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ケチュア族からは、婚礼に先立って様々な衣装や装飾品が送られてきた。かの部族ではどれも価値の高いものなのだろうが、キヌアの目には少しも魅力的に映らない。それ以前に、それらをどのように身につけていいのかが分からないのだ。
ティッカの育ての親である彼女の伯母はもうだいぶ高齢であった。ケチュア族の皇族であったというティッカの伯母の世話を長年してきた侍女が、これまで聞き及んだケチュア族の習慣や作法をキヌアに教えることになっていた。
侍女はまず、キヌアの固く編み込んだ髪をほどき、丁寧にほぐした。彼女の豊かな黒髪は編み込んでいないと大きく広がり、身体を覆ってしまうほどだ。それだけでもキヌアには鬱陶しく感じられるのだが、さらにこれまで身につけたことのないほど裾の長い衣を着せられた。精緻な模様が織り込まれた厚い布で仕立てられた衣は、彼女の動きのほとんどを奪ってしまう。いつも、いや歩き始めてこのかた、薄くなめした機能的な毛皮しか身につけたことのないキヌアにとって、それはまるで綱で体中を縛られたのと等しいくらいに窮屈なものだ。その上に、宝石を連ねた首飾りを何連も巻きつける。まるで高原の強風にも折れることのない丈夫なワヤカンの木にされてしまったかのようだ。こんな格好では前に一歩進むことすら容易ではない。
キヌアはただ髪型と服装を変えられただけで、もうすっかりまいってしまっていた。
「ねえ、どうやって動いたらいいの?」
侍女に尋ねると、年老いた彼女はキヌアが冗談を言っているのだと思ったらしい。「ほほ」と小さく笑ってまったく相手にしてくれないのだ。
キヌアの気持ちはすっかり萎えてしまっていた。
服装を整えればもうおしまいかと思いきや、それは教育のまだ序章に過ぎなかった。
歩き方から、礼の尽くし方、果ては視線を向ける方向まで、侍女はいちいち細かく指摘するのだ。息を吸うのも考えて行わなくてはいけないのじゃないかしらと、キヌアは溜め息とともに呟き、先のことを考えて眩暈を覚えた。
どんなに厳しい訓練を積んでも、生死を分かつような激しい戦いに臨んでも、決して尽きることのなかった彼女の体力は、たった数日ですっかり使い果たしてしまったようだ。相変わらず硬い布の束に巻かれたまま、キヌアは腑抜けのように侍女が言うままに動いていた。
「このままでは息が詰まってしまうわ」
『躾』が始まって三日経ったとき、キヌアは残る体力を振り絞ってある計画を決行することにした。侍女が女王に呼ばれて留守にしている間に、身に付けていたケチュア族の重い衣を脱ぎ、下着一枚になった。これまでキヌアが愛用していた毛皮の服はそこにはなかった。仕方なくその下着姿(薄く短い麻の貫頭衣)で、ほどいた髪も纏めずに部屋を飛び出した。そしてかつて暮らしていた自分の家を訪ねた。
家は、いまはティッカが管理していた。そのティッカはワスランに従って軍の訓練に参加しているので留守だった。キヌアは家の中を物色したが、もう彼女の持ち物は何も残っていない。仕方なくティッカの服を身に付け、手ごろな紐を探して髪を纏めた。
丁度家を出ようとしたところで、ティッカに出くわした。
「キヌアさま!」
ティッカは驚いて叫んだ。すぐあとに言葉を継ごうとしたティッカをキヌアが遮った。
「ティッカ! 黙って私と一緒に来て!」
キヌアは強引にティッカの手を引っ張ると、部落を下り、河畔に広がる広大な原へと導いていった。
そこは彼女の名の由来になった『キヌア』の畑だ。ちょうどその季節は、燃えるような赤紫の穂が大地を鮮やかに染めている。キヌアは速度を弛めずに、ティッカを引っ張って畑の中へと踏み入っていった。キヌアの穂は、ふたりの肩の高さで揺れている。ふたりの姿は夕陽に照らされた川面に浮かんでいるかのようだった。
畑の真ん中までやってきて、キヌアはティッカの手を離した。しかし、キヌアは前を向いたままティッカを振り返ろうともしない。そのまま、背中越しにティッカに語りかけた。
「むかし、お父さまは私に言ったわ。キヌア、われわれの命を育むこの大地は誰にも荒らされてはならない。ここを荒らそうとする者たちからこの土地を護ることがわれわれの大切な務めなのだ、と。
この高原は美しいわ。ほかのどの大地よりも。けれどそれは人が生き抜くには厳しいところ。だから湖の者たちも山の者たちも容易に近づくことはできないの。キリスカチェだけは、ここに生きることを神が赦してくださった。そしてささやかな糧を与えてくださったの。
私たちは細々とここに生きていられれば良かっただけなのに、周りの者たちはそんな私たちを羨んだ。そして唯一人が生きられるキリスカチェの土地を欲しがった。彼らから身を護るために、私たちは強くならなければいけなかった。ただ、この楽園を護るために。
しかし、強さを身につけた私たちを、また羨む者が出てきた。
人の欲は限がないわ。私たちは強さを身に付け、その強さを護るために、したたかさを身につけなくてはならないの。そしてまたそれを護るために、ちがう何かを身につけなくてはならないの。
大地の色は毎年変わることはないのにね」
キヌアは肩先に触れる紫の穂を手にして、頬に当てた。
キヌアを女王の館に引き戻さなくてはと焦っていたティッカは、キヌアの話を聞いて彼女に同情した。
「キヌアさま……」
そのまま掛ける言葉を失い、キヌアの背中を見つめていた。
この三日の間にキヌアは随分と華奢になってしまった。ティッカとはそれほど背丈の変わらないキヌアだが、将として軍を率いていく逞しいキヌアは、ティッカの目には何倍も大きく映っていた。その生き甲斐を取り上げられたいまのキヌアは、萎れて縮んだサボテンの花のようだった。
ティッカは思わずキヌアの身体を後ろから抱き締めた。そして彼女の背中に言った。
「ティッカもお供します。キヌアさまひとりで異国に行かせはしません。あちらの国でもずっと姫さまのお傍にいますから」
キヌアはティッカを振り返って怪訝な顔を向けた。
「でも、私がティッカも連れていきたいといっても、そんな我儘が赦されるわけはないわ」
「キヌアさま、ケチュアは義母の国なんです。直接血の繋がりがないといっても、私は育ててくれた義母の血が半分流れているつもりでいるんです。だから義母の代わりに故郷に帰るんですよ。それに、この一族でケチュアの言葉を話せるのは唯一私だけだと知っていますか? ケチュア族の習慣までは事細かく知らないので、今回の教育を任されることは無かったけれど、キヌアさまが言葉も通じない国で苦労しないようにお助けすることはできます。そう言えば女王さまだって納得されるはずです」
自信たっぷりに言ってはみたものの、これまでそう思いながら天の女王にそれを申し出る勇気はなかった。しかし、キヌアの孤独な後姿を見たときティッカは、どうしてもキヌアをひとりにするわけにはいかないと強く思ったのだ。
ティッカの言葉でこれまで打ちひしがれた様子だったキヌアが、元気を取り戻したようだ。キヌアのほうからティッカを抱き締めると「ありがとう」と叫んだ。それから身体を少し離してティッカの顔を覗きこむと、嬉々とした様子で言った。
「ねえ、二度と故郷に戻ることはできないんですもの! 今私に必要なのはケチュアの習慣を身につける事より、高原の風景を目に焼き付けておく事よね?」
ティッカは嫌な予感を覚えた。
「まさか、キヌアさま。また抜け出してくるつもりじゃないでしょうね」
ティッカの問いには答えず、キヌアは続けた。
「そうよ、ティッカ。貴女も戻ってくることはできないのよ。一緒に高原の空気を思いっきり吸っておきましょうよ!」
そのときティッカは、キヌアに同情して思わず余計な約束をしてしまった自分を悔やんだ。
ティッカが同行すると約策したことで、キヌアは途端に婚礼を前向きに受け入れられるようになったようだ。彼女の憂鬱は、故郷を離れることや戦士の立場を返上することよりも、孤独になることがいちばん大きい原因だったのだろう。
侍女の『教育』を熱心に受けるようになった一方で、たびたび侍女の目を盗んではティッカを伴って外へ抜け出した。戻ってきて女王の館が騒然としていても、キヌアはまったくお構いなしだ。まるで小さい子どもが母親の目を盗んで悪戯をすることを愉しんでいるかのようだ。キヌアが本気で婚礼を承知したのか分からない。彼女の奔放な行動は、かえって女王の不安を駆り立てた。
そんな日々が過ぎていった。キヌアがケチュアに向かう日も刻々と近づいていた。
その晩、キヌアはぐっすりと眠っていた。ときどき気晴らしをしてくるとはいえ、館に篭ってほぼ一日、これまでの彼女の行動を矯正する『躾』を受けていれば、体力を相当消耗する。いったん床に就けば朝まで目を覚ますことはほとんど無かった。
そのキヌアがそのときは、身体に異常な重みを感じて目を覚まさずにはいられなかった。自らの身体に大きな石が載っているようだ。腕を上げようとすれば、両腕も何かの重みで動かない。重たい瞼をなんとか開いてみると、暗がりの中で自分に圧し掛かってくる大きな黒い影が見えた。
―― ピューマ! ――
一瞬恐怖で全身が凍りつく。しかし眠気が覚めて頭が冴えてくればおかしなことに気づいた。ここは女王の館だ。周囲には高い壁が張り巡らされ、ところどころに獣避けの焚き火が焚かれている。そう簡単に大きな獣が入ってこられるはずはない。
考えを巡らせている間に、黒い影はキヌアの首筋にその顔らしきものを近づけて生暖かい息を吹き掛けた。
「誰?」
獣ではないと判断して、キヌアはその影に問い掛ける。案の定、影は低い声で応じた。
「どうか。お静かに……」
それだけ言って影は、今度は湿った唇をキヌアの首筋に這わせた。腕や脚に力を籠めようとしても、すでに影によって押さえ込まれている。動きを封じられて、かろうじて自由になる口でキヌアは叫んだ。
「いやああ。誰かーっ!」




