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柘榴林に帰る  作者: 八束
二章 心の青あざ
7/18

(3)

「――泥よ(カイール)」

 しかしシャジャルは動揺しない。光を受け止めるように、石灰にまみれた手を頭上にかかげる。低い一声とともに、石灰は淡灰色の泥へと姿を変えはじめ――円盤となった泥に衝突した雷光は、それを貫通することなく消失した。

(一単語だけで? この女、ただものじゃない)

 ばらばらと砕け散る泥の破片を浴び、シャジャルは微笑む。

 魔術とは、言葉ありきの奇跡だ。ゆえに奇跡を呼び覚ます言葉を連ねればつらねるほど、その威力も向上するのが常識だ。

 はじめに言葉ありき。そして神が石の粉から人を作ったと聖典に記されるように、自然現象は石灰を種とし、言葉によって引き起こされる――“奇跡”にはそれぞれ術者との相性があるが、この場であえて不向きな言葉を選ぶふたりではないはずだ。

 しかし“奇跡”に相応な詠唱を行ったハスミックとは異なり、シャジャルはごく簡単な一単語のみで対応した。ハスミックが劣っているというよりは、シャジャルが抜きん出た力の持ち主なのだ。

「泥よ泥、高い塔となって彼奴を貫け」

稲妻カイジャクン、泥のバベルを打ち崩せ、徹底的に、ずたずたに引き裂いて、彼らを深い混沌の渦に貶めよ」

 女同士の声が絡みあう。白くまみれた手を突き出しあって、その眼中には互いしか見えていない。

(これは……)

 とっさに腰を浮かせると、ぐい、と横から強い力で引っ張られた。ユスハの肩を掴み、サヤトが嫌みったらしく笑う。

「ここで逃げ出すのも野暮だろう?」

 彼は片手の軍刀をちらつかせ、聖堂内で相対するふたりを見やった。

ぶわりと扉から溢れた風が、女の髪をなぶる。黒と銀がゆらゆらと揺れたとき――たがいの背後から、泥の剣と稲妻の刃とが飛び出した。それらはぶつかり合い、激しい閃光のなかに見えなくなる。

「っ……、」

 あまりの眩さに目を細める。

泥の剣は稲妻に砕かれながら、しかし急速に自己修復を進めてハスミックに向かう。いっぽう雷の刃はぎらつきながらも、泥の剣に進行を阻まれている。

「稲妻よ!」

 額に汗を滲ませながら、ハスミックが手に持った缶の中身をぶちまける。残らず吐かれた石灰を吸い、雷が耀きを増した。

「泥の剣を突き破れ、その者の心臓をうがて、稲妻よ!」

「か細い雷に泥は打ち崩せない」

 シャジャルが手に持った石灰をまくと、さらに広がった泥が雷を包みこむ。光はそれに抗おうとしたが、ついぞ――ばちん、と青白い火花を飛ばしながら消滅した。それでも土の剣の勢いは留まることはなく、丸腰になったハスミックへと突き進んだ。

「くそっ、この気ぐるい女め……!」

 ハスミックが忌々しげに顔を歪めれば、シャジャルの哄笑が響く。土が彼女の体を貫こうとしたとき――とつぜん、彼の隣に立つサヤトが声を上げた。

「シャジャル、逃げろ!」

 優位に立つ彼女に、なぜそんな言葉がかけられるのか――ユスハが目を瞠ったとき、泥の渦に投げ込まれたものがあった。耳をつんざくような破裂音。それにともなう地響き。

 ぐらぐらと、聖堂が激しく揺らがされる。ともすれば崩壊しそうな兆しに、焦ってサヤトが駆け出した。立っていることもままならず支えを求めたユスハの手は、前方から強い力に引っ張られる。

「……ハスミック!?」

 無言で促され、ユスハは前のめりになって走り出す。

ぱらぱらと埃が落ちてくるなか、聖堂自身が瓦解を始める。閉ざされかけた扉を通りぬけると、もつれそうになる足を必死に動かして闇夜に飛び出す。不安定な山道を、ユスハは必死になりながら駆け下りた。

「っ、」

 ずるり、と足場が崩れた。雨にぬかるんだ泥に足を取られ、ユスハはとたんに体勢を崩す。あっと思ったときには、彼は闇の山道を転がり落ちていた。

(しまった!)

 斜面に爪を立てようにも、ぐずぐずとした土の塊を掴むばかり。あちこちの段差に全身をしたたかに打ちつけながら、闇雲に掴んだもの。ごつごつとした感触に岩の出っ張りを手にしたのだと分かったが――状況は甘くなかった。

 ユスハは崖っぷちにいた。掴んだ岩を離せば、このまま奈落の底に落ちてしまうだろう。下界から吹きつける冷たい風に、ぶるりと体が震える。

どこかの拍子で切れたのか、額から垂れた血が目にしみた。

「くそっ……、」

 とうてい一人でよじ登ることはできない。ユスハは視線をさ迷わせた。無意識のうちに、ハスミックを探していた。

「ハスミック、どこだ、ハスミック!」

 岩を掴む手がぷるぷると震える。血が滲むほどに爪を立て、ユスハはやっとの思いでそのよすがにしがみついていた。

「ハスミック、おい、ハスミック!」

 必死に声を絞り出した甲斐があったのか、足音が聞こえた。ついで自分を呼ぶ声に、ほっと安堵が広がる。

「ユスハ!」

 ああ、ハスミックだ。闇のなかにぽっと浮き出た女は、必死の形相で手を伸ばしてきた。

「今助ける! すぐに――すぐに助けますから、ユスハ様!」

 ハスミックらしからぬ、焦燥に満ちた声だった。節くれだった手がきゅっとユスハの手を掴み、引き上げようとする。冷たい手だった。しかしユスハは、その手の感触をよく知っていた。何度だって振り払った手だった。

 あの女は、君を騙しているんだ――シャジャルの優しい声が、脳裏にひるがえった。かまうものか、とユスハはかぶりを振った。だって、だって、この女は――――。


 ――僕の、所有物だ。


 ふっ、と全身から力が抜けた。ユスハの意識は奈落の底に投げこまれてゆく。かすかにきらめく、記憶の残照とともに。


 ◇



 日の残照に、境界石を透かす。光を帯びた石の中身は、濃淡の異なる何種もの火酒を混ぜたガラスの盃のようだ。幾筋もの光を乱反射して、落日のように耀く。その滑らかな表面をつうと撫で、指の腹をすべらせる。

 ごつごつといびつに割れた箇所に爪先があたり、彼は目を眇めた。

 ――気に食わない。

 どうして、この石は完全ではないのだろう。どうして、ひとつでは足りないのだろう。どうして、自分ひとりでは――。

 石を握りしめた手が震える。彼はぐっと奥歯を噛みつけると、かぶりを振ってその衝動をこらえた。この憎しみはまだ、胸のうちに秘めておかなくてはいけない――。

「ユスハ様、血が」

 指摘されて、気がついた。石の側面に食いこんだたなごころの皮膚が切れ、血が垂れていた。弾かれたように顔を上げた彼の目に映ったのは、見慣れた女神官の顔。

「くそっ……!」

 石から離した手で、女の頬を殴った。女は抵抗しない。この女はそういう生き物なのだと、彼はよく知っていた。

「くそっ、くそ、くそ、くそっ! 気に食わない、気に食わない……! どうして、僕は!」

 殴る。叩く。女の柔らかい頬を、すっと通った鼻梁を、眉を、耳を、輪郭を。彼は力の限りで女を叩き潰した。手のうちに残る感触はふよんと柔らかくて冷たい。あいつも殴ったら同じ感触がするのだろう、と彼は考える。

 手がひりひりと痛んで疲れ切るまで、彼はその動作を繰り返した。女の顔はすぐに見るに耐えなくなった。皮膚が腫れ上がり、唇は裂け、鼻血がだらりと彼の手を汚した。女なんてこういう生き物だ、と彼は思った。いくら見てくれが美しくとも、皮一枚を剥がせばその下にあるのは肉だけだ。腕力では男には叶わない。魔術の才だって――。

 かぶりを振って、首飾りを外す。女の顎をそっと指先で持ち上げ、彼は柔らかく微笑んだ。境界石を握りしめ、手の先にある鎖を――。



 ◇



「目が覚めたか?」

 ふっ、と意識が暗い沼底から引きずり上げられた。ユスハの目に、ハスミックの無表情が飛びこんでくる。

「…………?」

 全身がじっとりと熱い。鼓動がいやに速く、ユスハはぎゅっと左胸のあたりを掴んだ。得体の知れぬ焦燥に突き動かされ、視線をあたりにさ迷わせる――そして、ここが教会であることに気付いた。

 ユスハは床に寝かせられていた。上半身を起こすと、胸元にかけられていた外套がぱさりと落ちる。彼は汗に湿った前髪を掻きあげると、熱に浮かされた頭を必死に動かした。

 体中のあちこちが痛んだ。服の袖をめくると、手首は皮がすりむけ、腕には青あざがいくつも残っている。

(サヤトとシャジャルとかいう軍人に捕まって……崖から落ちかけたんだ。そこをハスミックに助けてもらった)

 どこで意識を失ったかは定かではない。長い夢を見ていた気もするが、それも思い出せなかった。

(それより……)

「疲れが出たんだ。熱があるから、まだ安静にしておいたほうがいい」

「……ハスミック」

「あの軍人どもなら、当分は来ないだろう。安心してくれ」

 淡々と語るハスミックを見上げる。ユスハは手渡された水袋を額に当てながら、そうか、と頷いた。

 しかし、ここで大人しく眠りにつけるわけがない。ユスハは重い頭を必死に働かせながら、ようやくの思いで言葉を紡ぎ出した。

「…………あの女は、お前が僕を騙していると言った」

 ユスハ? と、ハスミックが首を傾げた。

「本当なのか? お前はなぜ、僕をヴァガルシャパトに連れて行くんだ。なにか、他の理由があるのか?」

 黒褐色の眸に鋭い光を宿し、ユスハは問いかける。まっすぐに疑念をぶつけられ、ハスミックは目を細めた。

「お前は僕を知っていたのか? ……何とか言ったらどうだ」

 彼女は肩を竦めた。

 答えはない。ほつれた三つ編みをほどくと、ハスミックは波打つ銀髪を丁寧に整えはじめた。そして再び編み直しはじめる様を、ユスハは耐えがたく見つめる。

「……事情は話せない」

 きっちりと髪を結い直すと、ハスミックは改まった態度でユスハに向き直った。はしばみ色の眸が、まっすぐに見すえてくる。少なくともそこに、彼を軽んじようとする色はなかった。

(なんだ……?)

 何が言いたい、と口をつきかけた問いは、ハスミックの声に遮られた。

「君が疑問に思っていることには、全部、答えられない」

「……ふざけるな」

「だけど、信じてほしい」

 声を荒げたユスハの肩を掴み、ぐい、とハスミックが顔を寄せてくる。外ではまだざあざあと雨が降っていて、天蓋の隙間からこぼれた水滴が、つうと彼女のうなじを伝った。

「信じてくれ、ユスハ。たったひとつ、言えることは――私はお前を害するつもりはない。これだけは、胸に誓って言える。私はたしかに、お前が言うように、欠陥だらけの人間かもしれないが」

 堰を切ったように溢れだした言葉。ハスミックの声は淡々としているようで、沸々とした熱を内包していた。彼女はきゅっと苦しげに目を細めると、ユスハから身を離し、自らの上衣に手をかけた。

「っ、おい!」

 結び目を解き、するりと衣服が抜かれる。露になった女の上体は、その下に何も身につけていなかった。

滑らかな曲線を描くからだ、目が痛くなるほどに白い肌――薄い乳房。目を離せずに硬直したユスハを前に、それはさらされた。

「……この傷に誓って」

 燈明のぼんやりとした耀きに、それは克明な陰影を帯びていた。

 薄ら雪のように白い肌に浮かぶ、無数の傷痕。醜くしこって盛り上がった上皮はほのかに赤く、何匹ものみみずが皮膚を這い回っているようだった。傷は上体だけではない。背中にも、いまだ衣服に覆われている下半身にも続いているように見える。

「っ、なんなんだ、突然!? 汚い傷なんて見せてきて」

「私の誠意を見せたつもりだ。これで、信じてくれるか?」

「いいから、はやく服を着ろ!」

 我に返って、ユスハは慌てて顔を背けた。衣擦れの音が響いたのに、そろりと視線だけを戻す。何事もなかったのようにハスミックが服を着たのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。

(びっくりした……)

 動悸のする胸をさりげなく抑える。突然さらされた女の裸体は、当分まなうらから消えそうになかった。

「そういえば、お前」

 ハスミックがまとい直した法衣を見つめ、ふと、首を傾げた。

「境界石はどこにやったんだ? いつも身につけていただろう」

「ああ、あれか」

 なくした、そうあっさりと答えが返ってくる。

「……は?」

「先ほど、軍人たちの目を眩ますのに使ってしまった。境界石は、それ自体が膨大な力を秘めているからな。あの女を相手にするには、それくらいの代償が必要だった」

「だ、だからと言って、境界石を捨てるやつがいるか!?」

 思わず身を乗り出し、ユスハは訴えかけていた。境界石は替えが利くものではない。地位や身分を示すためには、必要不可欠な存在だ。破損してしまったら、場合によってはその権限すらも奪われることがあるという。

「君を助けるために必要だったんだ。仕方ないだろう」

「っ、」

 まっすぐに目を射抜かれ、ユスハは口をつぐんだ。

(……本気か? 何で、こいつはこんなに僕を?)

 あっけらかんとした態度のハスミックに、境界石を捨てた後悔は見えない。自分のため、と言われて、ユスハの胸にはもやもやとしたものが広がる一方だった。

「逆に言えば、あれが最善だった。憎らしいことに、シャジャルの力は私もよく知っている。――元同窓だからな」

「同窓……?」

「魔術学校の同期だったんだ。……あいつは首席で卒業してすぐに聖皇に離反して、国王側に寝返った。まさか、こんな辺境で出会うとは思ってもいなかったが」

 聖皇庁の専売特許である“魔術師”が、国王側に寝返る――そういうこともありえるのか、とユスハは不思議な心地だった。

「……どうして、寝返ったんだ?」

「そりゃあ、理由は人それぞれだろう。シャジャルの場合は、単純に見限ったんだろうな。聖皇カトリコスを」

 そういうやつは少なからずいる、とハスミックは続けた。しかし深くは語ろうとせず、ただ――「ほんとうに馬鹿なやつだ」、と哀感の篭もった声で囁いただけだった。

「境界石を授かりながらも聖皇に逆らおうなど、常人の考えることじゃない。あいつはきちがいだ。……いや、この話はいい。それで、ユスハ、君は私を信じてくれるのか?」

 ぶつぶつと呟いていたかと思えば、突然話題を蒸し返される。ユスハは俯いたまま、地面に溜まった綿埃を見つめた。

「私が信頼に値しない人間だというのは、よく分かる。今の君にとってはなんの関係もない存在で、私は君の過去を語ろうともしない不審人物なのだから」

「……そうだな」

 ――君は騙されているんだよ。

 蘇ったシャジャルの声に、ユスハはぎゅっと境界石を握りしめた。ふたつの石は、不思議と彼の不安を取りのぞいてくれる。

 そういえば、あのときサヤトはこの石を外せ、と言っていた。ユスハはためしに鎖を持ち上げみたが、鉛のような重みに、ともすれば手首が折れそうになる。

(っ、なんだ?)

 驚いて手を離すが、首や体にかかる質量はさほどではない。夢ではないか、と思ったが、もう一度持ち上げる気にもなれなかった。

 さあ、と全身の血の気が引いた。背筋が震える。言い知れない恐怖が体の奥底から這い上がってきて、ユスハの心臓を絡めとろうとしているようだった。

(……だめだ。錯覚だ。気にしちゃいけない、ただの境界石じゃないか。これは僕の境界石だ)

 きゅっと下唇を噛みしめ、ユスハはハスミックを見返した。膝上でそっと拳を握る。

(境界石もないなら、今のこいつはただの女だ。危ないと思ったら、すぐに逃げ出せばいい。いざとなれば、どうとでもできる)

 それまでは体よく利用してやればいい。ユスハは内に焦りを秘めながらも、そう心に決めた。

 顔中のこわばりをゆっくり解す。そして彼は、蜜のしたたるように甘い微笑をのぼらせた。

「――信じる」

 たった一言。それなのに、ハスミックは心底嬉しそうに笑った。こいつにもこんな顔ができるのかと、ユスハが驚くほどに。



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