世界の人間のようにも思えて、恨みを安喜良に直接ぶつけることも出来ない。


 重森安喜良は裁判で、禁固五年を言い渡された。




 判決を聞いた安喜良は、人知れず笑みを浮かべていた。

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