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柘榴林に帰る  作者: 八束
二章 心の青あざ
8/18

幕間

 瞼をちくりと刺すものを感じ、ソナは目を開いた。

 ささいな針のもとは、眩い光の束だった。

 天井を四角に切り開いた窓から、澄んだ日光がこぼれ落ちてくる。光はさめざめと冷たい少女の部屋を、ふんわりと明らめた。散らばった羊皮紙の束を、くすんだ銅の水差しを、壁や床の細かな意匠までに、淡い陰影を刻みつける。同時に、彼女の小柄な体躯をもしっかりとさらけ出した。

 まだ性の匂いの淡い、手足ばかりが蜻蛉のように伸びる年頃の――未成熟なこども特有の、鋭さのある肉体だった。肌は磨きぬかれた赤銅のようで、混ぜもののない黒髪は、その一本一本に潤んだ光沢が照りついていた。

 夜着を脱ぎすてようと、ソナは堅い寝台の上で身を起こした。からだ中にじっとりと湿った綿が詰まったような不快感があり、手足が思うように動かなかった。重いかぶりを振り、自身のままならさに嘆息する。同時にそのままならさは、彼女にとっては、血の繋がった半身と同じくらい付き合いの長いものだった。

 苦労して生成りの長衣をまとい、力の入らない指で帯を締める。慌しく自室の外に飛び出すと、回廊を通って吹きすさぶ風が頬を撫でた。赤ばんだ火山岩を汲みあげた柱廊には縞模様に影が連なり、皓々とした厳しい日光が照りつけている。ヴァガルシャパトの最奥――聖皇カトリコスとごく限られた者にしか立ち入れない区域に、当然ながら人の気配はない。

 静寂をかきわけ、ソナは足早に柱の影を突き進んだ。骨と皮だけのような腕には大きな聖典。身じろぎするたびに、腰でがしゃがしゃと揺れる真鍮缶。風にばたばたと揺れる長衣の裾は、たっぷりと布が余っている――血を分けた兄同様、彼女に与えられる衣服も装飾品も、すべて大人のために誂えられたものだった。

 ソナに、あるいは彼女の兄に――一瞬たりとも、子どもであることを許された時期はなかった。周囲の神官や魔術師、そしてかれらに最も近しい聖皇の老婆にいたるまでが、かれらに幼年期を与えようとはしなかったのだ。一人前の大人として扱い、物を与え、そうふるまうように強いた。孤児であった彼らはそもそも愛情のこもった庇護も知らなかったから、それが自然なことであると思っている。

 ――そうであっても、ソナの体は年相応に未熟だった。

 少し歩くだけでも、眩暈と息切れのする体。立ち止まって荒んだ呼吸を整えては、ソナは果てしなく広い宮殿をとぼとぼと歩き続けるのだった。

「あっ……、」

 動悸の走る胸を抑えて、何度めかも分からず足を留めた。同時に近郊のの山から降りてきた、冷たい風の塊に背を押され、よろよろと石畳の上に崩れ落ちた。

「っ……、」

 したたかに打ちつけた手足が、とたん、火を噴いたように痛み出す。少女は力なく熱をもった石畳の上に倒れふすと、視界の端に転がった缶を見つけた。真鍮の缶からは蓋がはずれ、中の石灰がほとんどこぼれてしまっている。

(いやだ……いやだな)

 まなじりで水滴がふくらんだ。ソナは兄のように虚勢を張るのが苦手だった。すぐにみじめさで胸がいっぱいになって、心が奈落の底にまで沈みこんでしまう。

 さあっと流れた風が、黒髪を綿毛のように煽る。

 せめて嗚咽だけはこらえようと、ぐりぐりと埃っぽい石畳に顔を押しつけた。

 今頃は、刻限通りに姿をみせぬ妹に、彼が癇癪を起こしていることだろう。聖皇はふたりが揃わないと謁見を許してくれず――兄がそれに対して大きな不満を持っていることは、ソナも身にしみて知っていた。

 それも当然なのだ、と彼女は思う。

 優秀な兄に対して、ソナは何事も十分にはこなせない。容姿ばかりがうりふたつの自分を、彼はひどく苦々しく思い、心から憎んでいる。ソナは兄の怒りを想像して、きゅっと下唇を噛んだ。

「…………」

 ふと、足音が聞こえた。

 “みっともないところを、わざわざ人に見せるのか”――頭の隅で囁いた兄の言葉に弾かれたように、ソナは顔を上げた。皮膚にしがみついた砂塵が、ぱらぱらと落ちてゆく。瞼を閉じて眼孔の熱を逃がすと、目元の涙を服の袖でぬぐった。

「大丈夫ですか? ソナ様」

 しかし、時は遅く。そのまま通り過ぎてくれればよいものの、足音はよりにもよってソナの背後まで続いた。玲瓏とひびく女の声が、次いで投げかけられる。

「お体の具合が悪いのですか? それとも、どこか怪我でも……」

「いっ、いえ、なんでも……なんでもありませんっ、」

 頭を左右に振って、ソナは慌てて体を起こした。節々が痛んだし、万全とも言えなかったが、今はこの場を逃げ出したい――。

(だって)

 他人に気遣われる価値など、自分にはこれっぽちもないのだ。ソナは本気でそう思っていたし、兄の辛らつな言葉は、つねにその思いを助長させていた。

「……額、すりむいていますよ。転んだのですね」

 足に力が入らず、ままならない思いをするソナの額に触れたもの。

 視界に飛び込んだのは、うら若い女のかんばせだった。白々とした光に照らされて、ぬるつくような光沢を放つ銀髪が、風にゆうらりと揺れる。

「ソナ様、立ち上がれますか? 私の肩でよろしければお貸しいたします。お部屋に戻りましょう」

「っ、え、そ、そんな。いいの。大丈夫だから。お兄様のところに、いかないといけないし、」

「でしたら、私とともに参りましょう」

 顔を伏せたソナを前に、女はゆっくりと膝を折った。頬を拭った手巾が砂埃に汚れているのを見て、ソナの中で張りつめる糸がぷつん、とはじけて――みじめさに、涙が溢れた。

「あっ、ご、ごめんなさい、あの、あのっ、そんな、私……」

 左右にかぶりを振ると、長い横髪で目元を覆った。

「ごめんなさい……」

 消え入りそうな声で繰り返して、こうべを垂れる。長衣の裾をきゅっと掴む。心臓がきり きりと痛んだ。

 大抵の人間なら、ここで兄とソナを比べて嘆息するものだったが――目の前の女は、珍しくそうではなかった。

 彼女はなかば強引にソナの顔を上げさせると、にこりと鮮やかな笑みを浮かべたのだった。

「ハスミックです」

「……ハスミック?」

「今日づけで、第三神官の位を預かりました。これから当分のあいだは、ソナ様とユスハ様のお傍に侍り、おふたりの手となり足となりましょう。ですから私に対しては、そう畏まらないでください」

 琥珀のようなはしばみの眸を細め、女――ハスミックは言い放った。

 対するソナは、はた、と目を瞬く。第三位神官。記憶が確かならば、一位から六位にまで連なる神官階級の中間だ。ハスミックは確かに第三位を示す、銀を降りこんだ帯を身につけていたから、それが偽りというわけでもないだろう。

(こんなに若い女の人が、第三位?)

 しかしソナの知る限り、これほど若く、そして女性がこの地位についたという話は聞いたことがない。

(とびきり、優秀なんだ)

 相応の家柄だけでなく、見合うだけの能力を兼ね備えているのだ。目の前の光景からゆっくりと事情を咀嚼し、そして一縷の影もない女の微笑に、とたん、ソナの心は暗澹に押し潰されたのだった。

「行きましょう、ソナ様。立てますか?」

 いつのまに拾い集めたのか、真鍮缶をそっと手渡された。そのずっしりとした重みに、ソナは睫毛を伏せる。

(私よりもずっと優秀なのに……そんなひとに、傅かれるなんて) 

 ぶわぶわと、心が海綿のように水を吸って膨らむ。水は澱み、白んでいた。

「……うん」

 しかし、ここで差し出された手を振り払うほどの気概もなく。ソナはハスミックの肩を借りると、兄にもとへ連れて行ってもらったのだった。




 がしゃん、と何かが砕け散る音がする。

 聖皇カトリコスの間に隣接する小部屋。外部とを隔てる白い紗幕をくぐったソナを出迎えたのは、案の定、兄の癇癪だった。

「ソナ! お前、ようやっと来たのか!」

 ソナと瓜二つの顔に、しかし彼女には決してない表情を浮かべ――彼はぺっと床に唾を吐きつけた。濃やかな睫毛に縁どられた眸が、ありありとした憎悪を湛えてソナを睨みすえる。

「いつもいつも、本当に愚図なやつだな!? どこで油を売っていたんだ!」

 力なくこうべを垂れ、「それは……」とソナは口ごもる。その弱々しいまなざしが映し出すのは、室内の惨澹たる状況だ。

 磨きあげた黒大理の床には、さまざまな物が散乱していた。長椅子を覆うはずの繻子織、砕けた陶器や水差しの破片。それらは天窓からの日を受けて、ぎらりと鋭い耀きを放っていた。

「くそって、この出来損ないが……! どうしてお前みたいな愚図が、僕の片割れなんだ!? とっとと羊水に溺れ死んでしまえばよかったものを! 聖皇様も、なんでこんな馬鹿と僕を……!」

 兄の怒りは、夏場の砂嵐のように激しい。ソナはそれが通り過ぎるのを待って、じっと身を縮こまらせていなければいけなかった。

「ごめん、なさい……」

 だらりと力なく垂れた前髪が、ソナの視界を覆う。しかし突然その髪房を掴まれ、彼女は顔をしかめた。怒りの形相が飛び込んでくる。同じだけの栄養分を摂っているはずなのに、兄のほうがよっぽど健康的で、肌もつやつやと赤みを帯びていた。

「きゃっ……!」

 抗う間もなく、冷たい石床に引きずり回される。ソナがか細い悲鳴をあげると、苛立たしい兄の声が重なった。

「お前なんか、死んでしまえばいい、いっそのこと、死んでしまえば……!」

 陶器のかけらが密集するところに突き落とされ、ソナはうつ伏せに倒れこんだ。ぐりぐりと後頭部を、布靴の底でなじられる。堅く結んだはずの唇から、磁器の破片が飛びこんできた。ぶるりと背筋が震える。

 少年の加減を知らぬ残酷さと、舌上にわだかまる凶器に冷たさ。眩暈がした。

 首を掴みあげられたとき、やっとの思いでぺっと陶器の一片を吐き出す。唾液にまみれたそれは、床の表面にぶつかり、きいんと透明な音をこだまさせた。

「……ソナ」

 こちらを覗きこむ黒曜の目は、燃え立つように熱い。

「ごめんなさ、」

 目の前の突き出された、陶器の破片。すり減らした石刃の先のように、尖りきっていた。

「わかってくれるだろう?」

 耳朶に吹きかけられた声は、一転して甘く――。

「お前はいらないんだ。少なくとも、僕はお前なんていらない。わかってくれるだろう、ソナ。お前がいるせいで、僕が不幸になるんだ。お前みたいな馬鹿が、僕と同じ位置にふんぞりかえって、当然のように僕と同じものを享受して」

「……ごめんなさい」

「お前はいつもそればっかりだ。たまには誠意を見せてくれないか、ソナ。僕の気持ち、お前なら分かるだろう?」

 陶器の破片を持つ指先が、しだいに震えだす。ソナはきゅっと目を瞑ると、いやいやと頭を振って、その切っ先から逃れようとする。

「ソナ!」

 そうだ。自分はいつだって、このひとに憎まれている。

 頭も悪ければ、魔術も十分に使えない。体も弱ければ、すぐに泣き出す。そんな自分を、このひとはいつだって疎んじている。鏡のように同じ容姿をしながらも、ままならないソナという存在を。

 ――いやだ。いやだいやだ。

 どうして、こんなに憎まれなくてはいけないのだろう。この人と血を分かち――宿命を定められたために、自分たちの関係は暗渠へと放り投げられた。闇のなかでもがくほど、ふたりを繋ぐ糸はよれてこじれるばかりだ。

(私は、ただ……)

 眦を熱い涙が流れたとき、彼女は差し出された凶器を握りしめていた。薄い手のひらに、ぎざぎざとした断面が食いこむ。どくん、と、全身の血潮が騒いだ。

「ごめんなさ、い。ごめんなさい……。ごめんなさい。私なんかが、生まれてきて」

 縷々と涙を流し始めたソナを、少年は鋭い目つきで眺めた。何かを言いかけた口をつぐみ、ぱっと手を離す。

 どさりの床上に投げ捨てられて、ソナはなおもしゃくりを上げて言葉を続けた。手のなかの破片を魔よけか何かのように大事に握りしめて。嗚咽に邪魔されながら、ソナは希った。

「ごめんなさい。ごめんなさい、私みたいなのが、妹で。迷惑ばかりかけてごめんなさい。でも……でも! お願いだから、捨てないで……」

 見つめたさきに、兄の姿は無かった。聖皇を呼びに行ったのだと気付くのに、働きの鈍った頭はずいぶんと時間を要した。

 ――憎まれている。疎んじられている。それがはっきり分かるのに、ソナにはどうしても、兄を嫌うことができなかった。

 唯一の肉親なのだ。

少なくともソナをなぶり続ける限り、彼は――。

「ソナ様」

 名を呼ばれて、ソナはゆるりと顔を上げた。ぼやけた視界に映ったのは、ことのさなかに沈黙を貫きつづけた女神官だ。

「あの方は、いつもあのようなことを?」

「……うん。でも」

 それでいいの、とソナは答えた。

 凶器の先に唇を寄せて、ソナは祈る。このつながりが続いていきますように、と。

「……嫌われても、無関心じゃないなら。いいの」

 黒曜の眸から、ほろり、とまた涙が落ちる。

 それは耀いた。散乱する陶器の破片に、朝露を添えるようにして。


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