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柘榴林に帰る  作者: 八束
二章 心の青あざ
6/18

(2)

 水が落ちる。割れた天井の隙間から、ほとりと溢れでた大粒の水滴。すうっと蜘蛛のような糸を引いて、それは磨きぬいた銅のように赤い肌を跳ねる。その冷たさにはっと目を見開いたユスハは、しばし呆然として、あたりの暗闇を見渡した。

 せわしなく降る驟雨の音が、腹の底にまで反響する。

「……ここは……」

 むくりと身を起こし、ユスハは下腹部の鈍痛に顔をしかめた。

 後ろ手に腕を拘束されているが、下半身は自由だった。身をよじって後背の壁に寄りかかると、おぼろな頭で記憶をたぐりよせる。

(確か、僕は……教会の外に出て、それから。そうだ、誰かに捕まったんだ)

 状況を把握するにいたると、ユスハは慌ててあたりを見回した。ようやく闇に慣れ始めた目は、室内の隅にひとの輪郭を捉える。

「――誰だ」

 ユスハの声に、影がゆっくりと頭をもたげた。自分を襲った犯人か――戦慄が走ったとき、突然、前方の扉が開かれた。

(新手か?)

 敵は一人だけではなかったのか。困惑するユスハをよそに、外からやってきた人物が声を上げた。

「あら、もう起きたのですね」

 重苦しい空気を割ったのは、真綿のようにやわらかな声音。

ぱさりと雨避けの紗を落とし、一人の女性が立ち入ってくる。室内の中央まで進んだところで、火よ(フール)――か細い囁きに、手のうちにぽっと炎が灯る。

(魔術師……?)

 燈明は、日の光ほどに明るい。

 ユスハが眩しさに細めた目に、室内の光景が飛びこんでくる。灰淡色の玄武岩を用いて作られた、小さな聖堂のような場所だ。おそらくはあの教会の施設なのだろうが、やはり建築材や宝飾品のほとんどを奪われて荒れ果てている。

 室内にはそれぞれふたりの人物がいた。

 ひとりは、先ほど火をつけた黒髪の女。全身を漆色の長衣で覆い、銀を織りこんだ飾り帯からは小さな真鍮缶を吊り下げていた。

「なにがなんだか分からない、という顔をしているな。どういうわけか知らんが、大方察しはついているだろう?」

 そして、もう一人――ユスハに声をかけながら、歩み寄ってくる長身の男。女と揃いの長衣に身を包んだ青年は、紫紺の目に高圧的な耀きを宿していた。

「……だから、誰だ。僕はお前らなんか知らない」

 睨み返したユスハに対し、青年は小ばかにしたように鼻を鳴らす。

「ほう? 俺はサヤト・ノヴァ。そして君はユスハ・グリゴル。自己紹介はこれで十分だろう? 君と俺の立場はあまりに明確だ」

「なんで僕の名を知っているんだ? というか、何を言い出すんだ。僕は一介の善良な市民だ。お前のような人さらいと縁はない」

「人さらいだと?」

「人さらいだろう。突然人に襲いかかって、こんなわけのわからない場所にまで引きずりこんだのなら」

 わけ知り顔で語り出すサヤトに、ユスハは不快げに顔をしかめた。

(人さらいと、さらわれる側ということか? お前はこれから売り飛ばされるとでも言いたいのか、このクソ男)

 しかし、と――口をつぐんだサヤトから視線をずらす。青年が佩く立派な剣を一瞥し、ユスハは言い知れない不安を覚えた。

(……怯えるなんて、僕らしくない。気丈にふるまうんだ)

 きゅっと下唇を噛みつけ、己を奮い立たせる。

「この俺を前にとぼけようというわけか。ふざけたものだな、ユスハ・グリゴルよ」

「とぼけてなんかいない。……お前、僕の何かを知っているのか?」

 間髪入れず答えたユスハに、サヤトは目を白黒とさせた。わけがわからない――そう如実に語る表情を前に、意味がわからないのはこっちだ、と内心毒づく。

「シャジャル?」

 すると、突然女がサヤトの肩を押しのけた。長衣の裾をさばきながら歩み寄ったシャジャルは、ユスハを前にゆっくりと膝を折る。

 燈明が醸した深い影に、女特有のやわらかな曲線が浮かび上がる。ふっくらとした胸元。髪は濃やかに黒く、肌は陶器のように白い。彼女自身の体臭なのか、鼻腔をくすぐるのは腐りかけの果実に似た、甘くこわく的な匂いだった。

「あなたは……もしかして、何も覚えていないのですか?」

 シャジャルの目は、なにかを悟っているようだった。優しげな黒曜の眸にそっと見つめられ、ユスハは反射的に頷いた。

 その反応に、彼女はふっと顔のこわばりを解く。隣のサヤトを見上げると、諭すように語りかけた。

「別におかしい話ではないでしょう。かれらが、意図的に記憶を奪ったとも考えられるのですから。……そのほうが、都合もよいでしょう?」

「……そうだな」

 溜息まじりに青年が頷く。自分を置き去りにして続けられる会話に、ユスハは思いっきり鼻白んだ。

「だから、お前らは僕の何を知っているんだ! いったいなんの因果があって、僕の前に現れたんだ!?」

 思わず身を乗り出して訴えれば、ぐい、と縄の圧力に体が引っ張られる。縄のくいこむ手首はすっかり擦りむけ、血管の脈動に合わせてじんじんと痛みを放っていた。

 この状況も、屈辱も耐えがたい。それに――。

(こいつらが、僕の過去を知っている……?)

 芽生えた期待は、とたんに淡い色を帯びて広がる。なかば縋るようにシャジャルを見つめれば、彼女は甘く笑い返した。

「申し訳ありません。その問いには答えられないのです。私たちは過去のあなたと関わりがあったわけではなく……ゆえに、その疑問にも答えられません」

「……だけど、さっき」

「しかし、私たちは軍人で、あなたは聖都の人間です。これほど明確な関係性もない――そうでしょう?」

 夜風に黒髪を翻し、シャジャルが確信に満ちた声で問いかける。

 軍人――国王軍は、カラスタンの実質的権力を握り、ヴァガルシャパトの聖皇カトリコスとは相対する存在だ。つまり自分たちは敵対関係にある、ということを伝えたいらしい。

 しかし――シャジャルの態度に、そうと分かる敵意はない。

 それどころか、ユスハを見つめる彼女の目は、芽ばえを待つ花に接するように優しかった。彼女のことばは心のささくれを刺激することなく、透明な風のようにすり抜けてゆく。

「あなた自身は覚えていないにしても、あなたはまぎれもなく聖都の要人です。すくなくとも、私たちはそう認識しています」

 けれども、とシャジャルは囁く。隣の青年の威圧的な態度とは相反して、すまなそうに顔を伏せる様は、ユスハにおもねるようでもあった。伸ばした指先は、少年の後ろ手に回る。

「私たちは決して、あなたの命を奪いにきたわけではありません。――逆です。助けにきたのですよ」

 赤い唇から紡がれる、はちみつのように甘い声。

 ユスハは突然の開放感にとまどいながらも、女から目を離せなかった。生え揃った睫毛に透ける黒曜は、やさしげな光を灯し、ユスハの何もかもを掌握しようとする。

「助ける……?」

「そう」

「こんな真似をしておいて、その言い草か?」

 思わず呑みこまれそうな自分を引き留め、ユスハは強引に食ってかかった。シャジャルは平然としたもので、「それについては謝ります」、と素直に頭を垂れた。

「この男――サヤトはどうにも短絡でして。おやめなさいと言ったのですが、彼はヴァガルシャパトの人間が気に入らないようで……私の目の届かないところで、手荒な真似に出てしまったのでしょう」

「おい、シャジャル」

「事実でしょう?」

 ぴしゃりと反論を封じられ、サヤトが唇を尖らせる。彼は渋々といった態度にユスハに向き直ると、「すまなかった」と心のこもらない声で呟いたのだった。

 宵の雨が勢いを増した。天井の隙間からこぼれ落ちてくる水滴が、ほとりとシャジャルの頬を打った。ぞんざいにその水を拭いながら、彼女は再びその目をユスハに差し向けた。

「ユスハ。あなたはヴァガルシャパトに行くべきではありません」

 そっと手を取り、シャジャルはまっすぐに言い放つ。

「あなたがどういう理由であの女とヴァガルシャパトに向かっているのかは分かりませんが。一つ正しく言えることは――」

 あなたは騙されているのです――虚空に響く、硬い声。

 風になぶられた水滴が、霧のようにさあっと落ちてくる。ユスハは顔中に煙ったい冷たさを感じながら、茫然自失とした。

(騙されている……? 誰に? ――ハスミックに?)

 シャジャルの発言はたしかな質量をもって、ユスハの胸に沈みこんだ。うつろに響くはずだった声は、思わぬところで彼の心のささくれに引っかかったのだった。

 誰が自分を連れ出した? ――ハスミックだ。

 彼女さえいなければ、自分は今もなお修道院にいただろう。ヴァガルシャパトへの執念など持つこともなく。あのとき、彼女はどういって自分を連れ出したか。不審な様子はなかったか。口にした理由だけが、本当に彼女の本心なのか。

 ハスミックを信じられる、と断言できるほど――ユスハは彼女を信頼しきれてはいなかった。

 疑念がぐるぐると渦を巻き、しだいに吐き気がこみあげてくる。口を覆って俯いた少年に、シャジャルの痛ましげな視線が注がれた。

「先ほど、私は君を要人だと言いましたが……。実は、あまり良い意味ではありません。あの女は君を権力者に差し出して、莫大な金を手に入れようとしています。なぜならば、彼女は聖皇の忠実な僕」

「あの若さ、そして女だてらに神官の最高位まで登りつめるような奴だ。どんな汚い手も厭わない、平然と嘘をつくような人間だろうな」

 シャジャルの後を継ぎ、サヤトもまたユスハの疑念に畳みかけてくる。

 どくん、と心臓が痛いほどに脈打った。速まってゆく鼓動に不安を煽られ、ユスハはきょろきょろと目線だけを動かした。――告げられた言葉が真実である保障など、どこにもない。

(分からない。なにが真実で、なにが事実だ?)

 このふたりが軍人だというのが事実なら、それこそ自分を騙そうとするかもしれない。

(僕は、何を、誰を信じればいいんだ?)

 ひどく皮の剥けた手で、外套の下に隠した石を握りしめる。ぶるぶると手が震えた。暗く冷たい、井戸の水底に放りなげられたように、縋るもののない不安が、真綿のように体を包みこんだ。擦りきれた手で、外套の下に隠した境界石を握りしめる。

「っ、お前……」

 突然――服の裾から覗いた境界石を見て、サヤトが目の色を変えた。

「お前、どうしてそれを……!? “あれ”はまだ、」

 言葉をすべて聞き届けることはできなかった。節くれだった男に力強く両肩を捕まれ、ユスハは痛みに顔をしかめた。視界に飛びこんできたサヤトの目は、今までにない焦燥が燃え立っている。

「それを捨てろ! 今すぐ捨てろ、ユスハ・グリゴル! これは命令だ!!」

 雨音をはるかに凌ぐ声量で、怒号が空気を打ち震わせる。容赦なく耳朶に叩きつけられる命令に、頭がぐわんぐわんと揺れた。

「捨てろ……っ、捨てるんだ! それは君の命を蝕み食い尽くす!戻れぬところまで連れていかれる代物だぞ!?」

 怒声はしだいに悲痛な色を帯びだす。首元の鎖を引っ張ろうとする青年に、ユスハは反射的にいやいやと体をよじって抵抗した。

「や、やめろ! 何をするんだっ、突然! やめてくれ、」

「身を滅ぼしたいのか!? くそっ、やはり本人以外では外せないか……っ」

 思うように引っ張れない鎖に歯噛みをし、サヤトが忌々しげに囁く。その隣で、シャジャルは無表情に目の前の光景を見つめていた。

「……サヤト」

 鋭い一声が上がった。サヤトが胡乱げにシャジャルを見やったとき――けたたましい衝撃音が、あたりに飛び散った。

「っ!?」

「時間切れですね。お出ましですよ、聖皇に魅入られた不幸な女の、ね」

 鼓膜を突き破るような轟音とともに、石造の扉が吹っ飛ばされる。多量の雨粒とともに吹きこんだ風に、ゆらり、と――長い銀の髪が揺れた。

「ハスミッ、」

 ユスハが名を呼ぶよりも早く、女の手が石灰をばらまいた。風とともに舞い上がった白い粉が、視界を煙幕のように覆う。

 目に見えない、ぴりぴりとした怒りが――冷気のようにハスミックを覆う。その眸に宿る憤怒の炎に、ユスハの背ははからずも戦いた。

「よこしまなるものの上に、災いあれ(ヴアー・アノリニイーン)」

 凍てついた声音に応じて、石灰が青白く発光する。あたりの気温が上がると、ふっと風が吹きやんだ。空気が生ぬるく停滞し、ぴりぴりとした静電気がユスハの頬を走る。

「私に立ち向かおうとは、いい度胸です。付き合ってさしあげましょう――元同窓のよしみでね」

「……よこしまなるものたちの上に、災いよ降れ!(ヴアー・アノリナーツ!)」

 挑発的なシャジャルの声に重なり、ハスミックの力強い詠唱がとどろく。ぴかりと円形天井が光を帯びたかと思うと、そこから太い一矢が落ちてくる。眩い閃光といびつな形を併せ持ったそれは、高圧電流を帯びた稲妻であった。

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