『碧い瞳の乙女たち』 ~アルデガン外伝3~
<目次>
第1章 影の谷
第2章 月明りの平原
第3章 星明りの平原
第4章 夜明けの平原
第1章 影の谷
大陸の西南端、海を眼下に望む切り立った崖と幅広い河に囲われた所に谷間があった。
決して狭いわけではなかったが起伏の大きい地形だった。小さな森、河からの支流が溜まった湖、急峻な斜面の岩肌などが世界の縮図のようにひしめいていた。湿潤ではあったが平らな地面は少なく、農地を開くには向かない土地でもあった。
そのため、この地にはもともと大きな人間の集落はなく、長く修道院があるだけだった。それも30年前の西部地域の戦乱の際に逃げ伸びてきた一族もろとも焼き滅ぼされ、焦げた柱や崩れた壁が緑に呑まれ朽ちかけていた。修道院に篭城した者たちが河に掛かる橋を落としたため、寄せ手の船が引き上げた後ここは陸の孤島と化していた。
河の東の平原では戦乱の際に焼き滅ぼされた村の跡に人々が住み始めていたが、彼らは凄惨な虐殺の記憶から廃墟のある谷間も多くの死者を呑み込んだ河も近づけば怨霊に呪われるという恐れゆえに忌避していた。落とされた橋を掛け直す人手以前に気運さえない状況だった。午後になると西に切り立つ岩壁が早々と影を落とすこの谷間を、人々は影の谷と呼んでいた。
大陸西部を覆う広大な最果ての森を迂回しつつ夜の闇に紛れて南下してきた魔物たちが棲みついたのは、そんな場所だった。
そそり立つ岩壁の頂から谷間に落ちた影が大地から湧き上がる夜の闇に溶け込んだとき、岩壁の麓に口を開けた洞穴の奥で目を開いた者がいた。
小柄で華奢な少女だった。彼女が低い平らな冷たい岩の上に身を起こすと、その背にまっすぐな髪が流れ落ちた。闇の中、瞳が赤い光を放った。
この谷に棲みついて以来、感覚の網が人間の存在を捉えたのはこれが初めてだった。
洞穴から出た少女を冴えた月の光が照らした。背に流れた髪が淡く仄かな金色の光を返した。
だが、月光の下あらわになったその顔には翳りが落ちていた。渇きに燃える眼光と苦悩の表情がせめぎあい、煩悶の相をなしていた。しばし彼女は葛藤に身を震わせたが、ついに動き出した。それでもしばらくは抗いつつ引きずられるように歩いていたが、とうとう狩り立てられるように駆け出した。
森を抜ける間、兎を捉えた亜人を見かけた。湖では巨人が魚を大きな手で掬い上げていた。風のように、影のように走る少女の心が軋んだ。
人間しか糧にできないのは、私だけ……。
しかし渇きにより研ぎ澄まされた少女の感覚は、河のむこうの平原にいる一人の人間を眠りの中で捉えてしまった。眠り続けることでかろうじて抑えていた激しい渇きに、もはや目覚めた身で抗うすべなどなかった。喘ぐ口元に細い牙が覗いた。
そして少女はいまや自分自身に恐怖していた。自分が吸血鬼の牙を受け転化をとげてやっと6年でしかない。にもかかわらず、眠りつつも働き続けていた感覚は予想さえしなかった遠くの人間を捉えてしまった。転化したばかりの自分には決してこれほどの力はなかったはずだった。
思えば自分たちが1年近くかけて迂回してきた最果ての森には上古から生き延びてきた乙女が棲んでいた。乙女の力は魔の森と分かち難く結び付いているとはいえ、あの広大な森に近づく者はことごとく乙女の知るところとなるのだ。
私は、この身は、どこまで恐ろしいものへ変わっていくの?
真紅の目からこぼれた涙が赤い光を映しつつ背後に散った。
河岸にたどりつくと一頭の魔獣の姿があった。獅子の体に皮の翼を持ち、尾には太い毒の刺が生えていた。
しかし、その頭部は不気味なまでに人間に似ていた。開いた口から覗いたのは2列の牙だったが、ぎこちなく発せられたのはまぎれもなく人の言葉だった。
「背ニ乗レ、リア」
「来なくていいわ、ガルム。この河なら私も落ちた橋の柱の上を跳び渡れるから」
リアは相手に請われて付けた名で応えた。ガルムは魔物たちの中で最も彼女の身近に寄り添い続けてきた者だった。魔の森からこの地に到る旅の間に言葉を覚え、話すようになっていた。人間に似た頭部の構造がそれを可能としたのだろうが、それは人間ともはや対話を交わす機会が望めないリアにとって哀しくも確かに心慰める体験となったものだった。
「ソノ狩ハ我ラノ地ヲ守護スル」
ガルムは唸ると流れの上に頭を出した柱を跳び伝うリアに翼を広げて追いすがり、真横を飛翔しつつ呼びかけた。
「心軋マセテマデ一人デ負ウナ」
だがリアはガルムに応えず、ただ思いつめた顔で行く手だけを見つめながら定かならぬ足場を渡り続けた。
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第2章 月明りの平原
河を渡り終えたリアの目の前に広がっていたのは、ゆるやかにうねる平原だった。
人間の目には黒々とした大地としか見えないはずだった。だが傾いた月や星々の光に満ちた銀色の夜空の下、リアの目には全てが見て取れた。河岸近くの石の河原。低い土手の手前の芦原。そして土手を登ると荒い群草に覆われた荒野がゆるくうねりながら続いていた。人々が戻り始めた集落は地平線の彼方だった。
この地に辿りつき河を渡ったあの夜以来、久しぶりに見た光景だった。激しい渇きにもかかわらず、リアは一瞬足を止めた。
いつかは地平線の彼方にまで力が届くようになるの?
恐ろしい予感が悪寒となって少女の身をも震わせた。
すると虚空が裂けたような奇妙な感触とともに、新たな気配が現れ人間の気配に重なった。
森の乙女の妖気よりずっと強く、しかも異質なものだった。
格が違いすぎる相手だとの内なる警報は凄まじかった。
だが、渇きの激しさも後戻りなど許さぬ凄まじさだった。
引きずられるように丘を登りきったとたん、一陣の風が下からどっと吹き上げた。思わず目を閉じたあと、リアはおそるおそる目を開いた。
最初は眼下に見えたものがわからなかった。風の余波に渦巻く純白の流れが。
ゆるやかにほどけて初めてわかった。それは身の丈ほどもある雪白の髪だった。
浮力を失くした髪の渦からもつれた人影が浮かび上がった。
黒衣の乙女の姿をした者が荒野に膝まづき、旅姿の男をかき抱いていた。長い袖が黒鳥の翼のように地に広がっていた。
抜けるような肌の白は髪と区別がつかなかった。
かるく目を閉じた卵型の顔が膝を落とした旅人の喉元に沈んでいた。
そのまぶたがゆっくり開いて、大きな目がリアを見上げた。
清水を湛えた深淵のような、碧く深い瞳だった。
リアの体は畏怖にすくんだ。
上古の乙女よりもはるかに長い時を経た者だと悟った。
人間だった者ではない。リアの直感がそう告げた。
黒衣の乙女が面をあげた。雪白のその顔の口元に、赤い小さな滴が光った。
乙女は男の体を地に横たえて立ち上がり、リアを見つめたまま数歩退いた。
ほんの小さな傷からの微かな匂いにすぎなかった。
だが限界に達した渇きは荒れ狂い、畏怖さえも打ち破った。
ぎりぎりでせき止めていたものがついに決壊し、濁流と化した赤い欲望がリアの意識を一気に呑み込んだ。
青い目からあふれる焼けつくような涙が吸い尽くされた旅人の骸を霞ませた。渇きに耐えられぬ我が身のあさましさが容赦なく心を苛んだ。
しかも自分は憐れみを受けてしまった。人外の妖魔にさえ。
人間の魂と無縁のはずの古えの吸血鬼にまで憐れまれた上に、その眼前で狂態をさらしてしまった。
あまりにもみじめだった。こんな思いは想像もできなかった。ずたずたの魂に口を開けた恥辱ゆえの裂傷が血を吹いた。
すると冷たいものが頬に触れ、うつむいた顔を上向かせた。
雪のような指だった。
深い碧い瞳が、不思議に静かなまなざしがリアを捉えた。
「それがおまえの本来の瞳、光を帯びた空の青。いずれ出会うと思っていたわ」
低い声がささやいた。
「なぜ限界まで渇きに身をさらすの? 魂をすり切らせて耐えようとするの? 赤き狂気に耐えるすべなどないと知りながら」
「……あなたがなぜそんなことをいうの? なぜ、あなたは私を知っているの? どうしてあなたが私を憐れむのよ!」
軋みをあげる心の底からの呻きが、畏怖さえ乗り越えて叫びと化した。
「あなたに人間の心なんかないでしょう? 人間だったことなどないはずのあなたに。だったら何がわかるというの! 生まれながらの悪魔のくせに! この世の災いの元凶のくせにっ!」
だが清水を湛えた淵のような瞳には、波一つ立たなかった。
「おまえは知っているはず。魂を持つのは人間だけではないと。丘の上のあの魔獣にだって魂はあることを。
そして過度の苦しみが心をいずれ歪めるのも人間に限った話ではないと。心のありかたに違いなどありはしないのだと。
だから私はおまえに問うのよ。なぜ自分をそんなに追いつめるの? 苦しみをそうして心に積み重ねるの? 西の森のあの者の魂の救いを願ったおまえが、なぜ自分にはそうしない?」
「なぜあなたがそれを知っているの? 魔の森に囚われたあの人のことまで!」
「あの者はかつて私の牙を受けた者。だからおまえが伝えたことは、すべてそのまま私に伝わったのよ」
「あなたがあの人を! 牙にかけたばかりか記憶の欠片を取り戻したあとも放っていたの? 苦しんでいると知りながら!」
「私たちが自然にふるまうというのはそういうことよ。おまえが人間だったとき、牛や豚のことを考えていた? 彼らには恐怖も苦しみもないとでも?
それに転化自体は苦しみではない。生まれ変わるだけなのだから。確かに無事に転化できるとは限らない。牙にかけた者が転化した環境と異質すぎる場所では目覚められずに死んでしまうし、目覚めて一昼夜の間に血を得られなくても死に至る。
でも、それはおまえのいう苦しみとは関係ないはず。おまえはむしろそのまま死んでいられたらと思ってきたのだから。もしも自分も意識や記憶をなくしていればとさえ、あの森で考えたはずなのだから」
乙女の目が、波立たぬ湖面のような静けさの下に深みを秘めた瞳がリアの魂を見つめていた。相手への畏怖が戻ってきて昂ぶる感情さえも圧倒した。
「無事に転化を遂げたならば普通は人間だった時の記憶を失う。持って生まれた気質だけが残る。そして無垢の状態から記憶を積み始め、それまでと違う存在として新たな時を刻んでゆく。あの者の森との絆やおまえの感応力のようなもともと持っていた力を固有の特色とする存在として。
それが吸血鬼としての自然な姿。おまえもあの森でそう思ったはずよ。転化したこと自体が苦しいのではない。自然な在り方に至れなかったからこそ自分たちは苦しんでいるのだと」
碧い瞳に憐れみが浮かんだ。その目を見ていられなくなって、リアは面を伏せた。
「おまえたちは望んだわけでもないのに吸血鬼の理からはずれてしまったから苦しんでいるのよ。あの者は森との絆の神秘ゆえに昔の姿のわずかな記憶を何度でも取り戻す。そしておまえは牙にかけた者の憎悪ゆえにただ苦しめと呪われ吸い残された。だから私は憐れむの。
けれど救いは理に従うことでしか得られない。でないと滅びをただ願い続け、そして焦燥に心軋ませる。今のおまえのように。それが続けばおまえの魂もいつか歪む。おまえはそれをなにより恐れているはずなのに」
リアはもはや言葉もなく、ただ足下を、暴かれた自分の内心を見つめるばかりだった。
「人間の意識も記憶も残したおまえが自分をおぞましく思うのは仕方がない。おまえにとっては同族殺しなのだから。その気持ちが抑えがたいこともわからないではないわ。そのままではとても理に従うことなどできないことも。
けれど、おまえはもうわかっているはずよ。理に逆らい続けることは自分の魂をわざわざ痛めつけることに他ならないと。心を歪ませる道をあえて歩むことを意味するのだと」
乙女の碧い眼がリアから離れ、はるか北に向けられた。それは最果ての森のある方角だった。
「そんなおまえがあの者の苦しみを救いたいと思った。けれども人間だったときの記憶を取り戻す願いを叶えるすべはなかった。私だってそれは同じ。そんなことは誰にもできない。
そのときおまえはあの者に自分の記憶を全て伝えた。そうすることであの者の目を失われた過去から今の己の姿へ、そしてその身のゆく末へと向けさせた。おまえはそうしてあの者を呪縛から解放したわ。おまえにしかできない方法で。私にさえもできないことを。結果的なものだったとしても。
知りたくない? あれからあの者がどうしているか。何を思い続けているか」
思わず顔を上げたリアの目を、ふり返った純白の乙女の視線が再び捉えた。
「森と深き絆持つあの者は希有な存在でもあるの。森に囚われ妖気を吸われている反面、森の癒しの魔力のおかげで渇きに苦しむことがない。だから心が軋むこともない。おまえと会って初めてあの者は、自分と違う苦しみに落ちた者の存在を知ったのよ。
あの者はおまえの歩みに思いをはせ、自分をそこに当てはめているわ。おまえの歩みを理解しようとして、そして現在の自分を捉え直そうとして」
「……あの人が、あれからずっと?」
とまどいを隠せぬリアの言葉に白髪の乙女はうなづいた。
リアの脳裏に光も漏らさぬ魔性の森に囚われた黄金の髪持つ乙女の姿が、冠を頂いた丈高き姿が浮かんだ。人間に闇姫と呼ばれながら、大きな緑の瞳をただ哀しみに染めていたあの姿が。
「そしてあの者の煩悶は軽くなった。失くした過去への哀しみは残っていても、魂を苛む呪縛が解かれのだから。それがおまえのなしとげたことよ。自らの呪縛を解けずにいるおまえだったからできたこと。
あれからあの者は、ずっとおまえと出会ったあの夜のことを思い返しているのよ。森に阻まれもう会うこともできないおまえのことを。そして緑の闇の中で願っているわ。いつかはおまえにも安らぎがくるようにと」
「……願ってくれているの? 安らぎを、こんな私に……?」
胸の奥からせり上がってきた感情が涙となってあふれ出たが、それは初めて経験するものだった。心の生傷にしみ込みながらも苛むことなく癒し潤すものだった。そんな涙を流すことなど思いもよらなかった。人々をただ無残に殺めるばかりのこの自分に、よもや思いを寄せる者があろうとは。安らぎを願う者などあろうとは。この心がこんな感謝や慰めを覚える日が来ようとは!
信じられぬ思いにただとまどいつつ、いくら両の拳を口に当て抑えようとしても涙はとめどなく流れ出た。ぼろぼろだった心も際限なくそれを吸い込んだ。月と星々の銀色の光を浴びてゆるやかにうねる平原の中、リアはただ初めての涙にくれていた。
白髪の乙女はその姿を静かに見守っていた。その碧い瞳は水鏡のように少女を映していた。
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第3章 星明りの平原
「私たちは人間という種族の命運に縛られた者。それも呪縛だと考えるなら、呪縛に陥るのは私たちの宿命かもしれない」
月が沈んで星々だけが残った天空の下、銀河を見上げながら白髪の乙女がリアにいった。二人は向き合って荒野に座っていた。リアの背後にはガルムが控えていた。
「人間たちが存在している限り私は滅びない。おまえたちは人間だった肉体が魂に食い込んだ不死の魔力によって繋ぎとめられている身だから魔力を砕かれれば滅びるけれど、それ以外の点では私と同じ定めにあるわ。人間が存在している限り私たちの力は増してゆく。けれども人間が滅亡すれば減少に転じる。力が弱まるにつれて私たちはしだいに薄れてゆく。力が尽きれば霧散する。それが私たちの最期よ。解呪されたものが薄れて消滅する過程が長い長い年数をかけて進行するのが人間という種族が滅んだ後に起こること。そしてその年数は力の大きさに、それまで存在した年数に応じて決まる」
「では、古くから存在した者ほど長い間存在し続けることになるの? だったら、もしかして最後に残るのは……」
「そうよ」
天空をまたぐ遥かな流れに視線をゆだねたまま、黒衣の乙女は応えた。背から大地に流れた雪白の髪は地上に映えた銀河の影のようだった。
「最後に滅びるのは私。人間も吸血鬼も共にいなくなった世界を見届けて滅びるのが私の定め」
「……あなたは恐ろしくないの? たった一人になって滅びると定められた運命が」
銀河の流れを辿っていた視線が少女の顔に移された。
「おまえは本当に変わっているわ。今度は私のことを気にかけるつもり? それにいくら人間でも自分がいつか死ぬことくらいは知っているはずよ。それとも知らなかったの?」
「それは知っていたわ。けれどいつ、どんなふうに死ぬかなんてわからないから」
「ならば私も同じことよ。私もいつ、どんな形で人間という種族が滅びるかなんてわからないのだから。
おまえを牙にかけた者は、すべての人間を呪うつもりだった。あるいはたった数年ほどで人間は滅びていたかもしれなかった。そうなるかならないかがどれほど小さな違いだったか、おまえは誰よりもよく知っているはず。おまえはその場に立ち会った者の一人だったのだから。あの時おまえが牙にかけた者の気をそらせたために、人間は憎悪の牙の滅びを免れたも同然なのだから。
いつ、どんなふうに死ぬか、滅びるか。そんなことがわかる者などどこにもいないわ」
「でも私でさえ彼女と同じようなことができるのだから、あなたなら世界をいつでも滅ぼすことができるじゃない。自分の定めを変えたければ!」
「そんなことを考えるのは人間だけよ。自分の意志や力で世界を変えようと思うのは。まして世界を自分の運命と道連れになどと考えたりするのは。私は自分の意志で世界の歩みを変えようとは思わない。理に在る者なら誰もそんなことを考えたりしない」
白髪の乙女がまっすぐリアの目をみつめた。
「おまえはもう考えたことがあるの? 苦しみからの救いを願い続けたその果てに」
「……怖いのよ。いつか考えてしまうのではないかと。私を牙にかけた者がそうだったのを忘れられるはずがないから。その身の滅びを望んでかなえられず苦悶に心歪ませたその果てに、全てを滅ぼそうと呪うまでに堕ちた魂を見てしまったのだから」
リアは呻いた。碧い瞳から思わず目をそらした。
「だから私は怖いのよ。自分が歪んでしまうのが。だから滅びてしまいたいと……」
「でも自分で自分を滅ぼすことはできない。ならば人間を滅ぼすことで終末を早めるしかないと……。何度もそんな者を見たことがあるわ。でもみんな吸い残された者だった。人間の心を残したまま魂の牢獄に繋がれた者ばかりだった」
白髪の乙女は再び星空を見上げた。
「おまえが城塞都市の地下で出会った異世界の魔物もいっていたでしょう。人間は種族の運命も世界の命運も変えうる存在だと。世界を意識し働きかけようとするその性質こそが、世界の命運を左右する種族であるための条件なのかもしれない。
けれど、人間は世界と自分の大きさを見誤ることがある存在のようにも思える。自分たちのために世界があるように感じたり、わが身を世界と混同する者さえいるような気がする。人間が見る世界の姿はしょせん人間にとってのものでしかないのに。自分の目から見ただけの限定された姿でしかないのに」
「……私が見る世界も人間にとっての世界でしかないと?」
「おまえが人間だった自分にそうして呪縛されている限り」
リアに応えた乙女のまなざしは星空から北の地平線の彼方へ、最果ての森へ向けられた。
「おまえはあの者が森の魔力に囚われたとき叫んだ。森に従ってはだめだと、それでは世界が滅んでしまうと。でもあの魔の森が世界を覆うことは人間にとっての世界の終わりでしかないわ」
訝しげに向けられたリアの視線に碧い瞳が応じた。湖面の下の深淵に呑み込まれるような錯覚に、少女は身を震わせた。
「あの森がこの世界を覆ってしまえば確かに人間は滅亡するしかない。そうなれば私たちも滅びゆく。最後に私もいなくなる。
けれど、その時はあの森もまた変わらざるをえない。私たちがいなくなれば森は魔性を維持できないのだから。森は本来の姿を取り戻す。人間以外の生き物たちのあり方もあるべき姿に戻る。そして長い時の果てには新たな種族たちも誕生する。
やがてはその中からもまた、この世界の命運を変えうる種族が現れるわ。その時またその種族にも、一人の白い姿の者が現れるのよ。姿を写した種族に縛られつつ、その命運を見届ける定めを負う者が。
そうしてこの世界は存在し続ける。世界そのものの寿命が尽きるまで。いかなる命も生み出すことのない涸れた骸になり果てるまで」
「……わからないわ。私には……」
「仕方ないわ。確かに一つの種族の命運など超えた話だから」
黒衣の乙女の瞳の深淵は、再び静かな水面に覆われた。
「けれど、それは世界の命運を変える力を持たぬもののもたらす滅びに限った話よ。世界の寿命を脅かさず種族の滅びに留まれるのは。人間がもたらす滅びは世界そのものを傷つけてしまう危険を伴う。あの魔の森の中には古の国々の廃墟が数多く眠っているけれど、その中には巨大な魔法の力を栄えさせた上古の国々の遺跡もいくつか埋もれているのよ。おまえの住んでいた城塞都市を破壊したあの火の玉など子供の遊びでしかないほどの。
それらは互いに争いあい滅ぼしあったもの。あの森さえ大半が焼き尽くされ、人間ばかりか多くのものどもも灰に帰し、大陸の形さえ変わるほどの破壊をもたらした戦いによって。破滅の到来よりも人間の力が削がれるのが僅かに早かったせいで、からくも収まった争いの痕跡よ」
「そんなことが……」
「そうよ。そして人間たちは力だけでなく起こったことの正しい記憶も失っているわ。伝説の彼方の上古の世界の出来事として、ほんの断片だけを他人事のように語り継いでいるだけ」
碧い瞳に不思議な感慨が浮かんでいた。
「私たちは一人の人間と比べれば絶対的な力を持つ。けれど理の中に留まる限り、私たちには世界の命運を変える力はない。ただ渇きを覚えたときに人間を牙にかける以外に何も望みはしないのだから。それで人間が滅びたとしても、それは人間という種族の滅びに留まるものでしかない。
けれど人間の力がひとたび世界を破壊し始めたなら、私たちの力はもう及ばない。それは次元の違う力、種族が振るう力なのだから。止めようと思えばただ人間という種族を滅ぼすことでしか止められない。それはそのまま私たちの終末の到来となる。
あの廃墟の魔法王国が戦ったとき私は思い知らされた。私たちは人間という種族に縛られた無力な存在でしかないと。あくまで命運を握るのは人間であって、私たちではないのだと」
「……吸血鬼は世界を滅ぼせないけれど、人間は世界を滅ぼせるのだと。だから人間のほうが恐ろしいといいたいの?」
「そして人間の心のまま転化してしまった者は両方の力を振るうことさえできる。魔法王国の大戦よりさらに昔、一人の王が自ら望んで生きたまま転化した。この世界に覇を唱えるには足りぬ己の寿命を超えるため。わざわざ編み出した魔法で拘束した吸血鬼の牙によって。
しかし王は拘束した者の特質を受け継ぎ日の光に耐えられぬ身となった。王にとって、それは世界の半分にもはや手が及ばないことを意味した。王は人間をことごとく己の闇の血族に引き込み始めた。そして昼の世界に属するあらゆるものを片端から魔法の力で滅ぼそうとした。王の力が世界を覆い尽くそうとしたとき、あの解呪の技が編み出され、ようやく王は滅びた。でも王の手で転化させられた者たちを解呪するのは、人間たちがいくら世代を費やしてももう無理だった。あまりにも数が多すぎたから。
おまえも含めたこの世の吸血鬼のほとんどが日の光に苦しむのもその名残よ。おまえはあの狂気の王の牙の呪いを遠くその身に受けているのよ。たった一人の人間が、狂える欲望の赴くままに私たちの力を求め、それを振るったばかりに」
「一人の心のあり方が人間や吸血鬼や世界の命運さえも歪めたというの? 今の私のこの運命にまで影を落としていると?」
蒼白となったリアを見ながら、白髪の乙女は立ち上がった。
「私は人間が左右する世界の歩みを変えるつもりはない。たとえそれが狂気によるものであっても。それに転化を遂げた者はもう私にも滅ぼせない。でもあのとき、私は多くの転化させられた者に出会った。どこへ行っても出会った。ただ苦しめる意図ゆえにわざと吸い残され、おまえのような渇きと苦悩の狭間に落とされた者もあまりにも多かったから。そして地に満ちあふれた苦悶と怨嗟の呻きをさすがに放っておけなかった」
「……それで、あなたはどうしたの? その人たちを」
リアの声はかすれていた。
「選ばせたわ。このまま人間の心を持ち続けるか、人間であった記憶や意識を捨て去るかを」
「……まさか、まさかそれは!」
「そうよ。おまえは自分を牙にかけた者に魂を砕かれかけたことがあったはず。あれは支配の魔力によるものだから、普通は直接牙にかけた相手に対してのみ可能なこと。けれど私は全ての者に支配の魔力を振るうことができるから」
目の前に立つ黒衣の乙女の様子に変化はなかった。静かな瞳に憐れみを秘めたままだった。にもかかわらず、リアの畏怖の念はその一瞬まぎれもない恐怖に姿を変えた。
「あなたは……、あなたはその人たちの魂を砕いたの?」
「死んで転化した者と同じ状態に戻したわ。理の内に留まる存在へと。誰もがそれを望んだから」
慈悲によってなされたことを疑ったわけでは決してなかった。自分が乙女と同じ立場だったとしても同じことをしたと思えた。なによりそれは自分自身の心のどこかにさえも、かなわぬ望みとして確かに存在したもののはずだった。
にもかかわらず、リアは戦慄した。実際にその力を持つ者と向きあったことで実感させられたゆえの戦慄だった。それはやはり自我の、魂の死に他ならないことなのだと。
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第4章 夜明けの平原
いつの間にか星々の輝きが薄れ始め、東の地平線に微妙な色の変化が現れつつあった。夜が終わりを告げようとしていた。
「……あなたは私にも選ばせに来たの? 人間の心を持ち続けるかどうかを……」
「それだけなら来なかったかもしれないわ。話もしてみたかったから」
淡く霞み始めた銀河の下で、身の丈ほどもある雪白の髪を背に流した乙女がリアを見下ろしていた。
「おまえは最初いったでしょう? 西の森のあの者が苦しむのを放置したのかと。あの者は私が牙にかけた者だったから、様子はもちろん感じ取れた。だから私は何度も記憶を消した。
でもあの者は人間だったときから森との絆を持ち、加護の力を受けていたようだった。自分が日の光を浴びながら森のはずれを歩いたことがあったという、たった一つの記憶だけは消しても消しても取り戻した。だから私も諦めた。私の力もあの者にだけはとうとう及ばなかった。
でもおまえはまったく違う方法であの者を救った。だから一度話してみたかったのよ」
銀河がついに天空に溶けた。
「あの者もおまえに安らぎを願っているわ。自分の心が歪むのを恐れながら魂に苦しみを重ねなくてもいい。もう理に戻るだけでいいのよ」
その声と重なるように、リアの脳裏にこの一夜の体験が流れるようによみがえった。多くの感じたことのなかったものを感じ、知らなかったことを知った夜だった。目くるめく思いだった。その思いの中から、一つの言葉が浮かび上がった。二人の乙女との出会いに向けた思いを表わす言葉が。
「……ありがとう……」
乙女の白い顔を見上げた青い目に、また涙が浮かんだ。
「私に安らぎを願ってくれて、私を心にかけてくれて……」
しかし、リアは立ち上がった。涙のしずくを振り払い碧い瞳をまっすぐ見上げながら。
「あなたに会えなければもう限界だった。あの人のことを知らずにいたとしたら。でも、まだもう少しこのままでいるわ……」
白髪の乙女は無言だった。静かなまなざしが先を促した。
「私が理に入れば、私は牙にかけた人を転化させることになるのでしょう?」
「そうよ」低い声が答えた。
「ならば、その中から私のように苦しむ人も出るかもしれないのでしょう?」
「理に在る者はわざわざ吸い残したりしないわ。心歪ませた者のようには」
「でも、牙にかけた人を逃がしてしまうこともあるかもしれないでしょう?」
「絶対にないとはいわないけれど」
するとリアのまなざしに力が、決意がこもった。
「だったらもう少しこのままでいさせて。誰かにこんな苦しみをもたらすかもしれないのなら。私はまだ耐えられるから!」
「心歪めば誰かを苦しめる危険ははるかに増えるのよ?」
訝しげに問う相手に返す声にも力がこもった。
「わかっているわ。でも、あなたたちと出会った思い出があれば耐えられると思うから。私を滅ぼしてくれる者に出会う日がくるまでなら」
「起こるかどうかもわからないことを避けるために、自分だけが苦しみを引き受けるつもり?」
リアは地に横たわる旅人の骸の傍らに膝をつくと、その上体を抱き起こした。
「もう私はどうしても人間を殺めるしかない身。ならば、せめて自分が殺めた人は最後まで人間として死なせてあげたい。あなたには悪いけれど、私はやはり誰も私のようにはさせたくないの。これは、この思いは私に最後に残された人間の証なのよ!」
リアの目に久しく失われていた光が宿った。その光の激しさに黒衣の乙女はわずかに目を細めた。そして低く呟いた。
「その目は真昼の光を宿す。瞳はもう二度と見ることのできない青空を永遠に映す。その覚悟の、その魂の表象として……」
白髪の乙女は膝をついたリアを見下ろした。
「あれほど苦しんでいながら断った者などいなかったわ。でも、なんだかこうなりそうな気もしていたけれど」
吸い込むような碧い瞳が、光を宿した青い瞳を見すえた。
「今までのおまえは心ならずも理の外に置かれた者だった。だから私は憐れんだ。でも、おまえがこうして自分の意志で理の外を歩むならば、もう私は憐れまないわよ」
「わかっているわ」見上げる青い瞳は揺るがなかった。
すると黒衣の乙女もまたリアの正面に膝をつき、いくぶん柔らかな声でこういった。
「ならば一つ頼んでもいい?」
そういわれて、リアはとまどった。
「あなたが、私に? 私なんかになにを……?」
「おまえのこれからを見ていてもいい?」
「私を、私のこれからを見ていたい? どういうこと?」
「そのままの意味よ。おまえがこれから見たり聞いたりすることを私も知りたいの。直接牙にかけた西の森のあの者のように」
「だって、あなたは誰に対しても支配の力を持つんでしょう? だったらわざわざ許しを得る必要なんかないじゃない」
「そのとおりよ。でも普段はこんな力を使うわけではないの。理の中に在る者ならただ自然に生きているだけ。吸い残された者は結局は人間としての煩悶に縛られている。わざわざ見る必要など感じないから」
かすかな笑みを含んでそういった乙女が、真顔になった。
「それにおまえは自分で理の外をゆくと決めたのだから、自分の在り方を自分で決めたのだから、勝手なまねはしたくないの」
「……だったら、条件が一つあるわ」
「条件?」
「ええ」
リアは赤く染まり始めた東の空に目を向けながら続けた。
「私のことを見ていてくれるのなら、もし歪んでしまったときは私の魂を砕いてくれる?」
「おまえは今の考えで未来の自分を縛るつもり? そのうえその判断を私にゆだねるの?」
「でももし歪んでしまったなら、私はもう今のようには考えたりしないはず。私が今望んでいることはわかってもらえたと思う。だからそのときは私を理に戻して。私のことを見ていようというのなら。それが条件よ」
「おまえは本当に変わっている。しかも一筋縄ではいかないわ。おまえは私の意志や力を超えた二人目の者になる気なの?」
乙女の雪白の口元に再び微笑が浮かんだ。
「ならば見せてもらうわ。どこまで頑張るつもりか」
ついに空が白み始めた。
「夜ガ明ケル」ガルムが唸った。
「その男の骸はどうするつもり? そろそろよみがえるわよ」
白髪の乙女が声をかけた。リアがガルムを見た。
「ソノ心ノママニ」
唸り声にうなづくとリアは乙女に向き直った。
「私が預かっていいわね? 人間として葬ってあげたいから」
「好きにするといいわ」
白い髪を翻して黒衣の乙女は立ち上がったが、ふと振り返るとリアに告げた。
「東の国のはずれで奇妙な動きがあるわ。何者かが吸血鬼の力に手を出そうとしているのかもしれない。吸血鬼のようだけれど、なんだかいびつな、不完全な存在を感じる」
「それは、またなにか災いをもたらしそうなものなの?」
「人間が私たちの力にあえて手を伸ばせば、少なくとも人間には災いにならないはずがない。それは彼らの自然な在り方を外れることでしかないのだから」
そういったあと、乙女はつけ加えた。
「自分で行こうかと思ったけれど、おまえに託してもいいのよ。人間の心を持つ身でなにを思うか、見てみたい気もするから」
「考えてもいい?」
乙女がうなづくと、どこからともなく風が吹き始めた。純白の長い髪と翼のような黒衣の袖をなびかせた姿が薄れ始めた。
「幽界からの風よ。存在の核に人間の肉体を持たぬ私はいくらか霊体に近い身。だから現し世と幽界の狭間を行ける」
その声を残して、白髪の乙女の姿は風の中に溶け込んだ。
洞穴に運び込んでほどなく旅人の骸はよみがえった。魂を失くしたうつろな目で牙を剥いたその姿は、かつて城塞都市の地下で見た若者と同じ冒涜的な恐ろしさだった。とうに我が身は転化を遂げているのに、人間としての心が受ける衝撃は全く減じていなかった。
そして、こんな姿に変えたのは自分に他ならなかった。
だからこそ、呪文で焼き尽くしたり魔物の餌にしたりせずに、なにがなんでも無傷のまま人間の身に戻して大地に還すと決めていた。
洞穴を出ようとする旅人に止まるよう念じた。支配の力が発動していることを吸血鬼としての本能は告げていた。
だが、旅人の動きは鈍くなったものの、じりじりと出口へにじり寄り続けた。至高の吸血鬼の牙を同時に受けたその身ゆえに、自分の力だけでは抑えきれないのだとリアは悟った。
既に外は太陽が登っていた。このまま外に出せば闇の王の系譜に連なる自分の牙を受け光を浴びずに転化が進んだ旅人の体は、陽光を浴びて崩壊するはずだった。そうなればまだ血を得られず転化を終えていないその身は、もはや復活しないと悟られた。
リアは旅人の正面に回り込み、その体を抑え込んだ。
旅人は暴れた。少女の体を伸びた牙が穿ち、鋭い爪が切り裂いた。体に負った傷はたちどころに消えたが、その一撃ごとに罪の意識と我が身の凶々しさが深々と魂に刻まれた。
だが、リアの中でなにかが変わっていた。それまで運命は自分に降りかかってきたものだった。だからただ苦しみをなすすべもなく心に重ね続けるばかりだった。そして自分の恐ろしい行いも運命に強いられたものとしか捉えられず、外部から襲いかかったあらゆる苦悶に我が身を受け身で晒し続けてきたのだった。
しかし、もう自分はこうあることを選んだ身だった。一方的に運命が降りかかってきたのではなかった。その自覚ゆえに、ただ我が身にのみ向きがちだった意識が相手に向かう余地が生まれていた。
「私はあなたのことをなにも知らない。名前ひとつ知らない」
聞こえることなどないと知りつつ、それでもリアは語りかけるのだった。砕いてしまった魂へ。
「どこからどこへ旅していたのかも知らない。どんな人生を歩んでいたのかも知らない。なにも知らないまま出会ってしまった。そしてこの牙で魂を砕いた。体だけを切り離してしまった」
暴れる体を抱きしめる細い両腕に力がこもった。
「だから、せめてこの体は無傷であなたの元へ返すわ。あなたが死んだあの場所で人として眠ることができるように。別の運命を辿ることがないように。誰かに災いをもたらす存在になど決してなることがないように!」
暴れ続ける骸をひたすら抱きしめながら、無数の牙と爪の傷を避けることなく魂に刻みながら、リアは永遠に続くかと思われる昼と夜の間、殺めた者の魂にただ贖罪の祈りを捧げ続けた。
月明かりを浴びて穴の中に横たわる旅人の蒼ざめた顔からは、既に吸血鬼の徴が消えていた。その顔を最後に目に焼き付けて、リアは死んだ旅人を丁寧に埋めた。
丘から見上げた天頂には銀河が見られたが、今夜の光の流れはくすんでいた。東の空には黒い雲が煙っていた。
白髪の乙女はいっていた。東の国で誰かが吸血鬼の力に手出しをしているかもしれないと。
我が身の凶々しさを思えばとうてい信じられない思いだった。だがもし本当ならば、それは巨大で永続的な災いになりかねないはずだった。
確かめなくてはならないとリアは思った。そしてそれは自分でなければならない気がした。黒衣の乙女は人間の心を持った者が世界の命運を変える限りはたとえその身がなんであろうと手出しをする気がないとわかったから。その結果どんな恐ろしい災いに結び付こうとそのまま受け入れるつもりでいると知れたから。
その上で乙女はいったのだった。人間の心を持った自分が何を思うか見てみたいとも。自分がすることにも干渉はしないだろうと思われた。吸血鬼の理を自らの意志で受け入れなかった自分は乙女の目には人間に近いとみなされているようだった。不思議な誇らしさをリアは感じた。
ならば自分の目で確かめて、かろうじて人間であり続けるこの心の告げるとおりのことをするしかない。人の世の災いの火種になるかもしれないことならば。
東へ足を踏み出したリアは背後の気配に声をかけた。
「ついてこなくていいのよ」
「東ノ果テマデ歩ク気カ」
ガルムが唸った。
「翼持タズシテドウスル。背ニ乗レ」
そして彼らの頭上に舞うものがあった。
「残りのものには告げた。この地を守れと」
はるかに流暢な言葉を発したのは、やはり人の顔を持つ魔の鳥だった。幻惑の魔力を持つゆえに、人間にはしばしば同種の力を持つ人魚と混同される魔物だった。女のような細身の顔の頭部からは虹色の羽毛が背に流れ、痕跡のような爪を備えた細長い翼は群青、体長の半分以上を占める孔雀のような尾羽は金色を主体に玉虫色の紋様がちりばめられていた。
魔物の群れの中で唯一最初から人間の言葉を話すことのできたものだった。にもかかわらず、リアに近づいたことはなかった。去りはしないが明らかに遠巻きにしていたはずだった。訝しげな視線に妖鳥は答えた。
「その心はこれまであまりに激しい苦痛に軋んでいた。とうてい近づけなかった」
「でも、私のこの心があなたたちまで変えてしまった」
呻くリアに妖鳥は返した。
「変じた己を受け入れることを選んだだろう? 我らも同じだ。いささか早かっただけ」
「時間ガナイ。乗レ。夜明ケ前マデニ隠レル場所ヲ見ツケナガラ行クノダカラ」
「人間の目は我が力が惑わす」
そして少女を乗せた獅子のごとき魔獣ときらびやかな妖鳥は、群雲が銀河を覆い始めた夜空へと翼を広げて舞い上がった。
終