(3)
――いつのまにか眠っていたらしい。
ユスハが寝台から身を起こしたとき、窓からは白々とした朝陽が射していた。泥のような眠りからの目覚めは、決して快適ではない。疲労が蓄積して重い四肢を伸ばし、彼は窓際に立った。
一晩のうちに雨は止んだようだ。ちょうど、道を挟んだ正面の屋根に、少年が登っている。抱えているのは濡れた布の束だ。これから干す予定らしい。
その光景には見覚えがあった。修道院時代、雨が降るとたびたび書庫が水浸しになった。そうするとユスハは屋根に登らされ、濡れた写本を干すはめになったものだ。写本は大抵が聖典の注釈書であったが、時には魔術の内容をも含んでいた。
魔術師――あるいは奇跡を実践するひと。魔術は誰にもひらかれた“叡智”ではないゆえに、カラスタン使徒教会の権威づけの根拠となっていた。
魔術の才能は、血に宿る。ゆえに魔術師は境界石を持つことで、特権階級としてヴァガルシャパトに君臨しているのだ。ユスハに当時の記憶はないが――石を持つ限り、彼は魔術師である。彼はその叡智を、写本を盗み見ることで再び得ていた。
雨上がりの湿った匂いを吸い、ユスハは部屋を見渡した。荷物はあるが、ハスミックの姿は見えない。そのうち戻ってくるだろう、と寝台に座り直したとき、かれは下階から響く声に気がついた。
(女の声だ。……ハスミック?)
ユスハは弾かれたように立ち上がると、下の階に向かった。なにやら言い知れない胸騒ぎがしたのだ。
「だから、どういうことだい。昨日のうちに調達するように頼んでおいたはずなんだが」
玲瓏とした、しかし平生よりも波打った声が響く。ユスハが階段を降りきったところで、ハスミックが宿主と向かっていた。
腰に手を当て、彼女はきりりと眉を吊り上げて中年の男に向かい合っている。何事かを言い争った末に、ハスミックは懐から鎖を引き出す。その先にあるのは境界石だ。
「なにやら煮え切らない言い方をするな。こちらはもう金を払ったんだ。相応のこともできないなら……」
ハスミックが神官であると悟り、男はとたんに横柄な態度を崩す。その身の代わりようは、傍から見ているユスハも驚くほどだった。
「こっ、これは……。まさか、神官殿とは。いや、しかしねえ、用意できないもんは用意できないんです。こればっかりは」
「理由は?」
「それが、あんまり口にしたいことではなくて……。いっそ、ご自身の目で確かめられたらいいですよ。裏口から出れば、厩舎がありますんで」
「……へえ」
ハスミックは薄い瞼を瞬くと、くるりと踵を返し、ユスハの手首を掴んだ。指し示された裏口にずんずんと向かう女に、彼は慌てて声をかける。
「なっ、何があったんだ? 金でもぼったくられたのか?」
「その通り。昨日、なにか足を調達しようと言っただろう」
疲労困憊としたユスハは、昨晩の主人とハスミックの会話もろくに覚えていなかったが――確かに、彼女は昼間のうちにそう言っていた。それで厩舎か、とユスハは納得する。
薄暗く狭い通路を進み、突き当たった扉を開け放つ。するととたんに生ぬるい風が、ユスハの顔全体に吹きつけた。朝日の眩さに耐え切れず目を細めたとき、それは彼の鼻腔をついた。
(……なんだ、すごく生臭い)
枯れかけの藪が、風にゆうらりと揺れていた。戸口を出てすぐ横には水汲み場があり、垢に汚れた桶がひとつ転がっている。そこにたかる大ぶりの蝿が、ふと何かに引き寄せられるように奥へと消えてゆく。
空気は生ぬるく、異臭をはらんでいた。蝿を追うユスハの目は、井戸の奥にある厩舎をとらえた。先んじてハスミックが歩き出し、彼ものろのろとそれに従った。
――視界に入ったもの、それは。
「っ……、」
干し草が散乱する地面に、目をやる。饐えた魚のような生臭さは、そこからやってきているのだった。
「なるほどな。主人も口にしたくないわけだ」
白々として澄んだ朝日が、その惨状を照らしていた。
生乾きで、ぬめった耀きを放つ血だまり。その上に横たわる数頭の山羊の死骸。山羊の多くは首を失い、無造作に裂かれた腹から干からびたはらわたを引きずり出されていた。
ハスミックが屈みこんだ。黒ずんだ血を指先になすりつけ、匂いを嗅ぐ。はしばみ色の眸は、どんな感慨も映し出さず――ただ、その光景を眺めていた。ちょうど、冷めたスープや、雑踏をゆく人を見るがごとき平坦さで。
「“不吉”だよ、ユスハ」
振り返った女のまなざしに、ユスハは戦慄した。
切れ味の悪い刃物のような、おぞましい目つき。それはユスハをまっすぐに見すえ、がんじがらめにしようと目論んでいるようだった。
「なにか不吉なことが起きるんだ、これから。誰に対する警告かは分からないけどね?」
それだけを言い切って、ハスミックは腰を上げた。裏口に向かって歩き始めた女の背を、ユスハは呆然と見送る。
そして、突然彼は膝から崩れ落ちた。
口蓋の裏にまでせり上がってくる生ぬるい液体。それを必死に押し留めながら、彼はじっとうずくまった。
肺までが生ぬるい血臭に充ちているようで、ひどく気分が悪い。照りつける朝日は熱いのに、背筋を伝う汗は、氷のように冷たかった。
◆ ◆ ◆
――そこは、かつて広大な柘榴林であったという。
鐘の音が聞こえる。
聖都じゅうに響きわたる、晩鐘の厳かな音。石の建造群のむこうに覆いかぶさる日は赤く、今にも溶け出しそうだった。破裂せんばかりに膨らみきった太陽は、赤々とした光を都に叩きつけ、同時に克明な陰影をあたりに浮かび上がらせる。
その光も届かない、細い闇路を、ふたりは駆け抜けていた。息を切らしながら、もがくように手足を動かす。目に見えないなにかに追われるように、小さな足音は石畳に響きわたっていた。
転げそうになる危ういところで何度も体勢を立て直しながら、ふたりは路地の先に出た。視界の先には、羊歯に覆われた崩れかけの城壁。目を見合わせ、ふたりは石のはざまにある穴を通った。そうして彼らが聖都の外に出たとき、吹きすさぶ風があたりを駆けた。
荒野だった。
見渡すかぎり、何もない。いびつな形をした岩と、埃っぽい砂礫と、枯れ草ばかりの風景を、二対の目は映し出した。それも日の残照もなかで、闇に消え行こうとしているところだった。
肩で息をしながら、少女がその場で膝をついた。すりむいた膝が、乾いた空気にひりりと痛む。黒々とした目を細め、彼女は大事そうに長衣の懐からそれを取り出した。
その手が握るのは、柘榴。干からびかけ、皮から種がむき出しになったものだった。少女は大事そうに、宝物のように取り扱いながら、それをそっと地面に置いた。
少女は手を組み、薄い瞼を伏せた。無言で天を仰げば、日の残照がそのふっくらとした頬を照らす。微動だにもせず祈りを捧げる姿は、清廉であると同時に、彫像のように無機質であった。
その隣で、少年は少女による神聖な儀式を、じっと見つめていた。
「――、」
少年に名を呼ばれた少女が、生え揃った睫毛を上げた。その頃には日はほとんど落ちきり、青々とした闇を荒涼とした風が駆け抜ける。その冴えた風に、子どもたちの黒曜の髪が揺さぶられる。
「芽生えるものか」
稚い容貌に反して、大人のように落ち着いた口調で少年は甲高い声を鳴らした。
「お前が植えたものが、芽生えるはずがない」
苛立ちのこもった声で、呪詛を吐くように、ゆっくりと。念を押した少年に、少女は震える瞼を落とした。胸元の鎖をたぐると、ぎゅっと掴んでは俯く。
「お前は無力だから。ずっと、ずっと、僕よりも」
砂塵が舞いあがり、風に少年の声がまぎれる。ほとんど聞き取れないようであっても、少女には、その中身が常に自分に浴びせられる罵声と同種のものであることを知っていた。
とたん、少年が横で膝を落とした。子どもは腰帯から釣るした真鍮製の小さな缶を叩き、底に残った石灰を指の腹に撫でつける。少女が黒褐色の目を見開いたとき、彼の白く塗りつぶされた手は柘榴に伸ばされていた。
「星、星、朝の星よ(アストララヴオトラール)、……」
謳うように言葉を紡ぎ、少年が柘榴のまわりに陣を描いてゆく。石灰の線が織りなすのは、光を図像化した、魔術師のあいだではごく一般的な陣だった。
「光の矢よ(アスジャラカイートウン)、ずたずたに突き刺せ、突き刺せ、突き刺せ(ベクテール!)」
小さいながらも、明瞭な声が響く。カンテラに青白い火が燃え上がるように、陣はゆらりと眩しい光を帯びた。光は陣の中央にある柘榴を包みこみ、めらめらと音を立てながら火柱を天に噴き上げる。
青い炎は燃える。黒々とした空に突き上げた火は、目に痛いほどの光を彼らの目に叩きつける。そして一本の柱はすぐに枝分かれをはじめ、梢の先に丸い実をつけ、火の実は地面に落ち、割れ……飛び散った種から蔓がのび、炎の木は自己増殖を始める。
数分としないうちに子どもたちの周りは、火であやなされる木でいっぱいになった。
荒野は青い光で充ちみちた。やがて炎は弾け、闇のなかに掻き消えてゆく。火のはぜる音が聞こえなくなって、夜の静寂だけが後に残っても、ふたりの子どもはなおその場から動こうとはしなかった。