(2)
薄絹をかぶせた空に、太陽がのぼる。そこから力強く放射された光は荒野を貫き、その裾野にある修道院にまで届く。鬱蒼と木々の茂る裏庭の蜂の翅を、聖堂の無骨な屋根を、そして回廊を通っては、それは僧房の窓を透かしてユスハのところにまで辿りつくのであった。
夜明け前の礼拝を終えたユスハは、朝食もそこそこに自室に戻っていた。目に痛いほどの陽光で白む室内は、寝台ひとつ置くのがようやくの広さだ。見当たる荷物は、寝台上の鞄ひとつだけ。
ユスハに、境界石以外の持ち物はない――二年前、雨が吹きさらす門の下で、着の身着のままに拾われたからだった。与えられた衣服と替えの下着だけを詰めると、鞄のふたを閉める。
「……ヴァガルシャパト」
口にするだけで――その響きは、不思議と彼の心に火をつけた。
聖都ヴァガルシャパト。カラスタンでは国王が権力を握る一報で、その権勢の行き届かない区域が存在する。それがヴァガルシャパトを中心とする宗教自治区であり、聖皇率いる軍的勢力であった。
(僕はきっと、あそこで生まれた)
胸元の境界石をぎゅっと握りしめ、ユスハは頭を垂れた。くたびれた鞄の持ち手を見おろすと、肺の奥から息を吐き出す。
不思議なものだった。ユスハはこの二年間、過去に思いを馳せることがなかった。時として胸にくすぶる、得体の知れない熱をもてあます以外に。
けれどもハスミックに出逢い、ヴァガルシャパトへの道途という選択肢を差し出されるやいなや――彼の心は、とたんに火をつけられたのであった。枯れ草に火種を投げるがごとく。
――過去を振り返らず、この修道院で一生を終える。ぼんやりと思い描いていた未来は打ち壊され、代わりに胸に落ちてきたもの。それはヴァガルシャパトに行って、自分の根源を探さなくてはいけない、という執念だった。
(あそこに、僕の何があるのだろう。振り返らなくてはいけないほどの何かが、あの場所にあるというのか)
記憶などなくとも、ただ漫然と生きていくことはできる。それなのに、自分は――。
ふと、視界に影が射した。ユスハは顔を上げると、ぎょっと目を瞠った。たっぷりと陽光を注いでいた窓は、闖入者によって塞がれていたのだった。
「ああ、よかった。ここで合っていたか」
顔を覗かせたのはハスミックだった。頭にかぶった紗の隙間からはしばみ色の目を悪戯っぽく瞬き、彼女はにぃと笑った。
「君があまりにも遅いものだから、心配して見にきてしまったよ」
「門前で待ち合わせていたはずでしょう。ここは女人禁制の場所です。すぐに戻ってください」
「なんてつれないことを言うんだ。君が怖気づいたんじゃないかって、私は気が気じゃなかったんだが」
「だから……っ!」
ハスミックの小馬鹿にしたような発言に、ユスハは声を荒げた。思わず勢いづいて前のめりになったところで、突然、肩を掴まれる。
寝台で膝立ちになったユスハを、ハスミックが両手で捕まえたのだ。窓から身を乗り出す女の上体は薄く、骨ばって肉がない。肩口に加えられる指の力は、尋常ではなかった。
女の眼差しは、切れ味の鈍い剣のようであった。どきりとして体を硬直させたユスハを笑い、ハスミックは彼の骨格を確かめてゆく。たどりついた先、冷たい掌できゅっと首を包まれた。力をこめれば、たやすく気道を圧迫できる位置だった。
「……君は」
濃やかに茂った銀を透かし、はしばみ色の目が爛々と耀いている。
ハスミックのきめ細やかな肌からは、清涼な花薄荷が立ちのぼる。それを鼻奥に吸いこんだだけで、頭がくらくらとした。
「ふむ。女人に慣れていないというのは本当か」
「……っ!」
ぱっと手を離し、ハスミックはいやらしく笑った。顔を真っ赤にしたユスハが反論しようと口を開いた矢先、じゃらり、と彼の前に突き出されたものがあった。
後背からの光を浴び、それは耀いた。樹液の色を帯びた石。側面はどこかで砕かれたのかごつごつとして、ちょうど、ユスハが持つものと同じ――。
とっさに胸元を探り、ユスハは己の境界石を確かめた。奪われたわけではない、そう悟り胸を撫で下ろす――不安に駆られるほどに、ハスミックの差し出した石はユスハのものと似通っていたのだ。
「修道院長に渡されたぞ。君がここに倒れていたとき、一緒に落ちていたものらしい。ここには無用の長物だから、お前が持っていけという話だ」
節くれだった指が、ユスハの手に石を落とす。光を乱反射しててらりと耀くそれを見下ろし、彼は目を瞬いた。
「境界石……」
「君のものと対になるんじゃないか?」
促されずとも、予感はあった。恐々と握った石の側面を、自分のものにあてがう。
「っ、ぴったりだ……」
本来、ふたつは一つであったのか――寸分の狂いもなく、かちりと石同士が合わさった。驚愕に目を瞠ったとき、体の内側の質量がどしんと増す。
(なんだ? この感覚は)
脳天から足先を、ひどく熱いものが突き抜ける。熱はあっという間に拡散すると、もとの体温になじんでゆく。ほんの一瞬の出来事は、しかし喉元に詰まった魚の骨のように、わずかな違和感を彼にこびりつけた。
「石に拒否されないということは、それは元々君のものだったんだろう。よかったな」
ひょいと首にかけられた鎖が、胸元でしゃらしゃらと鳴る。ユスハはふたつの歪な石を握りしめると、そっと瞼を伏せた。
なにか、取り返しのつかないことをしてしまった気がした。根拠のない罪悪感が胸に広がるのを感じ、下唇をきゅっと噛みしめる。
しかし同時に、ヴァガルシャパトに行かなくてはいけない――その思いが、彼の胸に、より強く刻みつけられたのだった。
◇ ◇ ◇
早朝のうちに修道院を立ったふたりを待っていたのは、例にも洩れずカラスタンの厳しい陽光だった。国土の大半が荒れ果てた高地であるこの国は、春から夏にかけての気候こそ過ごしやすい。しかし近しい太陽光は、時に刃となって人々に浴びせられるのだった。
(僕としたことが……)
それ以前のことは分からないが――二年間隠遁生活を続けたユスハは、年頃の男児と比べても貧相そうであり、事実そうだった。
小柄な体躯は肉づきが薄く、線が遅く遠目には女子のように見える。起伏のない道を半日進んだだけで、外套の下に着こんだ僧衣はびっしょりと汗に濡れ、荷物の食いこむ肩は感覚が麻痺していた。手足を動かすのもやっとの彼は、数歩先を歩くハスミックの背を恨めしく思った。歩き慣れているようには到底見えないのに、彼女の足取りは軽い。
「ユスハ?」
くるりとハスミックが振り返り、はしばみ色の眸を覗かせる。
「随分とお疲れのようだが、大丈夫か? 君は思っていたよりも体力がないなあ」
「うるさい、前を向いていろ!」
取りつくろう余裕もなく、ユスハは声を荒げた。額から流れた汗が睫毛を伝い、目に沁みる。眩しそうに目を細めた少年を、ハスミックは愉快そうに見つめた。
「まあ、もう少しの辛抱だ。このあたりは巡礼道に近いから、辺境のわりには宿場町も多い。今日の目的地もそう遠くはないぞ。着いたら宿を取って、ついでに足になるものを調達しよう」
「……くそっ」
「仕方ない。君は境界石を持つほどの存在だ。特権階級の人間というものは、そうそ出歩かない。体力がなくとも仕方ないな」
お前はどうなんだ、とか、馬鹿にされている、とか――様々な思いが渦を巻いたが、もはや言い返す気力もない。怒りに任せて踏み出した足の、土ふまずがぎりぎりと痛んだ。
あたりは見渡すかぎり、広々とした黄土色の荒野――家屋もなければ人影もない。ハスミックの言う“もう少し”がどの程度なのか、見当もつかないことが今の懸案事項だった。
結局、“目的地”に辿りついたのは日暮れの後だった。一帯は処女が聖典を編んだという伝承の残る山に近く、巡礼道が整備されている。それに沿って、荒野の裾野には古びた日干し煉瓦の建物と石造建築が扇状に広がり、結果的に宿場町を形成していた。
青々とした薄暮をかき乱すように、軒先のあちこちで橙色の光が揺らめいている。道ゆく人は多く、それぞれが一様に白衣をまとい、荷物から干からびたアンズの芯を下げていた。
ハスミックに連れられるがまま、ユスハは人ごみの中を歩かされていた。日が落ちて、気温はぐっと下がっている。体力も底を尽きかけようとしていて、早く休みたいのが本心だが――ハスミックは宿の人間と交渉をしては別の宿を訪ね、せわしなく歩き回り続けているのだった。
「おい、いつになったら宿を決めるんだ。別にどこでもいいじゃないか」
「そう言われても、ぼったくられては身がもたないからね。まあ、巡礼者用の宿でもいいんだが、あそこは客がすし詰めで治安が悪い」
息も切れ切れに口を挟んだユスハを振り返り、ハスミックは淡く微笑んだ。燈明に照らされた女の肌は青白く透き通っていたが、そこに疲労の影はない。
(ただものじゃないな、この女)
「だったら早く決めてくれ」、と言い返し、ユスハはきゅっと唇を噛みしめた。再び歩き出した女から顔を背けると、空を仰ぎ見た。
「……あ」
今日の夜空は明るくない。そう思った矢先、彼の鼻先に水滴がしたたり落ちた。それを皮切りに、大粒の雨粒が落ち始める。
「雨だ。いよいよ真面目に宿を決めないといけないな」
ハスミックが早足になる。雨脚は強く、宿場町を作る石群はあっというまに黒ずんだ色に濡れそぼった。ようやく二軒先で宿を決めたとき、二人の装束はぐっしょりと雨で重たくなっていた。
金を払って二階に上がり、あてがわれた部屋に入る。ユスハはやれやれといった様子で荷物を下ろすと、雨に濡れた外套を脱ぎ去った。疲労に促されるまま、寝台に腰を落とす。
そして何となしに視線を前にやって、どきりとする。慌てて顔を背けたが、まなうらには薄着になったハスミックの肢体が焼きついていた。
「なっ、なんで僕とお前が同室なんだ? お前、神官ならもうちょっと節度というものを持ったらどうだ?」
火照った頬を握りしめた外套で隠し、ユスハは呂律の回らない舌で訴えた。しかしハスミックは「そうか?」と答えるだけで、心に響いている様子は見せない。
「君は一応私の護衛なんだから、一緒にいないとおかしいだろう。まあ、君に盾や剣の役割は期待していないけどね」
「……っ、」
「そう照れることはないだろう。私の体なんて、つまらないものさ。神に仕えているせいかな? 薄っぺらくて女の匂いがしないと、ある人に言われたことがあるくらいだ」
視線をじりじりとハスミックに戻せば、細い腕が見えた。平たい胸の上には小ぶりの境界石。枕元の蝋の光を反射して、灰青色の表面がきらりとこがね色に照った。
ハスミックは自虐したつもりのようだが、薄闇に浮かぶ骨格には女らしい脆弱さがあった。白い肌はひんやりと冷たそうで――思わずその感触を夢想すると、胸のあたりがむずむずとこそばゆくなった。
「なあに、君もすぐに見慣れるさ」
心臓のあたりを押さえるユスハに、女はすげなく言う。彼女は荷物から山羊皮の袋と、木製の食器を取り出した。
食器は当然ふたつあり、そういえば、と彼は思い起こす。
「……どうして、護衛は死んだんだ」
気がつけば問いかけていた。ハスミックは皿に盛った水牛乳のヨーグルトを差し出しながら、はしばみ色の目を瞬かせる。
「どうして、とは?」
「そんなに変な質問か? 巡礼者なんて何も持ってないも同然だから、夜盗だって襲わないだろう」
「ああ。そうだな、別に……殺されたわけじゃない。足を滑らせて、崖から落ちた。それだけだよ」
さしたる感動もなく、ハスミックは答えた。不自然なほどに平坦な声に、ユスハはその裏にある抑圧されきった何かを感じる。
「君が気にすることじゃない。境界石さえ隠しておけば、ただの巡礼者だ。息災でヴァガルシャパトには帰れるだろうと思っているよ」
「……じゃあ、どうして改めて護衛を調達しようとしたんだ」
黒褐色の睫毛を上げ、ユスハはハスミックを見すえた。この女は、確かにユスハをヴァガルシャパトに連れて行ってくれるだろう。しかしそこにあるものが善意だけとは、到底思えなかった。
「それこそ愚問だ。体面の問題だよ。子分を連れておかないと、とやかくいう連中がいるから。……それに“行方不明”の子どもを連れ帰ったとなれば、私も株も上がるだろう?」
にたりと笑った女に、嘘はなさそうだった。ユスハは数秒、黙って彼女の目を見つめ――それから観念したように、木の器に口をつけた。