第3話:千年前の種子(たね)、君という約束
何時間が経ったのだろうか。
あるいは、幾夜が過ぎ去ったのか。
もはや、幽世の停滞した時間の中では、刻を数える術など意味をなさない。身体の芯を貫くような衝撃が走るたび、私は逃げ場のない熱に浮かされては意識を失った。
だが、彼が私の名を呼ぶたびに、その声が呪文となって魂を現世の淵から引きずり戻すのだ。
意識が浮上しては、また彼の激しい拍動と同調し、溶かされていく。
何度も、何度も。
「……花耶」
不意に、耳元で私の名が、祈りのような切実さを持って囁かれた。
「花耶。……聞こえるかい」
その声は、これまでの冷徹な支配者のものではなく、どこか震えるような、孤独な獣の鳴き声にも似ていた。霞む視界を無理やりこじ開けると、そこには私を慈しむように覗き込む「彼」の顔がある。
その時だった。静寂に包まれた奥座敷に、襖の向こうから硬質な声が入り込む。
「朔夜様。そろそろ、お集まりいただかねばなりません」
その声に弾かれたように、彼が私から離れた。
繋がっていた熱が引き抜かれ、急激な喪失感に身を震わせる。
「さ……くや……様……?」
その名を、私は初めて知った。
あれほど深く、魂の髄まで交わり合ったというのに、私は彼の名前すら知らなかったのだ。
「ああ……。君が、ようやく私を呼んでくれた」
私の掠れた問いかけに、彼の三日月の瞳が歓喜に歪む。それは私を愛しているという告白よりも、もっと根源的で、恐ろしい充足。
「さあ、その唇で。……もう一度、私の名を呼びなさい」
彼は、私の震える指先を一本ずつ愛おしむように口に含むと、期待に満ちた眼差しで私の答えを待った。
喉の奥は枯れ果て、声の出し方さえ忘れかけていたけれど。私の魂に深く刻み込まれた彼の「真名」が、本能のように唇を突き動かす。
「さく……や……」
ようやく紡いだ一言に、彼は満足げな溜息を吐き、私の額に優しく口づけた。
その安堵とともに、急激な倦怠感が波のように押し寄せる。重い瞼を支えきれず、私は深い、深い眠りの淵へと沈んでいった。
重い瞼の裏側で、暗闇がゆっくりと形を成していく。
これは、ただの夢だろうか。
それとも、誰かから聞いた遠い記憶なのだろうか。
夢の中で、私は知らないはずの村の過去を見ていた。
まだ蕎麦の花も咲いていない、痩せた土地。追われた落人たちが、飢えに沈んでいた頃の村を。
そこは、呪われたように痩せ細り、何を作付けても芽吹くことのない不毛の土塊だった。尊き者も、貧しき者も関係なく、飢えという名の死が平等に奪い去る。村が静かな死を待つのみとなった、ある嵐の明けた朝のこと。
絶望の底にいたひとりの村の女の子の前に、一匹の真っ白な狐が現れた。
狐は、その口に一房の「蕎麦の花」を咥えていた。
穢れを知らぬ白き花を少女に託すと、狐は霧の中に消えていった。少女がその種を慈しみ、不毛の土に植えると、奇跡は起きた。
死の土地だったはずの畑一面に、雪のような蕎麦の花が咲き乱れ、飢えに苦しむ村に初めて「光」を与えたのだ。
その時から、この蕎麦の実は他の村で植えても決して根付かず、この村でしか獲れぬ「魂を繋ぐための糧」となった。
(……あの一面の蕎麦の花。山肌に段々と積み上がる畑。私の知っている、村の光景だわ)
私は夢の中で、一面に広がる蕎麦の白さを眺めていた。
おばあちゃんとの記憶。
小さなお稲荷様の祠。
蕎麦の花が咲けば、意味もわからず手向けに行った幼い日の記憶。
祠の前には、あの時と同じ白い狐の石碑。
そして、その横には——。
(あそこには……いくつも、小さな祠があったはず)
これまで疑問にも思わなかった、無数の名もなき祠。
幼い私は、それをただの「神様のお家」だと思っていた。
けれど、今、幽世の微かな光に照らされた夢の中で見つめると、それはまるで、何かを閉じ込めているようにも、何かを供えているようにも見えた。
『この村の女の子は、連れて行かれてしまう』
おばあちゃんの震える声が、耳の奥で響いた。
(あの祠は、一体なんだったのだろうか……)
なぜ、あんなにたくさん、寄り添うように並んでいたのだろうか。
あの花を受け手ってから、静かに積み上げられてきた「何か」。
答えに手が届きそうな瞬間、意識は再び深い闇へと溶け、私は本当の眠りへと落ちていった。




