第5話:幽世の食卓と戻れぬ味
目の前に並べられたのは、見たこともないほどに透き通った、真珠のように輝く蕎麦の実。
そして、朝露をそのまま凝固させたような、冷ややかな白い果実。
幽世の食卓は、静謐で、どこか不自然なほどに清浄だった。
「さあ、食べなさい。これでお前の身体は、完全にこちら側のものとなる」
朔夜が差し出した銀の箸を見つめながら、私の脳裏に、不意に鮮明な記憶がフラッシュバックした。
(私は……ただの、女子高生だったはずだ)
九月の文化祭が終われば、本格的な受験シーズン。
進路希望調査票には、迷わず「東京の大学」と書いた。
銀の箸に映る自分の顔を見つめながら、私はかつての自分の愚かさを嘲笑った。
古臭い因習が残るこの村を、蕎麦の花の匂いが染み付いたこの土地を、一刻も早く抜け出したかった。
祖母が縁側で、あの掠れた声で「連れていかれるよ」と脅すたびに、私はわざと大きな声で言い返していたのだ。
「そんなの、ただの迷信だよ。おばあちゃん、時代遅れだってば」
——けれど。
本当は、知っていた。
毎年、九月の天気雨が降るたびに。
蕎麦の花が白く波打つ斜面の向こう、しゃらり、しゃらりと鳴る鈴の音を聞くたびに。
行列の中にいる「朔夜」と目が合うと、私の心臓は、逃げ出したい恐怖ではなく、まるで故郷に帰るような安堵で脈打っていた。
お面をずらして微笑む少年の瞳に、私は自分でも気づかないうちに「私を、ここから連れ出して」と願っていたのではないか。
それは都会への憧れでも、閉鎖的な村への嫌気でもなかった。
自分がいつかこの村を離れるのではなく、あの「九月の光景」が、永遠になればいいと望んでいたのだろうか。
「……何を思い出している」
朔夜の冷たい指が、私の頬をなぞる。
その感触は、あの日、畑の隅で隠れながら待ちわびていた「迎え」そのものだった。
「あの村の記憶か? それとも、捨てられぬ未練か」
私は、彼の指先に吸い付くように頬を寄せた。
もう、強がる必要はない。
私はあの行列を見るたびに、自分の進路が「東京」ではなく、この「彼の隣」であることを知っていたのだから。
「……いいえ。ただ、ずっと呼ばれていた気がしていただけです」
私の告白に、朔夜の三日月の瞳が、歓喜に、あるいは深い独占欲に濡れて歪んだ。
「そうだ、花耶。お前は生まれた時から、私の、私だけの唯一の伴侶なのだから」
彼は私の背後に回り、逃がさないように肩を抱くと、白い果実をひとつ、自らの指で私の唇に押し当てた。
「あの村へ戻る道は、もう泥の下に消えた。ここにしか居場所はないのだよ、花耶」
無理やりこじ開けられた口内に、冷たい果実が滑り込む。
噛みしめた瞬間、脳が痺れるような圧倒的な甘美さが弾けた。現世のどんな食べ物も、この一粒の芳香には及ばない。
本能が、この毒のような美味を求めて震える。
(ああ……。もう、あっちの味は思い出せない……)
その果実を飲み込んだ瞬間、村の味も、放課後のコンビニの味も、泥にまみれ最後に口にした土の匂いも。
すべてが「ひどく味気ない、遠い前世の出来事」のように色褪せていった。
「美味しいだろう? 絶望する必要はない。お前は、この世で最も尊い私の半身になったのだから」
朔夜の舌が、私の唇に残った果汁を掠め取る。
私はもう、「外の世界への希望」がどんなものだったか思い出せない。
代わりに芽生えたのは、この冷たくて美しい男と、もっと深く、もっともっと深く交わりたいと願うおぞましい渇望。
私は、自分から彼の指を追い、次のひと口を求めていた。




