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柘榴林に帰る  作者: 八束
二章 心の青あざ
5/18

(1)

 足となるものを調達できないまま、なかば逃げるように、ユスハとハスミックは宿場町を出立した。山羊を惨殺したのは飢えた狼に違いない、とか、悪意のある住人がやったのだ、など、考えは尽きない。しかし彼女の口にした“不吉”という単語は、思った以上に深く――ユスハの胸の内側に沈みこんだのだった。

 宿場町を出て数日、ふたりは巡礼道に沿って旅を続けた。巡礼者の装いをしていれば、信仰心の篤いカラスタン人は善くもてなしてくれる。食や宿に困ることもなく、このままなら順調に街道に辿りつけそうだ、とユスハが思った矢先――その出来事は起きた。


 荒野を抜けるととたんに勾配が辛くなり、つづら折りの坂道が延々と山間を貫いている。木々の鬱蒼と茂る灰色の陰影のさなか、空気は泥の匂いを孕んでむせるように重い。うまく息継ぎのできないもどかしさに耐えながら、ユスハは必死にハスミックの背を追いかけていた。

「がんばれよ、少年。もう少しすれば、廃墟だか教会だかよくわからない建物があったはずだ。今日はそこで野宿だな」

「っ、うか……」

 やはり颯爽と山道を登る女を仰ぎ見て、ユスハは呻き声とも取れるような応えを返した。

 斜面には砂利が多く、土質はさらさらとして細かい。もすれば足を滑らせそうになるなか、ユスハの神経はとがりきっていた。ふだんの気概を保つ余裕もなく――ハスミック「あいかわらず貧弱だな」と笑われたところで、憎まれ口を返すことすらできない。

 山道は頂上に向かうにつれ狭くなり、傾斜も増してゆく。這いつくばるように段差や岩を越え、ときにハスミックに引っ張ってもらう屈辱を味わいながら、ユスハはようやくの思いで平地に転がり出た。枯れ草の上に荷物を放り投げると、大の字になってその場に仰向けになる。

(地獄だった……)

 大きく上下する胸の上を、冴えた風が通りぬけてゆく。びっしょりと汗に濡れた全身と肌に貼りつく衣服がいとわしい。朦朧と呼吸だけを繰り返すユスハに、ふと影がかぶさった。

「よくがんばったな。貧弱少年のわりには文句のひとつも言わずについてきたじゃないか」

「……うるさい」

 額の汗を拭うと、ユスハは不満げに唇を尖らせた。仰ぎみた女の目には、どこか悪戯っぽい皮肉が潜んでいる。

 しかし悪態をつくにも、彼は疲れすぎていた。酷使された四肢の内側にはじっとりとした熱がこもり、指の一本を動かすのも疎ましい。目的地らしい境界は視界の隅にみえたが、起き上がる気力もなかった。

「……お前、神官のくせに。なんでそんなに元気なんだ……」

「神官のくせに、とは失礼な。私はただ、必要とすべきものを追い求めただけだよ。魔術学校では、体を動かし世界の摂理に触れることもまた必要、と学ぶだろう?」

「……魔術学校?」

 熱っぽい吐息に、疑問の声が混ざる。それも思い出せないのか? と首を傾げるハスミックを、ユスハは睨みつけた。

「うるさい、仕方ないだろう。そうやって記憶のない人間を馬鹿にしたつもりか? 本当にお前は嫌味な奴だな」

「馬鹿にしたつもりはないよ。君が必要以上に敏感で、むだに卑屈なだけだ」

 嘆息をまじえながら、ハスミックは草叢に腰を落とした。ふたりの頭上を覆う木々の太い梢、濃やかに繁茂する葉の隙間から落ちる日の残照を受けて、銀の髪がぬるりと耀く。

「……やっぱり馬鹿にしているじゃないか」

 眉をひそめたユスハに、ハスミックは淡く笑いかけただけだった。その余裕しゃくしゃくとした態度――そういうところがいちいち癇に障るんだ、と彼は内心毒づいた。

「魔術学校はね、その名の通り、奇跡を実践するもの――魔術師スカンチエラコールシュを養成するための機関だ。ヴァガルシャパトにあって、聖皇庁に仕える魔術師や神官は全員ここを出る」

「じゃあ、お前もそこを出たんだな」

「おそらくは君もな? その年だと、まだ在籍をしていてもおかしくないぞ」

 聖皇カトリコスを頂点とするヴァガルシャパトは、カラスタンにあってはそれ自体がひとつの“国”であるといっていい。ゆえに彼らは自治都市以上の戦力を、武力を必要とする――その権威を守り、独立を維持しつづけるために。

 そしてその戦力源が――他ならぬ、魔術師軍団というわけだ。

「境界石を授けられた子どもは、その特権とひきかえに選択をつきつけられる。――聖皇に知恵と忠誠を捧げるか、その場で死ぬか。まあ大抵は前者を選ぶだろうけどね……そういった子どもたちを、使えるまでの人材にするのが魔術学校さ」

 肩をすくめ、ハスミックは自分の胸元をさぐった。外衣の中から鎖を引きずり出し、境界石を夕日に透かす。その姿は、彼女らしからぬしおらしい一面を垣間見せた。

(なんだ……?)

 ふとした既視感を覚え、ユスハはぱちぱちと睫毛を瞬いた。

「お前は、じゃあ、どうして……魔術師じゃなくて、神官になったんだ。このふたつは別物じゃないのか?」

 気がつけば、疑問が口をついていた。ハスミックは弾かれたように顔を上げ、なぜか嬉しそうに口元をほころばせる。

「それは……」

 ふと伸ばされた指先が、ユスハの額に乗る。突然のことにその手を振り払うのも忘れ、体が硬直する。

(あ……、)

 女の手はきめ細やかで、いつか想像したとおりに滑らかで、そして冷たかった。 その手はすぐに離れる。そしてハスミックは女教師さながらの表情で、ユスハの推測を褒めたたえた。

「その通りだ。魔術師は軍人のようなもので、より実践的に敵の排除を行う。神官はもちろん祭祀一般を取り仕切るが、たいがいは魔術師のなりそこないといっていい。――私はそのなりそこないなんだ」

「お前、出来損ないだったのか」

「そうだな。出来損ないだったんだ。……身も、心もね。私はほんとうに馬鹿だから、神官になったんだ」

 出来損ない、と口にする彼女の声は日だまりのように温かく――奇妙に弾んでいた。

(なんでこいつ、こんなに嬉しそうなんだ? 馬鹿にされてるようなものじゃないか)

 ユスハは疑い深くハスミックの目を見返したが、彼女はけっして笑みを崩そうとしなかった。最後に「自分の欲望に素直だったんだよ」と声をひそめてつけ加えると、すっくとその場を立ち上がってしまう。

「教会の様子を見てくるよ。君は休んでていい」

 颯爽と歩き出した女を見送る。白い上衣に包まれた背は、傍にある教会に――蔦に覆われた凝灰石トゥフ造の古びたドーム建築の、重々しい扉に吸いこまれてゆく。彼女の姿が見えなくなってから、ユスハもようやく上半身を起こした。

(自分の欲望に素直だった……?)

 先ほど、ハスミックは聖皇に知恵と忠誠を捧げる、と口にしたばかりではないか。あるいは彼女の心には、燃え滾る権力欲があるというのか――その考えもしっくりはせず、ユスハは首をひねる。

 考えても栓のないことだ。すぐにそう思い直すと、彼は水を飲もうと傍の皮袋を引きよせた。そこでふと、強い視線を感じる。

「誰だ?」

 とっさに奥の雑木林を見やる。

 しかし、人影はない。無秩序に生える赤茶けた木々の間を、湿った風がぼんやりと通り抜けてくるだけだった。日が沈みかけた頃合、あたりは青々とした薄暮に充ちている。虫の鳴き声も聞こえぬ静寂しじまに、ユスハはぶるりと身を震わせた。

 言い知れない不安が、繭のように全身を包む。ユスハは荷物を抱えると、弾かれたようにその場を立った。

「どうしたんだ、そんな慌てて?」

「……なんでもない」

 慌てて教会に駆けこんできたユスハに、ハスミックが目を瞠る。ユスハは首を振ると、ばつが悪そうに目を逸らした。無意識に境界石を握りしめていたのに気がつき、こっそりと自嘲する。

(なにを怯えているんだ、僕は。……気のせいだろうに)

 しかし――ハスミックを見て安堵をしたのも、また事実だった。

 薄汚れた壁の燭台には、わずかに蝋の皮膜が残っていた。ハスミックがそこに火をつけると、ゆらりと銀朱色の火がのぼる。

 燈明に闇をかき乱された教会は、外観で予想したよりもずっと狭かった。単廊式のごく小さな室内は、掠奪の限りを尽くされてすっかり荒れ果てている。四本のアーチに支えられた円形天井から、荒涼とした風が舞いこんでくるばかりだった。

 ひとつだけ失われていないのは――明かりを頼りに、ハスミックが奥を向いた。視線の先には聖像イコンがある。逆遠近法を用いたフレスコ画には、のっぺりと不気味な顔つきの人間が描かれていた。深淵の底を移したような眸を見つめ、ハスミックは息を吸う。ほつれた横髪を整えながら、彼女はことばを紡いだ。

「実は、このあたりで護衛を亡くしたんだ。夜になると周囲は闇に溶け落ちて、何も見えなくなるから」

 もったいぶったわりに、その言葉に質量はなかった。ふわりと漂うと、壁の隙間から逃げ出しそうに軽い。

 ユスハの視界で、ハスミックの背はゆっくりと闇に沈んでゆく。膝を折った女は唇を聖像に寄せると、恭しく口づけた。

 ひとが祈る光景というのは、不思議なものだ。閨事を覗いたような気恥ずかしさ、いたたまれなさ。そういった奇妙な思いが渦を巻くのは、信仰心に欠けているせいか、それとも――なぜか騒ぎ出した胸を抑え、ユスハは顔を背けた。

 しばらく沈黙があって、ハスミックが立ち上がった。銀の長い三つ編みを揺らしながら、彼女はユスハを振り返った。

「君は祈らないのか? 僧衣まで着ているのに」

「…………いい」

 素直に頷けなかったのは、どうしてだろうか。ユスハは俯くと、足もとに目を落とした。

「神にはあまり、興味がない」

「……だとしても、祈ってくれないか。ここで命を落とした、彼のためにもね」

 諭すように語りかける女の目を、仰ぎ見た。

はしばみ色の目を見返して、その瞬間――胸のうちに、どっと苦々しい感情が溢れ出た。とたん輪郭を得てうごめき出したそれは、ユスハの心に火をつける。

「お前……偽善者なんだな」

 口にしなければやり過ごせた感情だった。ユスハは胸裏でとたんに煽りたてられた苛立ちに、きゅっと唇を噛みしめた。

「ちっとも悲しそうじゃない。ただ義務感に駆られて、祈りを捧げているだけじゃないか?」

 やわらかな闇に包まれて、ぴくり、とハスミックの体が揺れた。

(……図星か)

 女の態度に、なぜか落胆を覚えた。ユスハはまっすぐにハスミックを見すえ、大げさに溜息をつく。

 最初から、この違和感はあったのだ。ハスミックと初めて出会ったとき――護衛の死を口にした彼女に、一片でも同情はあっただろうか? 山羊の遺骸を前にしても、動揺はなかった。ハスミックは淡々とした目つきで、死を見やっていただけだった。

(死は喜ぶべきものと教えられるが、悲しまない人間は、やっぱり異端なんじゃないか)

 もちろん――彼女の人間性について語れるほど、親しいわけではない。それを差し引いても、ハスミックは奇妙な女だった。

 まるでつくりものの人形のよう――もの珍しい姿かたちであるだけの、つまらない無機物のようだった。

「……君は」

 銀の睫毛をふるふると震わせ、ハスミックは視線をさ迷わせた。困惑しているようだった。珍しく波打つ女の感情が、ユスハは疎ましかった。

「まあ、僕には関係がないことだけれどな。お前がどんなにつまらない奴であっても、ヴァガルシャパトに連れて行ってくれればいい。ただお願いだから――その義務めいた偽善を、僕にまで要求するな!」

 かつん、と革靴の底を鳴らす。ユスハが踵を返したのに従って、胸元の鎖がしゃらしゃらと透明な音を立てた。

「待て、ユスハ? どこに――」

「用を足してくるだけだ!」

 手を伸ばしたハスミックを突き飛ばし、扉を押し開ける。ぶわりと顔に吹きつけた夜風に目を細め、彼はずんずんと草叢を進んだ。

(なんなんだ、あの女は。本当に!)

 関心のないものに興味があるようにふるまう様は、ユスハにとっては不快でしかない。目に見えない“常識”にただ従うことの、何が愉快なのか。そしてそれを他人に強いられたことが、潔癖な少年にはなによりも許しがたいことだった。

(悲しくないなら――どうでもいいことなら、そう言えばいいだけなのに。どうしてわざわざ、人の死を悼むような真似をする?)

 胸から喉にまでせり上がってきたもやもやを、どう処理するか考えあぐね――足もとの石を蹴ったときだった。

「っ……!?」

 石が近くの木の幹に当たり、軽快な音を立てる。しかしユスハは一歩も進むことができない。背後から誰かに羽交い絞めをされ、なおかつ口を封じられてしまったからだ。

「……、れ、だ!?」

 まさか――頭の中を過ぎったのは、先ほど感じた視線だった。

 冷や汗が背筋を伝う。必死に足がいてその拘束を抜け出そうとするのもあえなく、彼は鳩尾に叩きこまれた衝撃に、あっけなく意識を落とした。


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