(1)
薄日が洩れている。
ユスハは瞼に感じる熱に、生え揃った睫毛を上げた。視線の先、四つのアーチに支えられた角錐型の天蓋からは、わずかながらも春先の光が射している。ユスハは偶然、その光の下に立っていた。彼は賛美歌を口ずさむのも忘れ、黒褐色の眸で天を仰いだ。
太い石柱が並ぶ単廊は、光源はあっても日がほとんど行き届かない。風雨で劣化した、朴訥とした石材だけを積み上げた空間は、息の詰まる静謐さのみを湛えている。辺境の修道院らしい、華美さからはほど遠い世界だった。
それでも薄日に照らされると、ふと目の醒めるような美しさがある。雨に洗いざらされた石の表面は白茶け、日のもとでは青みを帯びて耀く。色がらすのひとつも嵌めてはいないのに、石は不思議と様々な色を乱反射させるのだった。
典礼のさなか、修道士たちの興奮は、沈黙によって最高潮に達した。光に見入っていたユスハもまた、ふと途切れた歌声に我に返る。慌てて頭きんを被りなおすと、そ知らぬ顔で頭を垂れた。
列から修道士のひとりが歩み出ると、後背の扉に手をかける。
とたん、眩いほどの光が溢れでた。
天窓から吹きこんだ風が、ひとつの通り道を得る。それは聖堂のうちに充満する気を押し出し、外に待ちかまえる信者たちへと浴びせた。彼らはいっせいに胸の上で円をえがくと、小声で祈りの文句を唱え始める。
ユスハは目を伏せたまま、信者たちの顔をつぶさに観察した。カラスタン人らしい、落ち窪んだ目に高い鼻といった面差し。辺境の村々に住まう彼らは、神への祈りに余念がない。
(ばかばかしい)
司祭が振り香炉を手に歩き出す。それに倣い、ユスハもまた歩き出した。聖堂内の空気とは異なって、外は春独特の生ぬるさに充ちていた。
◇
石と水と陽光の国、カラスタン。
国土の九割が荒野に占められるこの国は、その過酷な環境と度重なる外部からの侵略ゆえに、古くから信仰を精神的支柱としていた。その信仰を統率するのが、カラスタン使徒教会。彼らは聖都ヴァガルシャパトを総本山とし、古の叡智である“魔術”を守り伝えながら、今なお国内における勢力を保っていた。
ユスハが暮らす修道院も、その流れを汲んだものである。荒野の広がる峡谷の合間に佇む、黒茶けた素朴な建物。多くの写本を貯蔵する以外目だった特徴もなく、使徒教会からも忘れ去られたような存在だったが、信仰の象徴として、地域から親しまれる存在だった。
昼前の典礼を終え、ユスハはひとり修道院の裏庭に向かった。
崖のふちを覆う鬱蒼とした茂み。その合間から頭を覗かせるのは、ずらりと板の上に並べた藁のカゴだ。あたりには、せわしなく羽音を響かせるミツバチが飛び交っている。
胸元の鎖をしゃらしゃらと揺らしながら、ユスハはカゴのひとつに歩み寄った。薄い瞼の下で、黒曜の眼球がぎょろぎょろと動く。蜜蝋の原料となる巣を取り出すのはもっぱら下っ端の役目であり、彼はその仕事を心から厭っていたのだった。
ユスハを警戒して、蜂の翅音が増した。
翅は日の光を透かした。荒野に射す厳しい光を浴びて、それは耀いた。蜜色に、あるいは虹色に。気がついたときには、それは彼の眼前に迫っていた。蜂の複眼が、まっすぐにユスハを射抜く。
「ユスハ」
刺される、と彼が怖気ついたときだった。後ずさって蜂を避けたユスハに、低い男の声がかけられた。
「……院長様」
「お前は相変わらず蜂が苦手だな。気骨が足りん男だ」
ユスハが振り返った先には、小柄な老人が立っていた。黒々とした長衣で全身を覆い、髪も同色の頭巾で覆っている。男は皺深い目で彼を見やると、言葉少なに語りかけたのだった。
「客人がいる。ついてきなさい」
そう言うなり背を向けた老人を、ユスハは慌てて追った。
聖サルキス修道院は、古くは要塞としても機能していた。要衝地が移った今、その名残を感じさせるのは崩れかけた石壁、そして建物の愚鈍な、垢抜けない風貌くらいものだった。長い年月のあいだに風雨にさらされ、それらは垢がこびりついたように白茶けていた。
修道院長を追い、ユスハは壁つき柱の道からその風景を眺めた。
客人、と言っていたが――その出迎えに、下っ端のユスハが呼ばれたのは不思議な話だった。胸の奥から、不安と焦燥がせめぎ合う感覚を味わい、ユスハは唇を引き結んだ。
(なにを怖気づいているんだ、僕は)
胸元に吊るした石を握る自分に気がつき、ユスハは自嘲した。
鎖の先から垂らした石は、ユスハの手には少し余るくらいの大きさだ。火酒のように深い琥珀色をして、側面は割れたようにごつごつしている。その断面をなぞると、彼の心は不思議と落ち着きを取り戻すのだった。
ユスハは院長室にまで連れていかれた。院長室は客人を接待するためのものではあったが、その質素さにかけては、ユスハたち修道士の僧房とそう変わらない。戸口に立って、奥に向かって頭を垂れる老人にユスハも倣った。
ちらりと視線だけを動かし、部屋の奥を確かめる。半円形の窓から、埃っぽい光が射していた。床に丸く広がった光の先には人影がある。白の長衣は、巡礼者が身にまとうものだったが――。
(女?)
弾かれたように顔を上げたユスハと、女の目が合った。
確かに、女だった。修道士だけが暮らすこの地では、まず立ち入れないはずの存在だ。それが、なぜ――。
「ハスミック殿。お待たせした」
ハスミックと呼ばれた女は、院長の言葉に淡い微笑を返した。
背の高い女だった。銀髪をゆるく編んで胸元に垂らし、頭は白い紗で覆っている。凡庸な面差しではあったが、はしばみ色の眸の鋭さはいやに際立つ。しかしユスハの目に留まったのは、彼女の胸元で存在を主張する境界石だった。
(石の表面にヤギが。……高位神官か)
カラスタン人の一部は、生まれたときにヴァガルシャパトから境界石と呼ばれる鉱石を授けられる。その色や大きさで本人の魔力を表すのだが、ときに表面に彫りこまれる紋様は、本人の社会的地位を示すことにも繋がっていた。
「ご苦労、院長。そちらの少年が、くだんの?」
女の声は、ユスハが思った以上に高かった。ちらりと向けられた視線の鋭さに、なぜか背筋が冷える。
「ええ。……ユスハ、こちらはハスミック殿だ。ヴァガルシャパトから、はるばるこの辺境まで来られた方だぞ」
「ヴァガルシャパトから?」
巡礼目的だよ、とハスミックは肩を竦めた。
聖都ヴァガルシャパト。辺境にあってはほとんど耳にすることのない単語に、ユスハの胸はどうしてだか高鳴った。
不安、期待、焦燥。さまざまな感情が綯いまぜになり、高揚してゆく自分自身にユスハは戸惑う。そんな彼の様子はさて置き、ハスミックは淡々と話を続けた。
「巡礼のために、この近くにある聖山に行ってきたんだ。しかしその道中で、護衛を亡くしてしまってね。女の一人旅はなにかと不便だからね……ヴァガルシャパトに戻るのに、ひとり腕の利くやつを借りたいんだ」
「そういうわけだ。ユスハ、お前が行きなさい」
ハスミック、院長から順に視線を寄せられ、ユスハは目を瞬いた。
(僕が、ヴァガルシャパトに?)
その申し出は、彼にとって寝耳に水だった。しかし同時に、ある種の必然性を持って、彼の胸に沈みこんだのだった。
「この修道院で、魔術が使えるのはお前くらいのものだ。お前を推薦する以外にない」
そう言葉を重ねられ、ユスハは視線をさ迷わせた。手のひらに食いこむ感触に、再び石を握りしめる自分に気がつく。
「聞いたよ、ええと……ユスハ君だったか。どうやら君は、人生の大半の記憶が欠落しているらしいじゃないか」
「……ええ」
ハスミックの問いに頷く。彼女の言う通り、ユスハはこの修道院で暮らすようになる前――正確には、二年前以前の記憶がない。
二年前、ユスハはぼろ同然で、この修道院の門前で発見された。彼の身元を確かめるものは、境界石と、その裏に彫られた名だけだった。褐色の肌は特異であったが、各地で移民の定住が進むカラスタンでは出身の特定も難しいことだった。
だからこそ、ユスハと過去を繋ぐものは境界石以外にない。それを身につけていることはすなわち――彼がヴァガルシャパトあるいはその周辺に住む、特権階級であった事実を示しているからだ。
「確かに、僕は境界石の持ち主です。ですが……」
「怖気づいているのか、少年? そりゃあ、失った過去を見つめなおすことは勇気がいることだろうが」
ユスハの言葉を遮ると、ハスミックはつかつかと歩み寄ってくる。そのはしばみ色の眸には、得体の知れない高揚が渦を巻いていた。
(なんだ? この女……)
ぎゅうっと手を掴まれ、ユスハはびくりと肩を揺らした。薄絹の裾から覗く女の目に、なぜか蛇に睨まれた蛙の心地になる。
「ヴァガルシャパトに行けば、少なからず君に繋がる情報は得られるだろう。境界石の持ち主は限られる。君の家族が探している可能性だってあるだろう」
「家族、」
ユスハは目を瞬いた。家族――その単語は、ひどく浮ついたものとして彼の耳朶を打った。少なくともこの二年間、思いを馳せたことがなかったものだったからだ。
(不思議だ。ふつうなら、家族を知りたいと思うはずなのに。じゃあなんで、僕は過去を取り戻したいと思うのだろう)
もっと、原始的な――激しい感情に根づいているような気がして。ユスハはきゅっと唇を引き結ぶと、目の前の女を見返した。
「あなたはまるで、僕の過去を掘り返したいみたいだ。あなたが探しているのは護衛のはずでしょう?」
「確かに。けれども目の前に謎が転がっているのを見たら、解き明かしたいと思うのは普通だろう。境界石の持ち主が行方知れずになっているというのなら、神官としても見過ごせない事実だ」
「……そうですか」
ハスミックの言葉はもっともらしい。しかしその眸の奥に得体の知れぬ火があるような気がして、ユスハは落ち着かなかった。
目の前の女を信用していいのか、迷いが頭を巡る。すうと息を吸ったユスハの背を、突然、誰かの手が叩いた。
「ハスミック殿。この少年はいささか性根が悪くはあるが、腕は立つだろう。ぜひともこき使ってやってくれ」
「……院長」
枯れ木のような手でばしばしと背を叩かれ、ユスハは軽くむせ返った。後背の老人をじとりと見やったところで、からからと女の笑い声が響く。
「はは、ご老人は早々にこの少年を放逐したいらしい。それとも態度とは裏腹に、少年のことを気にかけているということか」
「ふん。ろくな信仰心のない穀つぶしを放り投げたいだけだ」
口をひん曲げた院長に対し、ハスミックは淡く笑いかけた。日光を帯びて光る銀の一房を揺らすと、そして彼女はユスハの肩を掴んだのだった。
「さあ、ユスハ君。ご老人の頼もしい後押しもあったことだ。私としてはぜひとも君に同行してほしいところだが、さてはおそろしいかね? 険しい旅路は、君のような幼い子どもには酷かもしれん」
「っ、馬鹿にするな!」
反射的にユスハは言い返していた。ぎゅっと拳を握ると、きりりと形のよい眉を吊り上げる。
「僕が怖気づくなど、ありえるものか! それに幼い子どもとはなんだ、僕のいったいどこが子どもに見えるというんだ!?」
年齢は定かではないが――そう言い放ったユスハは、仰ぎ見る位置にハスミックの顔があるのに気がつき、顔をみるみると赤くした。ふんっと鼻を鳴らすと、うまく口車に乗せられた自分を内心恥じる。
(僕としたことが……)
心なしか、目の前の女は愉快そうだ。煮え切らない気持ちでハスミックを見れば、「じゃあ決まりだな」、と彼女は頷いたのだった。