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柘榴林に帰る  作者: 八束
三章 別な星の奇妙なたより
9/18

(1)

 修道院を発って数週間。巡礼道に沿い、ようやく聖都に通じる街道に出たふたりは、地方都市ドヴィンの門をくぐった。

 ドヴィンはカラスタンのなかでは比較的標高が低く、使徒教会にとっての精神的支柱、聖山アララトの近郊にある交易都市である。主な産出品は、アララトのある山脈から採れる境界石と、その他一般の鉱石、さらにはその研磨や加工専門の職人が集まる技術的要衝でもあった。

 発生当初は凝灰岩トゥフを積み重ねた壁に囲まれ、しだいに外郭に沿って街が発展し、そのたびに壁が外へ外へと増設され――結果的に、円形の石壁によって入れ子状になった構造だ。あたり一帯を占める聖皇領のなかにあっても経済的に独立しているが、他の地域同様、境界石を持つ特権階級が権力を握っている。かれらは街の中心地に住まい、同時にいくつもの商業組合を束ねる長である。その壁の外側に住まう人々は、魔術とは縁のない生活を送る人間がほとんどだ。

 ハスミックに連れられ正面門をくぐったユスハを出迎えたのは、内側にそびえたつ淡灰色の壁、それを覆い隠すほどに連綿と続く天幕の数々。そして人々の、生々しいほどの熱気だった。

「はぐれないでくれよ、ユスハ。何なら手を握ってもいいが」

 天幕のひしめく細い通りは、雑駁としてとりとめがない。客引きをする街頭職人に限らず、荷を積んだ山羊を連れる商人、異国風の、肌の黒々とした大男や白皙の少女。薄暗い衣に身をつつんだ人々の行き交う通りでは、背の低いユスハはすぐに溺れそうになってしまう。先行するハスミックの背で揺れる銀髪を見つめ、彼はむぅと唇を尖らせた。

「これくらい、大丈夫……っ、」

 背後からどんっ、と押され、足がもつれる。思わず倒れこんだ先にあったものを掴み、なんとか転ぶのだけは避けた。

「大丈夫そうじゃないな、まったく」

 よすがにしたのはハスミックの背だった。白衣に包まれる異性の骨格、その薄さ、手のひらに漂う体温。ユスハはぱっと顔を赤らめると、慌てて体を離そうとする。しかしどっと門のあたりから溢れ出た人の量に、ますます密着してしまう。

「頼りないな、まったく」

 ひょいと引っ張られた手首が脇を通り、腕を組まれる。そのまま歩き出したハスミックを、ユスハは信じられないという目で睨んだ。

「お前っ、ばか、何するんだ!? こんないかがわしいっ、」

「仕方ないだろう。このままだと、すぐにはぐれてしまいそうだ。これくらい我慢してくれ」

「っ……、」

「もう少しの辛抱だよ。このあたりは人の出入りも激しいから、治安がよくないんだ」

 言い返す間もなく語られ、ユスハはきつく唇を噛みしめた。

 せわしなく繰り返される談笑、そこに織りこまれる異国の響き。砂埃に灰色に曇った外気のなか、ユスハは途方に暮れて空を仰いだ。

(この女、本当に馴れ馴れしいな。でも信じるといった手前、僕もあまり怪しい真似はできない……)

 何ひとつ、手の内を明かそうとしないハスミック。境界石をかなぐり捨ててまで救いにきた彼女が、“ユスハ”に何かしらの思い入れがあるのは確かだろう。

(何で、なにも言わないんだ? 僕に知られたら困ることが、なにかあるのか……?)

 ハスミックの横顔をちらりと盗み見ると、偶然か目が合った。やわらかに眦がゆるむ様は、山間の教会での出来事以前には見られないものだ。素っ気ない言葉に反し、彼女の態度はあきらかに軟化しはじめていた。

 その様子をまざまざと目にするたびに――ユスハの心には、得体のしれない不安が渦を巻くのだった。彼女の“優しさ”は、ユスハの心の奥底にある、真綿のようにやわらかい部分を絡めとろすとする無数の触手のようであった。

(僕は、ヴァガルシャパトに行ければいい。こんな女なんかに、情なんてこれっぽっちもない)

 そう考えると、きりきりと心臓が痛んだ。

 ユスハのものと同じくらい細い女の腕。頼りないながらも、ユスハを逃さまいと、たしかな熱と力のこもる指先。

(でも、どうして、僕は……ヴァガルシャパトに行きたいんだ?)

 そのことを考えようとすると、頭はとたんに収束がつかなくなる。どっと押し広がる熱と焦燥はユスハの理性を掌握し、ろくな思考を許してはくれないのだ。

 あそこに何があるのか。自分の根源があるのか。そこにハスミックは関わっているのか。堂々めぐりの考えしか繰り返せないユスハは、突然、目の前に広がる人波が割れるのに目を瞠った。

「そこのガキを捕まえろ――――っ!」

 けたたましい喧騒が一瞬やわらいだところを、どこかの行商人の怒声が突き抜ける。割れた人波を通って、荷袋を抱えて走る少年がユスハの視界に飛び込んだ。

 丈夫な羊の皮を織った袋からは、きらきらとした大小様々な石の耀きが洩れている。――未加工の境界石だ。薄汚れた装いの少年はそれに必死にしがみつきながら、荒れ狂う人波に飛び込んだ。

(境界石?)

 泥と埃まみれの髪を振り乱し、痩せっぽちの少年が横を通り過ぎる。群集の沈黙が一瞬のうちに喧騒に反転したとき、ユスハはハスミックの腕を振りはらっていた。

「ユスハ!? どうするつもりだ!?」

 放り投げられた荷をとっさに受け取り、唖然とするハスミック。その声に耳も貸さず、ユスハは少年の背を追った。

 雑踏のなかでは埋もれがちな体格も、足を留める人々が多いなかでは役に立つ。やっとの思いで近づいた子どもは、実年齢は定かではないものの、体躯はユスハの一回りも二回りも小さかった。

 缶の底を叩くと、蓋が飛びはねた。中の石灰に手を突っ込んだときにはもう、声を上げていた。

「石よ!」

 石灰は拳大の石へと姿を変え、少年の頭へとぶつかった。衝撃に足場を崩した少年は、そのままずるりと地面に倒れこむ。しかし執念からか、皮袋はしっかりと抱きしめたままだ。

「お前――」

 ざわめきが二人を取り囲む。ユスハは子どもの足を踏みつけると、起き上がってこちらを睨みつける目を見つめた。

 乾いた風が流れて、天幕がばたばたと揺れる音がした。中天にかかった太陽から照りつける日が、焦げつくような光を放ち、首筋を滑り落ちる。

「それを離せ」

 喉の奥から絞りだした音は、思った以上に低く、強張っていた。

 地面に落ちたユスハの影にすっぽりと収まってしまうほど、子どもは小さかった。蜻蛉のようにいたずらに伸びた両手足を丸め、怯えた目をして皮袋にすり寄る。その動作に苛立ちを覚え、彼は地面を荒々しく踏みつけた。

「それを――」

「ああ、坊主! よく捕まえてくれたな!」

 ユスハの声を遮ったのは、先ほど助けを求めていた行商人だった。ぽんっと馴れ馴れしく肩に手を置き、「あとは任せてくれ」とばかりに笑いかけてくる。

「……、」

 しかしユスハは振り返りもせず、足もとの子どもを見つめつづけた。

「何で境界石を奪ったんだ? 金になるからか」

「っ……」

「答えろ、どうしてだ?」

 薄汚れた身なりのなかで、白目だけは雲のように鮮やかだ。きょろきょろと落ち着かないそぶりを見せ、少年は下唇に歯を立てる。

「答えろ!」

 ざらついた怒声を上げ、ユスハは少年を蹴りつけた。痩せこけた体は、雑踏を駆け抜けたときにほとんどの力を振り絞ってしまったのだろう。少年の躯はあっけなく地面を転がったが、呻き声のひとつも洩れない。砂埃と汗の滲んだ目を苦々しげに瞬き、割れた唇が、ゆっくりと開かれた。

「この石があれば…………、」

 ユスハは再度少年を蹴りつけた。やわらかい腹を力のかぎりで踏みつけると、うぇっと空気の抜ける音が響く。唇を引き結んで顔を背けると、すぐに踵を返し――ユスハは困惑する行商人の横を通り過ぎた。

(なんなんだ、僕は。わけがわからない)

 自分の心が、根源のみえない熱に燃え盛っているようだった。騒ぎが収束したのを見てふたたび流れ出した雑踏を掻き分け、道の端まで歩いてゆく。そこで立ち止まると、ユスハは拳を握って俯いた。

(でも……僕は)

 風に、銀の髪が流れた。弾かれたように顔を上げ、ユスハは正面に立つ女に焦点を絞った。

「ユスハ? どうしたんだ、急に。君が善人まがいの行いをするなんて、想像もしていなかったな」

「……違う。僕はただ」

 含み笑いを洩らすハスミックから目を逸らし、胸に手をあてがう。

「ただ、喉に小骨が引っかかったような……よくわからないけれど、あの子どもを見たときに、何か、嫌な思いがした。それだけだ」

「そうか」

「失った記憶にも、似たようなのがあったのかもしれない」

 ちらりと盗み見たハスミックの口元は、甘く緩んでいた。視界にきらついたその笑みに、なぜかぞくりと背筋が震える。

「気のせいだろう。君が“外”に出たことは、一度たりともなかったはずだから」

 懐に手を入れ、ふたつの境界石を握りしめる。ざらついた断面に指の腹を寄せるユスハを、ハスミックはやわらかい眼差しでもって見つめた。

「魔力もない人間が、境界石を盗んだことが許せなかっただけじゃないか。あれを特権階級にあこがれる人間相手に売りさばけば、相当な金になるから……」

 ハスミックの指摘に、ユスハは顔を伏せた。自分でもよくわからない、と心のうちで言い訳をして。

 聖都ヴァガルシャパトで権勢をふるう、特権階級スカンチエラコールシュは、血族内での婚姻をくりかえす魔術師集団だ。その権威を手にするには生来の魔力を見こまれ、境界石を授けられる必要がある。その事実を逆手に取り、魔術の才はなくとも境界石だけは手に入れようとする者は後を絶たない。

 魔術を使えないのだから、神官や魔術師として力の行使を求められる聖都にいつくことはできない。しかし比較的その制約のゆるやかな他の聖皇領では、大手を振って歩くのにこれほど有用な“身分証明書”はない。

(……だめだ。考えても、無駄だ)

 腹の底に溜まった澱をついぞ引き上げることはできず、ユスハは諦めた。かぶりを振ると、なんでもない、と答える。

「それより、宿に行くんだろう。今度はさっさと決めてくれ」

「ああ、大丈夫だ。今回は、ここに住む同胞の家を借りようと思うから」

「同胞……?」

「境界石の持ち主さ。この街を取り仕切っている連中だ。あいつらは同胞意識も強いし、金を出せば大抵のことは聞いてくれる」

 ハスミックの答えに、ああ、とユスハは頷いた。やみくもに宿を探してくたくたに疲れきる必要がないと分かって、彼は内心安堵した。

 再び人の流れのなかに身をゆだねる。道の端々に張られた天幕は、ときに目を瞠るように美しい紅色染色と刺繍を施している。その下では日用品に始まり、木工や金属細工、岩塩の詰まったたくさんの壷、遠方の湖から運ばれてきた乾燥魚。さまざまなものが入れ替わり立ち代り、歩くユスハの目に飛びこんでくる。

 天幕に目を奪われるユスハをよそに、ハスミックはひとつの天幕で取引をしていた。そして手に入れたものを、彼に向かって突き出す。

「……ざくろ?」

 ぱかりと手のなかで割られたざくろ。滴る果汁はまるで血のように、ハスミックの掌をこぼれ落ちた。断面からは無数の赤く色づいた種が、日を受けてぎらりと銀色の光沢を放っている。

「嫌いじゃないだろう?」

「……それは、まあ」

 促されるままに、ざくろの片割れを受け取る。ぐっしょりと濡れた果実はしっかりと種が詰まって重く、甘酸っぱい匂いを放っていた。

 ごうと渦を巻いた砂埃が視界を覆う。ハスミックの口から吐き出された種を目で追う。それは雑踏のなかに落ち、すぐに人の足に踏みしだかれた。

 空腹であったし、柘榴はユスハの好物でもある。しかし無機物を前にしたように口をつける気にならず、ユスハは手の上の物体を見つめつづけた。

「ユスハ、食べないのか?」

 ハスミックに促され、ようやくの思いで果実の断面に唇を寄せた。唇の乾いた表面に触れた果肉は、ぬるく、独特の臭気を放っていた。


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