9.
ヘッドセットを外したとたんに聞こえたおえっという声に、イシグロは冷ややかな視線を向けた。
調査委員の一人が身に付けたVRギアを脱ぎ捨てて、口を押さえて青い顔をしている。
椅子から立とうとしたところでもう一度嘔気にみまわれたようで、彼はそこで噴水のように吐物を撒き散らした。
「……汚いなあ」
誰かがぼそっと言ったが、吐いた本人は気が付きもしなかったろう。
なにしろ立ち上がる事も出来ないほど、酔っている。目の前で再現される感覚情報と自分の肉体から入力される情報の齟齬が原因で起こる現象で、ヴァーチャル・リアリティ技術が登場した当初から知られている、いわゆるVR酔いだ。
「イシグロ少佐は大丈夫ですか」
ヘッドセットを受け取りながら、監視局の担当者が訊いてきた。
「問題ありません。客観型検証を先にやっていれば、自分が耐えられるかどうか判りそうなものですがね」
実際、耐えきれないと判断して没入的検証を行わなかった担当者もいる。
なにしろ自分の肉体とサポートドローン3機の情報を同時に受け取り、全てを駆使して戦闘している最中の情報だ。それでなくとも情報量が多い所で、αは通路も壁も無視して破壊を繰り広げている。3次元機動なぞお手の物で破壊活動を繰り広げる本体と、それに追従し支援攻撃を続けるドローンの生情報では、通常の原種が受け取ったら処理不能だ。
生身の脳に優しい量では無いし、そもそも4体とも視野が異なる上にブレまくっているから、馴れていなければ観察し続ける事も出来そうにない。
「よく平気ですね……やはり種族特性ですか?」
グラエス種の特性はとにかく頑丈であることだと言われている。
「私は起源個体ですから、原種ですよ」
改造前の遺伝子を保有する個体なのだから、種としてはイシグロも原種だった。軽改造しているから完全な生身ではないし、起源個体だけあって各種拡張用デバイスとの相性は良く、処理できる情報量は比較的多いのだが。
「訓練ですか」
「そうとばかりも言えませんね、普通はαほどひどい戦い方はしませんから」
今回の戦闘はαとしては大人しい方だろう、という意見は飲みこんで、イシグロは他の器具をその担当者に押し付けた。
「幾つか検討点がありますね、後で纏めてお渡しします」
負傷した仲間を庇った瞬間に、不審点がいくつか見えた。使用したドローンの調査報告も再確認が必要だ。
とはいえ、犯罪捜査は連絡将校の職務範囲に無いし、家族もその権利を持っていないから、あくまでも不審点を指摘するにとどめる必要がある。
そして家族としての立場から言えば、もう一つやる事があるのは自明だった。
もちろん、油断のすぎる次兄へのお説教である。
『用心しろ、と言われてもなあ』
さっそく逃げ腰になっているが、とりあえず逃げを打って、あとはしらばくれる(というか悪意も何もなく、さっくり忘れるだけだが)のがαのいつもの行動パターンだ。
「私が気付いたくらいです、あなたが気が付かなかったはずはないと思いますが?」
とり纏めて監視局担当者に渡した程度の不審点を列挙して、とっちめておく必要はある。
だいたいこのαは、味方と見なした者に甘過ぎる。
少しは疑う事を学習すればいいのだが、100年以上存在していて未だにこのざまだ。放置したら永久に学ばない。
『気が付かなかったとは言わないが、あの戦闘中に俺を狙う必要があるとも思わんからなあ』
「用心する事くらい可能だったはずです」
『大破はしなかったぞ?』
いつもの通り、脳天気にも程がある言い訳が返ってきた。
「動けりゃいいってもんじゃありません。だいたい自力で帰還してもその足でドック入り。外装は全交換。威張りたかったら壊れず帰って来てからにしてください」
『戦闘なんだから、多少壊れることだってあるだろう』
「油断してやられるのを多少とは言いません」
担当サイバネティカーがあちらをむいて肩を震わせていた。
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見物客がいるのに気付いているのだろうが、気にする様子もなく起源個体を説教しているイシグロに、お気楽娘2人も明後日の方向を向いて、音を立てずに笑っていた。
「あの、アドルさん、イシグロ少佐ってああいう人なんですか」
それでもいささか配慮があったのはアキで、
「お、おかんがいる……」
と、アカネはまったく遠慮がなかった。声を忍ばせる努力はしていたが。
それもまったくもっともな話で、片や伝説の戦闘型ハイブリッド知性体、片や始原型戦闘種起源個体βであると知っていればますます、このいかにも平和な光景には笑いしか誘われない。
「あいつのがみがみ屋は、今に始まった話じゃないからね」
とにかく桁外れの逸話が多い起源個体αに比べ、常識人(それも、いささか融通がきかないと思えるレベルの常識人だ)のレイ・イシグロには、士官学校時代も世話になった覚えがある。同期の仲間がやらかすと隠蔽工作に駆け回り、爾後に仲間を説教するのがイシグロの役回りだった。
面倒見の良い男であるのは間違いない。ただし、仲間限定だが。
「この調子だと、あと二時間くらいは説教コースかな」
「うわぁ、意外にしつこい」
「起源個体αに対しては特に五月蠅いんだよ、あいつ」
本人は冷淡に振る舞ってるつもりのようだが、どう見ても暴走しがちな兄とブレーキ役の弟という組み合わせである。
イシグロの説教だけはαも閉口するらしく、しばらくは大人しくなる、とは長兄である情報知性体ヒロヤス・ヨコタ准将からの情報だった。
「助けたほうがいいかな」
「……いっぺん、締められとけばいいと思います」
意外な事に、これを言ったのはアキだった。
「お見舞いは出直します」
「それでいいのかい?」
「なんか、楽しそうですし?」
どこが楽しそうに見えるのかは謎だったが、イシグロを放置する事にアドルも否やは無かったので、同意する事にした。
VR酔いについては現状で知られているものを記述しています。
ここ何年かでようやく実用レベルの機材が登場してきましたが、コンテンツ利用についてはまだ発展途上です。気分が悪くなる等の症状が出る方は無理をしない方が良いでしょう。