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「そうか! そなたはやっと考えを改めたのか」
珍しく優しい笑顔を浮かべてキヌアの顔を覗きこむのは、『地の女王』、キヌアの実の姉、チャナンである。普段は一族の者が誰しも恐れる冷徹な君主であり、戦場に立てば彼女に敵う敵はいないと言われている。獰猛にして冷酷、まさに『獣の一族』の王に相応しい人物だ。その『地の女王』も、唯一の妹であるキヌアのことに関しては日ごろから気を揉んでいた。
ましてや王家を継ぐ子をもうけることができない事には、いくら冷徹で恐れ知らずなチャナンも密かに心を痛めていたのである。
チャナンの結婚は早かった。まだ一王女に過ぎない十六の頃に最初の結婚をして一女をもうけた。しかしすぐに戦で夫を亡くし、新たな結婚をするが、二番目の夫もやはり数年ののちに戦で亡くす。二番目の夫との間に出来た子どもはすべて死産であり、チャナン自身も難産の後遺症で子を産めない身体となってしまった。もうすぐ十歳になろうかという最初に産んだ娘に唯一の希望を託しているのである。
その昔、チャナンとキヌアには三人の兄がいたが、カリ王とともに戦死している。キリスカチェ王家に残ったのは、現『天の女王』とチャナン、そしてキヌアだけとなってしまったのである。
カリ王亡き後、有能なふたりの女王が立つことによって、キリスカチェの再興は叶った。しかし、最早女王たちが世継ぎを産むことはできない。唯一の希望は、キヌアが結婚し、男子をもうけることである。
しかし、若い妹にあからさまな期待をかければ、本人はかえってそれに反発するだろう。母である『天の女王』だけでなくチャナンも、キヌアが簡単に求婚をふいにしてしまうことに苛立ちを募らせていたのだ。
その妹が、つぎの満月には真面目に結婚を考えると言い出したのである。さすがのチャナンも顔を綻ばせずにはいられなかった。
「王家の女は戦に長けていることも大事だが、跡継ぎを残すことも大切な役目だ、キヌア。ようやくその重みに気づいたのだな」
チャナンはそう言ってキヌアの決意を讃えるが、キヌアはただ、早く成人して女王からじきじきに鹿革の胸当てと新しい斧を授かることばかりを考えている。さすがにそんな浅はかな考えであるとは言えずに、キヌアは姉の問いかけに黙って頷いた。
キヌアの思惑など知らずに満足げな表情でチャナンが頷いたとき、地の女王の部屋に伝令が駆け込んできた。
「奇襲! 地平に見慣れない敵が現れました!」
普段は兵士が許可なく女王の間に入ることは赦されないが、非常の場合は別である。突然兵士が飛び込んできたということは、予期せぬ事態に陥ったということである。チャナンはこれまでの柔らかい表情を消し去って険しい表情に成り、兵士に問い掛けた。
「数は?」
「まだ遠いのではっきりとは分かりませんが、おそらく最前列の兵士だけでオカ族の三倍はいるでしょう」
久しく続くように思えた平穏は、あっけなく終焉を告げた。得体の知れない敵は軍事力を蓄えて、いよいよキリスカチェに挑んできたのである。
チャナンが腰を浮かせたとき、いち早くキヌアが立ち上がって姉を見下ろした。
「お姉さま、先ずは私が様子を見てまいりましょう!」
敵が現れたと聞いた途端、これまで恥ずかしげに顔を伏せ気味だったキヌアはさっと顔を上げ、眼を輝かせた。チャナンは思わず、敵襲のことよりも折角のキヌアの決断がまた振り出しに戻ってしまうことを心配した。
「キヌア、焦って勇み足をしてはならない。すでに敵は目前に集結しているのだ。今回は私の軍隊が迎え撃つこととする。そなたも兵を集めて私に従うのだ」
キヌアは悔しそうに唇を噛んだが、女王の決定には異議を唱えるわけにはいかない。
「分かりました。ワスランにこのことを告げ、すぐに兵を招集いたします」
天幕を押し上げて出て行く妹の後ろ姿が活き活きとしている。何故か複雑な思いでチャナンはそれを見つめていた。
「敵の正体は分からないか」
「はい。これまで高原に現れたことのない部族のようです。とくに旗も掲げていないようです」
「湖畔の部族のひとつか……」
地平の黒い影の帯を眺めつつ、『地の女王』は無数の戦いを経験してきた老練の側近に問い掛ける。戦士の中でも特に多くの戦いを制してきたその側近でさえ、遠くに控える敵に見当が付かない。
「これまでわれわれが知らずにいた湖畔の部族が、ここに来てこの高原を、そしてキリスカチェの土地を奪おうと押しかけてくる。これは異常な事態です。湖畔の大国コヤが力づくで他の小部族をその範疇に収めようとしているのかもしれません。我らを狙うあの一軍は、抵抗を試みて失敗したか、あるいは衝突を避けるために湖畔を逃げ出してきたのか」
「しかし、あのような規模の軍を集めることができるのならば、コヤに立ち向かうこともできよう」
「コヤはわれわれの想像を絶する規模の大国です。あのような規模ではとても太刀打ちはできないでしょう」
側近の言葉にチャナンは一瞬言葉を失くしたが、すぐに気を取り直し、全軍に向けて檄を飛ばした。
「敵の素性が分からずとも、目の前の敵を打破するのみ! 恐れずに突き進め!」
『地の女王』の言葉に、従う戦士たちが一斉に雄たけびを上げた。
キヌア率いる軍は、女王軍の先陣に立ち、真っ先に敵陣へと斬り込むこととなっていた。チャナンの懸念など他所に、キヌアはまた活躍の場が与えられたことを喜んでいた。
「ワスラン、敵将の位置に見当は付くか?」
「極めて模範的な隊形です。敵将は中央奥にただひとり、輿には乗っておらず、数人の兵士に護られる形で待機しております」
他の者が見れば、敵軍の姿は地平に沿うように張られた黒く細い帯のよう、しかも陽炎がときおりその影を歪める。遠目の効くワスランはそんな状態であっても、その編成までも細かく見極めることができるのだ。改めてキヌアは、この側近の驚異的な能力と的確な判断なしには、これまでの活躍は無かったのだということを実感する。
「分かった」
ワスランに頷いて、キヌアは自分に従う戦士たちに向き直り、声を張り上げた。
「雑魚は相手にするな。われらが狙うは中央の敵将ただひとり。敵に包囲される形となっても、一丸となって中央を狙うのだ。」
大地の果てまでも響き渡るような甲高い叫び声に、後ろに控える戦士たちがそれに応えるように地を震わせるような雄たけびを上げる。先陣のキヌア軍の声を聞いて、その後ろの『地の女王』の軍隊も一斉に声を上げた。
堰き止められた河が、堰を破って一気に流れ出すように、キリスカチェの戦士たちが怒涛の如く大地を駆け出した。




