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ケロイド

作者: 喜久 多怜

「なんだか、兄弟みたいに、一緒にいるのが当たり前になってしまって、このままで良いのかわからなくなっちゃったんだ。」

 あの時、僕が言った言葉に嘘はなかった。

「その気持ち、わかる気がする。」

 そう答えた、彼女の言葉にも深い意味はなかったと思う。

 酸素みたいだよね、彼女はそう言った。

 素直に僕もそう思った。

 なくてはならないもの。でも、傍にあることが当たり前すぎて、その重要性が実感できなくなる。

 全力で走った後のように。

 水の中に潜った時のように。

 少なくとも僕は、目に見えないものの存在をもう一度、確かめたかったんだと思う。

 手にすることができないものの存在を強く感じ取りたかったのだと思う。

 それが罪だったのか、それは今でもわからない。

 少なくとも確かなことは、それを僕は失ったと言うこと。

 そして、目に見えないものは、失って初めてその大きさに気がつくのだ。

 今となっては、なくした痛みが傷となって、胸の奥底にケロイドとして存在する。

 そして、たまにそのケロイドを眺めては、傷のできた理由に思いを巡らすのだ。



「今後の日曜日はどうする?猛はなにかしたいことある?」

「う~ん‥。どこかに行きたいなとは思うんだけど、早くには起きれないかも知れない。」

「あ、そう言えば今週提出のレポートがあるって言ってたね。終わりそう?」

「うん、何とかなるとは思う。日曜日にはかからないとは思うんだけど、明日は遅くまでかかっちゃうかもしれない。飛鳥は何かしたいことある?」

「そうだなぁ‥、とりあえず、レポート終わったら連絡入れておいて。何か考えておくね。」

 週末が近づいてくると、必ずそんなやり取りをした。この一年、決まって繰り返されてきたやり取り。

飛鳥とは幼馴染みたいなもの、と周りには説明していた。とは言っても、僕の方が学年は一つ上であり、特に近所と言うわけでもなく、小学生の頃の習い事が同じだったというだけの関係だったので、今まで同じ環境で生活したことはほとんどなかった。中学校も、高校も、大学も、全て違う。それでも、妹同士が同級生で、母親同士がPTAの役員を一緒にやっていた時期があって、お互いの小さい頃の記憶以上に、親同士がそれぞれのことをしっかりと覚えていたので、まるで家族のようにお互いの家を行き来できた。それを長く説明するのが面倒なので、略して、幼馴染みたいなもの、そう説明していたわけだ。

 ある週末、徹夜には至らず、なんとかレポートを終えることができた僕が、午前中に目を覚ました。睡眠不足にだけはどうしても勝てない。幾分、外が明るくなってからベッドに入ることができたが、そこまで遅くなってしまうと、平日、大学の授業に間に合わせるためだと、目覚ましをかけても午前中に起きるなんて偉業は出来ない。しかし、不思議なもので、週末なら目覚ましをかけなくても、ちゃんと午前中に目が覚める。

 きっと飛鳥からは何かしらのメールが来ていることだろう。確認する前に、顔を洗い、コーヒーくらいは飲みたい。自分の部屋から出て、階段を下りると、リビングから祖母の笑い声が聞こえる。

 両親は仕事に出ていて、今日の午前は家には祖母しかいないはずだった。祖母がテレビに向かって話し掛けてでもいるのだろうか。

「おはよう。」

 そう言ってリビングの扉を開けると、祖母がコタツに入り、白菜の漬物を楊枝で口に放り込んだところだった。

「おはよう。」

 しかし、そう言って返事を返したのは、祖母の向かいでやっぱり楊枝で白菜の漬物を食べる飛鳥だった。

 少し寝不足で、頭の回転が遅い僕は、リアクションもとれず、無表情のまま扉を閉めながら言った。

「とりあえず、支度してくる。」

 キッチンに行くと、すでに落としてあったコーヒーをマグカップに入れ、牛乳を入れて電子レンジに入れた。そして、温めている間に自分はシャワーを浴びに行く。

 どういう流れで飛鳥が祖母とお茶を飲むことになったのかはわからないが、同じ屋根の下で待たれていると思うと、のんびり準備する気にならなかった。

 シャワーを浴び終わり、髪の毛をざっと乾かした後、すでに働き終わったレンジからマグカップをとって二階へ上がる。自分の机の上にマグカップを置き、長袖のシャツに袖を通したとき、僕の背後でノックの音がした。

 は~い、と気の抜けた返事をすると、パタパタとスリッパの音を立てながら、飛鳥が部屋へと入ってくる。ベッドに腰をかけて、靴下を履いていた僕の横に座り、飛鳥が身体をあずけて来る。シャツ越しに、彼女の体温と胸の柔らかさを感じた。

「いい匂い。」

 洗ったばかりのシャンプーのことを言っているのだろう。

 僕は彼女の重さに抵抗を止めて、そのままベッドの上に崩れると彼女を抱きよせて軽くキスをした。

 さっきまで一人で寝ていたときとは違う香りが広がる。その香りを大きく吸い込むのと、飛鳥が僕の胸に顔を埋めてくるのが同時だった。軽く頭を撫でると、飛鳥の肩から力が抜ける。

 一旦、僕は体を起こすと、まだ熱いコーヒーを一口飲んだ。飛鳥はベッドから僕を見上げていた。今日は白のワンピースにグレーのパーカー。少しめくれ上がったスカートの裾から見える足の白さが、寝不足の目には眩しかった。

「まだ眠い?」

「‥うん。」

 今後は僕が彼女の胸の中に飛び込む。

 何で、女の子はこんなにも柔らかくて、甘い香りがするのだろう。

ふっと思い出される僕と彼女の週末の思い出は、外出先よりも、部屋の中が多かった。当たり前のように部屋に彼女がいる、そんな思い出。実際はそんなことないはずなのだ。当時、なるべく外出するようにしていたのだから。

今になって思う。きっと僕はデートらしいことをしようと背伸びをして色々な場所に出かけていたけど、そんな時間よりも、家で彼女のぬくもりを感じているほうが、ずっと好きだったんだって。



「距離を置いてみようか。」

 その言葉に、少なくとも僕には他意はなかった。距離が近過ぎるから、見えなくなっていることもあるのではないか、そう思っていたし、後ろ向きな結果を望んだわけではく、リフレッシュになれば、それくらいの感覚でいた。

 付き合い始めて一年半が過ぎていた。特に用事やバイトがなければ土日は飛鳥と一緒にいることが当たり前になっていた。共通の友達と遊ぶときは二人一緒。その頃、頻繁に顔を合わせる友人たちは僕と飛鳥をセットのように考えていたと思う。いつも一緒の僕たちを、仲が良いと口を揃えて言ってくれた。その言葉はお世辞ではなかったと思っている。僕も飛鳥も、友人も含めてグループで過ごすときは、なるべく距離が近くなり過ぎないように気をつけてはいたので、それほど不愉快な印象を与えるカップルではなかったはずだった。飲み会に行けば別々に座ったし、それぞれ仲の良い異性もいた。あまりベタベタとすることもなく、また僕と飛鳥は身長差が大きかったので、仲の良い兄妹みたいと言われることもあった。

 悪くはなかったと思う。その関係性も、友人たちの間での僕たちの立ち位置も。ただ、その悪くないはずの周りのイメージがだんだんと僕自身にとっては重く感じるようになっていたのも事実だった。きっと、そのイメージに知らず知らずのうちに縛られていたのだろうと、今では思う。

「あれ、今日飛鳥ちゃんは?」

 一緒にいないとそう聞かれることも増えた。一緒じゃなきゃダメなのか、心の中で何度そう返したか。

きっと、それは飛鳥も同じだったと思う。そんな些細なことが一緒にいる時間が長かったからこそ、徐々に小さな不満として積もっていった。そう、お互いに不満があったのではない。そんな僕たちの関係や、友人との在り方に、不満や、理想とのズレが生まれていたのだ。

 あれは、仲の良い友人の誕生日を居酒屋で祝った後のことだった。

 いつもであれば、二次会には参加しない。参加するとしても相談してから決めていた。

「うん、行く行く!」

 そんな飛鳥の声が聞こえた時、違和感を持った僕。そして違和感を持たずにそう言えた飛鳥、その時点からボタンの掛け違いは起きていたのだろう。

 居酒屋の前に屯して、二次会の場所を幹事が決めている時、僕はいつものようにすっと飛鳥に近づくと、彼女にだけ聞こえるように尋ねた。

「二次会行くの?」

 僕は行くつもりはなかった。いつものように飛鳥と一緒に帰るつもりでいた。飲み会の席で一緒に座らなくても、二人で先に帰ることが、自分たちが交際していることを実感できる瞬間でもあったからだ。

 しかし、いつにも増してテンションの上がっている飛鳥は全く帰る気はなかったようだった。

「うん、行く。悪い?」

 僕だけ聞こえるように、それでもはっきりと飛鳥は答えた。きっとその言葉に悪意はなかっただろう。単純に二次会に参加することを楽しみにしている感じだった。彼女自身、それまで二次会に参加したいと思っていたこともありながら、僕に合わせて帰っていたことも少なくなかったのだろう。

冷静に考えれば、たいしたことないことなのだ。それでも、当時の僕には、軽く受け流す余裕はなかった。はっきりと答えた飛鳥の口調が、挑戦的に聞こえ、少し頭に血が上ってしまった。

「行くなら行くで、相談して欲しかった。」

 何とか感情を押し殺しながら、なるべく穏やかな口調でそう言う僕に、苦笑いを浮かべながら突き放すような言葉返ってきた。

「何で?こないだ距離を置くって話したじゃない?いちいち相談してたら、なんにも変わらないじゃん。」

 確かにそうだった。そうだと、その時は思った。しかし、僕の中には無視のできない、しこりのようなものが残った。

「そっか、じゃ僕は帰るね。」

 意地になった、これで僕も二次会に参加したら距離を置いた意味がない。飛鳥に対する反発と、抵抗が僕の中では強かった。突き放すようにそう言うと、誰にも挨拶をすることもなく岐路についたのだった。いつだって、一人で帰るときはメールなり、電話なり、飛鳥に連絡をしながらだった。手持ち無沙汰になりながら、いつもの電車に乗り、ぼんやりと窓の外を眺めた。

 後悔していた。

 一瞬、かっとなって飛び出すように帰ってきてしまったけど、頭の熱はすぐに下がっていた。今頃、何しているんだろう。頭の中ではそんなことがぐるぐると巡っていた。いつも飛鳥が何をしているのか知っているつもりだった。すぐに連絡が取れた。そんな状況が手の中から、すっと離れていった。

 あの日、僕は水色の薄手のジャケットを着ていた。パステルカラーのそのジャケットは飛鳥のお気に入りでもあった。手すりにもたれながら、立っていた自分自身の組んだ腕のあの爽やかな水色は今でもはっきりと覚えている。

 距離を置く以外に、もっと良い方法はなかったのだろうか。

 今ならもっと違った対処できるのだろうか。

 それは何度考えても、そして、どれだけ時間が流れても、答えは出ない。そう、やり直しはきかないのだ。答えなど、出るはずもない。僕が手にできるのは、あの時に



 本当はもっと違うきっかけがあったのかもしれない。それでも、その日のことをしっかり覚えているという事は、僕にとっては大きな転機だったのだろう。

 距離を置くこと。難しいのは距離感だった。自分の感情すら上手にコントロールできていなかった当時の僕が、飛鳥との距離を上手に保つことができるはずもなかった。

 気付けば、デートの数はあっという間に減っていった。居酒屋の前でのやり取り以来、僕は飛鳥との距離を測りかねていた。心の距離は目に見えない。はっきりとした境界線がない分、僕自身、段々と踏み込むことができなくなっていた。

〝変わらないじゃん。〟

 飛鳥のその言葉が、心の中で響くたびに、僕は飛鳥に踏み込む勇気を失った。

 そうだ、僕たちは変わる為に距離を置くって決めたんだ。

 変わる?

 本当にそうだろうか?変わっていないことを確認するためではダメなのか?

 僕の中での違和感は段々と大きくなっていく、そしてどうして良いのかわからずに抱え込んだもやもやを、たまのデートの時にぶつけてしまう。完全に悪循環だった。

 何でこうなってしまったのだろう。

 そう思いながら、カフェでぼんやりとする時間が増えた。飛鳥と過ごす時間が減れば、当然空き時間も増える。手持ち無沙汰になった僕は文庫本や、時には大学の課題を持って喫茶店に行くことが増えた。もともと喫茶店で過ごす時間は大切にしていたけど、他にやることも見つからなかったせいでいつもより増えたのだ。おかげで、のんびりと時間をかけて取り組むことができ、その時期のレポートの評価は高かったというのも皮肉なものだ。

 喫茶店で本を読むことも、ぼんやりと物思いに耽ることも、好きなことは今までずっと変わっていない。あれから十年の月日が流れて、その時々、お気に入りの喫茶店を見つけてきた。そのときの生活エリアによって、行きつけの喫茶店は変わるからだ。当然、結果として足を運ばなくなる場所もできる。でも、嫌いになったわけではない、忘れた頃にふと思い出して懐かしくなると、ふらりと久しぶりに行くことがある。

今日は学生の頃、お気に入りだったカフェに久しぶりに来た。店内の趣はまるで変わらない。ただ、窓際のカウンター席から見下ろすことができるロータリーの景色は随分と変わってしまっていた。デッキは補修工事を終えて随分と綺麗になったし、駅前の象徴だった大型百貨店は数年前に撤退していた。相変わらずタクシーの数は多いけれど、駅前の活気は随分と無くなってしまった。年の瀬にも関わらず寂しいものだ。街も歳をとったのだ。

いや、そうではないかもしれない。変わってしまったのは僕なのだろう。きっと昔ほど居心地の良さを感じなくなったのも、この場所が変わってしまったのではなくて、僕自身の問題なのだろうから。そういえば、あの頃はカフェオレが多かった。最近は少し太りやすくなったこともあって、コーヒーをブラックで飲むことが多くなった。

全く同じ席に座り、当時の自分を探してみる。目の前のガラスに微かに映る自分の顔は自分が思うよりずっと時間の影響を受けているのかもしれない。それでも記憶の僕とそれほど違和感なく重なるのは、過去の自分と向き合うときは少しだけ現実から目を背けているからだろうか。

こんな時がいつかくると、当時、あの頃の僕は思っても、考えてもいなかっただろう。



「バイト先の後輩に、告白された。」

 どうしていいのかわからなくなった僕が、飛鳥にそう言った時、それほど驚きもせず、飛鳥は言った。

「良いんじゃないかな?」

 良いんじゃないかな、その言葉の意味が、その子と付き合ってみたら、ということを意味していることはすぐにわかった。

 飛鳥がのびのびとしているのはわかっていた。そして、一緒にいても心ここにあらず、ということも。二人でいるからできること。そして、改めて一人だからできること、見えること。僕たちは無理して一緒にいたわけではなかった。それでも、お互い一人で行動することが増えて、気付くことも多かった。兄妹のように見られていたこともあって、飛鳥は僕に遠慮をしていることが多かったのだろう。僕とだからできたこと。僕とではできないこと。心の中は数字では表すことができないので、どっちがどれだけ多かったかというのはわからないし、比べてもいなかっただろうけど、つまり、僕は二人だからできることを大切にしたいと思い、飛鳥は一人だからできることが魅力的に映った、ということだろう。すれ違いの原因はそれだけではないとしても、その違いが大きな隔たりを生んでいたことは間違いない。

 だから、別れという選択肢が、お互いの心の中にちらついていた。遠まわしに何度か話はしていた、それぞれ思い描く未来についてを。ケンカをすることも少し増えたけど、それでも、お互いが居心地の良い相手であることに変わりはなかったし、嫌いになったわけでもなかった。それゆえに、着かず離れず、宙ぶらりんだった。次の一歩をどっちに踏み出すか、それで今後が決まるような、それでいて、次の一歩を踏み出すタイミングが見つからないような、そんな時期だったのだ。

 そんな雰囲気に耐えられず、口火を切ったのが、僕だった。

 止めて貰いたかったのだ、僕は。

 それは違う、私の彼氏でしょ、そう言って欲しかったのだ。

 けれども、次の一歩は、僕の望む方に踏み出されることはなかった。

 大きく息を吐いた後、飛鳥はにっこり笑って、はっきりと言った。

「これで良いんだよ。今まで、ありがとう。」

 違うんだよ、飛鳥。これで良いわけないじゃんか。

 結局、その思いはその時、口に出されることはなかった。その言葉を口に出して縋り付く事は格好悪いと思っていたから。

 僕に告白してくれた後輩は、髪の毛が綺麗で、パッチリした二重がかわいらしく、とっても女の子らしい、いつも一歩後からついてきて、穏やかで、健気に彼氏を支えることに喜びを感じるようなそんな子だった。ほんわかしていて、すこし天然で、それでもこうと決めたら突っ走っていってしまう、芯が強くて明るい妹キャラの飛鳥とはタイプが違った。

 ギクシャクしていたことに疲れてしまったというのもあっただろう。タイプの違う子と付き合えるなら、そう思うことで次の一歩を踏み出す勇気を手にしていたのかもしれない。でも、時間が経った今だからわかる。

 僕は飛鳥のことが大好きだった。ただ、それを口に出して伝える勇気も、彼女の気持ちを信じて待つ忍耐力も懐の大きさも持っていなかったのだ。僕は自分の気持ちが行動を通して伝わっていると信じていた。でも、それは僕の驕りだった。伝える努力をしなければ、伝わるものも伝わらない。仮に伝わっているとしても、伝わっていることが本当なのだと信じる勇気を相手に与えてあげることはできない。

 伝えたいことは口に出さなければならないことがあることと、言葉の大切さを、僕は改めて知ったのだ。



 コーヒーのおかわりを店員に頼むと、すぐに持ってきてくれる。そんなところはあの頃と何も変わっていない。おかわりが自由の好意に甘えて、あの頃、何杯ここで飲んだだろう。テスト前に長居をして、飲みすぎて、次の日に胃の調子が悪くなったこともあった。そういえば、たまにここに顔を出していた友人は、今はどこで何をしているのだろう。すっかり会わなくなってしまった。

 友人たちの集まりに、頻繁に顔を出していた僕がそれほど顔を出さなくなったことと、飛鳥と別れたことが関係あるか、と言われれば、関係ないとは言えないだろう。

 友人の中に、飛鳥の顔を見れば、やっぱり嬉しくも、切なくもあった。

 あの笑顔は僕のもの。

 そう思えたことが、自慢にもなっていたのだろう。そしてその自慢は自信にもつながっていた。自信を無くした僕は理由をつけて足を運ぶ回数を減らした。それでも顔を合わせることもあったが、表向きはそれほど気まずい空気が流れることはなかったと思う。いつものように離れて座り、それほど直接のやり取りはないのは、関係が変わる前からのことだから。

 次の彼氏の話も噂で聞いた。噂で、というのは僕自身、集まりに顔を出すことが少なくなっていたし、飛鳥と直接話す機会もほとんどなくなっていたからだ。僕と飛鳥はすれ違い始めてから、距離は遠くなる一方だった。

 どこで生まれた噂かはわからない。僕と飛鳥は大喧嘩をして絶縁状態だという噂を聞いたこともある。自分のことながら、そうなのか、と思ったものだ。実際、用事でもなければ僕と飛鳥に交流はなかった。大喧嘩したかどうかは別として、ほぼ絶縁状態だったのは確かだ。あれだけ一緒にいて仲良いと言われた二人が、ぱったり一緒にいなくなれば、そんな噂が立ったとしてもおかしくはない。距離を縮めるのは中々難しい。でも、離れるときはあっという間なのだということを、身をもって体感したのはあれが初めてだったかもしれない。

 飛鳥と別れてから付き合った彼女には、少し悪いことをしたなと思う。すぐに別れたり、ということもなかったし、仲が悪いということもなかったけど、飛鳥の時ほど、夢中になったという感覚はなかった。結局、僕が冷めてしまった自分の心のコントロールができなくなったことと、彼女がバイトを辞めるタイミングが重なり、フェイドアウトするように大きな衝突もなく終わってしまった。今、彼女のことを思い出しても、浮かぶのは大人しく微笑む彼女の横顔だ。寂しそうに笑っているように感じるのは、誰よりも僕自身が彼女との恋にちょっとした罪悪感を抱えているからかもしれない。

さらに時間が流れると、学生のときに良く集まっていたグループは、僕の事情など関係なく、それぞれの卒業と共に、次第にバラバラになっていった。

 そして、あれからいくつかの恋をした。

 人を愛することの喜びや、痛み、誰かと過ごした時間の輝きや、その輝きが時に孤独の影の濃淡を濃くすることが、僕の心の中に刻まれていった。

 そして、飛鳥の痕跡は、段々と消えていった。

 貰った財布は代替わりをして、一緒に買った服も着なくなった。当時使っていたマグカップは割れ、目覚まし時計も壊れた。そうして、一つ、また一つと、時間の流れには逆らえず、僕の人生から置き去りにされていった。残ったのは、時間の流れが届かない心の底のケロイドだけだった。

 ただ、忘れた頃に疼くのだ。ふっと、思いもかけないときに。

 学生の頃のあらゆる記憶でさえ、仕事に埋もれるような生活を送っていたある日のこと、いつもと変わらぬ日常を終えて、帰路に就いていた。信号待ちをしている時、ジャケットのポケットで、携帯が震えた。

 スケジュールの整理と、頭の中を流れるお気に入りの音楽の世界は、一瞬そこで途切れた。

 懐かしい友人、孝平からのメール。ご報告、というタイトルだった。

 メールの文章の中に、飛鳥、という文字があった。

 忘れかけていたリズムを、心臓が刻む。心の奥の方に風が吹き込んで、忘れていたはずの傷が少し疼いた。

〝飛鳥ちゃんと結婚することになった。一応、報告しておこうかと思って。〟

 まず、友人の顔が浮かんだ。わざわざ僕にメールで報告してくるあたり、律儀な孝平らしい。

 そっか、結婚するのか。

 孝平とは趣味が似通っていることもあって、学生の頃は二人で出かけたりするほど仲が良かった。それでも社会人になってから、勤務地が遠方になったこともあり、最近では一年に一度顔を合わせられれば良いほうだった。最近会ってゆっくり話したのはいつ頃だったか。正確な時期は覚えていなかった。

 争いごとを好まない穏やかな性格。それでもたまに、少しピントのずれたところで腹を立てたりするが、それが逆に彼の人のよさを際立たせていた。特別なことはしないけど、それでも着々と自分のしなくてはならないことをきっちりこなしていくそんな男。そういえば、職場の付き合いでマラソンをすることになったと言っていたことをふと思い出した。高校の頃は陸上部で短距離の選手だった彼は今ではきっちりモデルチェンジしているのだろうか。

 大丈夫、そんな孝平なら、きっと飛鳥を幸せにしてくれるだろう。

良かった、良い人を捕まえてくれて。

何年も前の二人が脳裏に浮かんだ。飲み会の席で、仲良さそうに話す孝平と飛鳥。何故か、孝平だと嫉妬はしなかった。あまりに自然に二人が話していたからかもしれない。当時、飛鳥には別の恋人がいたはずで、きっと孝平はまだ恋人ではなかったはずだ。それでも、もしかしたら、あの頃から、いつか二人は一緒になるように運命は動き始めていたのかもしれない。そういえば、二次会に行く、行かないで揉めたあの誕生会の主役は孝平だったはずだ。

 もしかしたら、それは神様の悪戯だったのかも知れない。あの時から、ずっと一本の糸が今の二人まで繋がっていたのだろう、きっと。

 ただ、そのおかげで僕の傷が浅く済んだのかもしれないのだ。あの時、別れていなければ、その先幸せであったという保証はない。もう戻ることができない過去だからこそ、期待を込めて、幸せだったんじゃないかと後悔の材料にしているだけだ。

 間違いないことは、今の僕は、飛鳥や孝平と過ごした時間の先に立っている。

 あれから十年。

 けして短い時間ではないと思う。当時から付き合いが続いている友人はだいぶ少なくなった。

 仕事が忙しいから。

 転勤してしまったから。

 家庭を持ったから。

 なんとなく理由もなく、自然消滅してしまった友人もいる。むしろ、そんな友人がほとんどだ。

 みんな、何をしているだろう。

そう思うたびに、こうして感傷に浸る人が僕以外にもいるのだろうかと思う。

そして、たまにどうしようもなく寂しくなることがある。僕一人だけ、取り残されているようなそんな気がしてしまうのだ。

 こうして振り返ってしまう僕は、あれから少しは前に進めているのだろうか。成長しているのだろうか。決まってそう思うたびに、いつかの僕に問いかける。

 なぁ、今の僕は君にはどう見えるんだい?

 いつかの僕は何も答えず目を細めて笑っている。

 答えはきっと見つからない。これからもずっと。それでも、こうしてたまに自分の心を見つめなおしては、自分の現在地を確認すること意味があるんだろう。

 だから、僕はまたこの場所に来るだろう。

 さて、そろそろ動き出さないと、待ち合わせの時間に遅れてしまう。

 僕は立ち上がると、カップに手を伸ばした。残りのコーヒーはすっかり冷めて渋みが増していた。一気に飲み干すと苦味と渋み味は僕の中へと染み渡っていった。そして最後に口の中に残ったのは微かな香りだけだった。


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