滲む黒
感想で矛盾点を指摘いただいたので、そこを修正し、ほかにも加筆修正しました。
旧版も後に残しています。
その現象が始まったのは、梅雨の長雨が街を灰色に塗り潰し始めた頃だった。
私は大学に合格し、都心からこのアパートに越してきて一週間。コンクリートの箱に閉じ込められたような孤独感は、窓の外で絶え間なく続く雨音によって増幅された。部屋の中は、飽和した湿気で満ちていた。
きっかけは、レポート課題に取り組んでいた深夜、ふと顔を上げた時に聞こえた、微かな音だ。
ごぽ…、きゅるる……。
雨音の向こう、キッチンのシンクに繋がる壁の内側で、何かが蠢いている。古い配管を水が流れる音だろうか。いや、違う。それにしては不規則で、粘り気がありすぎる。まるで、建物の内壁と外壁の僅かな隙間を、水分をたっぷり含んだ軟体動物が這い回るような、湿った摩擦音。それは日によって場所を変えた。ある日は天井の隅で、またある日は、クローゼットの奥で、確かに音を鳴らしていた。
「典型的な聴覚過敏。環境の変化と孤独感が、無意味な環境音を脅威として誤認させている」。伊達に心理学を専攻しているわけじゃない。私はノートの隅にそう走り書きし、震える指先で活字をなぞった。不安を言語化し、客観的に分析すれば、それはただの「事象」になる。恐怖は、私がコントロールできる感情のはずだった。
次に現れたのは、視覚的な異常だった。
北側の壁、ベッドの真横にあたる部分に、黒い染みが現れたのだ。最初は小指の先ほどの、うっかりインクを飛ばしたような点だった。それが三日で手のひら大にまで広がった。カビとは違う。それはまるで、上質な和紙に墨汁を一滴落とした時のような、有機的な輪郭を持っていた。この部屋の淀んだ湿度を吸って呼吸でもするかのように、その縁は僅かに揺らめいているように見えた。
「パレイドリア効果よ」。私は染みに触れようとして、そのぬるりとした予期せぬ冷たさに、寸前で指を引いた。「不定形な模様から、脳が勝手に意味やパターンを見出そうとする心理現象」。これもまた、私の脳が作り出した錯覚に過ぎない。
そう合理的な理由を並べ立てても、背筋を這う悪寒は、常にじっとりと湿ったシャツのように肌に張り付いて剥がれなかった。部屋の空気は、単なるカビ臭さではない、沼底のヘドロが発するような、生命の死んだ匂いを帯び始めている。蛇口から出る水でさえ、微かに泥の味がする気がした。
決定的な変化は、空に穴が空いたかのような豪雨が続き、世界の彩度が失われて一ヶ月が経った頃に訪れた。建物の隅々まで染み込んだ湿気が黴の胞子を運び、息をするのも億劫な日の夕方。軋む階段の踊り場で、天井から滴る雫をぽつり、ぽつりと受ける錆びたバケツを、隣の部屋の老婆がじっと見下ろしていた。
私の足音に気づいた彼女は、まるで水底から顔を上げるように、ゆっくりと振り返る。
「お嬢さん、二〇三号室のかい」。老婆の声は、湿った土くれが擦れるような音だった。
「はい、そうですけど」
「夜、気にならないかい。水が囁くような音とか…誰かに見られてる気配とか…」
その言葉に、心臓が氷の手に掴まれたように冷たくなった。「…少しだけ」。平静を装って答えると、老婆は濁った目で私を射抜くように見つめた。
「前の人たちも、そう言ってたよ。『水に呼ばれてる』ってね。だんだん口数が少なくなって、物を見ない目つきになって…。ある日突然、いなくなるんだ。まるで、水に溶けて、滲んで、消えちまったみたいにさ」
老婆はそれだけ言うと、錆びたバケツには目もくれず、再び水底に沈むように、ゆっくりと部屋に戻っていった。
その夜から、怪異は私を侵食し始めた。
壁の染み。それは最早、見間違いようのない人の形をとっていた。水底から水面を見上げる、痩せ細った男の顔。その虚ろな目が、じっとりと私を捉えて離さない。
「パレイドリア…錯覚…ストレス…!」
カタカタと震える唇から、意味をなさない専門用語がこぼれ落ちる。もう限界だった。私は部屋を飛び出し、しばらくさまよった後に公園のベンチに座った。震える手でスマホを開き、憑かれたように検索を始める。この土地の名、住所、過去の事件。
そして、私は一つの記事にたどり着いた。五十年前の、地方新聞の小さな記事だ。
『沼地にて、画家の遺体発見』
私のアパートが建つこの場所は、かつて「硯ヶ沼」と呼ばれる沼地だった。そして五十年前、一人の水墨画家が、その沼で水死体となって発見された。画家は生前、沼に異常なほど執着し、「水そのものを描きたい」のではない、「水に成りたい」のだという狂気を語っていた。彼の作品は、墨の濃淡だけで描かれた沼の風景画ばかりだったが、そのどれもが鑑賞者に強い不安感を与える、不気味なものだったと記されている。
「これだ…画家の霊…」。一瞬、そう思った。だが、その考えはすぐに、より深い恐怖によって塗り潰された。記事に添えられた、彼の作品の不鮮明な写真。そこに描かれていたのは、岸辺から沼を「観察」する視点だった。水面から突き出す無数の手。絶望的に空を掻く手。彼の絵には、水に対する圧倒的な恐怖と、それを克服しようとする狂気があった。
――違う。
私の部屋の壁の染みは、そんな絶望の叫びじゃない。恐怖も抵抗もなく、ただ静かに、溶けて、混ざり合い、一つになっていく過程そのものだ。
では、壁のあれは、一体「誰」が描いたものなんだ?
偽りの安心さえ許されず、突き放された絶望が全身を叩きのめす。あれは画家の霊なんかじゃない。もっと別の、得体の知れない何かが、この部屋には巣食っている。
パニックに陥りかけた頭で、私はある悍ましい可能性に行き着いた。
――画家は、「水に成りたい」と言っていた。
――前の住人たちは、「水に溶けちまったみたいに」いなくなった。
点と点が繋がり、一つの線を結ぶ。壁の染みは、画家が「描いた」ものではない。硯ヶ沼という存在が、取り込んだ人間を「絵の具」として、その命の記憶を滲ませているのだ。画家は霊になったのではない。沼という巨大なカンバスに吸収され、その一部と成り果てた姿そのものなのだ。
そして今、この終わらない梅雨の湿気を拠り所に、かつての沼が「染み出して」きている。次の「絵の具」を、私を、探している。
部屋に戻るべきではない。頭では分かっている。なのに、私の足はアパートへと向かっていた。一歩踏み出すごとに、足裏から冷たい水が吸い上げられてくるような錯覚。違う、これは錯覚ではない。硯ヶ沼が、私の内側から「帰ってこい」と囁いているのだ。自分の体が、もはや自分のものだけではないという悍ましい感覚が、私を支配していた。
壁の染みは、壁一面に広がっていた。巨大な一枚の水墨画。そこには、痩せこけた画家の顔に加え、腰の曲がった老婆のような影、そして幼い子供のような人影までが描き加えられていた。歴代の住人たちの成れの果てだ。彼らは皆、水の中から、静かに、何も映さない瞳で、こちらを見ていた。そして、その絵の中から、微かに音が聞こえた。ごぽ、きゅるる……。よく聞けば、それは無数の人間が水中で喘ぎ、泡を吐き出す音の集合体のようだった。
ごぼり、と床から音がした。
見下ろすと、フローリングの合わせ目から、黒い液体が染み出している。それは床の木目を血管のように伝い、直接投げつけられた一滴の墨汁のように、同心円状にじわじわと広がっていく。
「嫌…」。後ずさろうとするが、足がコンクリートに固められたように動かない。
黒い液体は、生き物のように私の足首に絡みつき、氷のような冷たさで皮膚を侵食し始める。
「これは極度のストレス下で見る幻覚症状…心的外傷のフラッシュバック…防衛機制の破綻…!」。必死で、覚えたての知識を盾にする。恐怖の正体を言語化すれば、支配権を取り戻せるはずだ。これは私の心が作り出した幻だ、と。
私は目を見開き、目の前の恐怖を「否定」した。黒い液体を睨みつけ、「これは水! これはインク! これはただの染み!」と絶叫する。
その瞬間、足首の拘束が僅かに緩んだ。
私はその一瞬、床を蹴り、もつれる足で玄関へと走る。ドアノブに手をかけた瞬間、背後でごぼりと水音が膨れ上がり、黒い津波が私を呑み込もうと迫る。悲鳴を上げながらドアを開け放ち、廊下へと転がり出た。
バタン、と背後で閉まったドアの隙間から、どろりとした黒い液体が僅かに溢れ、そして静かに内側へと吸い込まれていった。
後日、私は大学を休学し、アパートを解約して実家に戻った。荷物はすべて処分した。あの部屋で起きたことは、長引く梅雨とストレスが見せた悪夢だったのだと、無理やり自分を納得させた。
私は助かった。行方不明にもなっていない。日常は戻ってきた、はずだった。
しかし、日常の些細な亀裂から、あの沼は滲み出してくる。
雨の日、私は傘をさすことができない。アスファルトに落ちて滲んでいく雨粒の一つ一つが、あの部屋の染みに見えてしまうからだ。
風呂に入るたびに、排水溝に吸い込まれていく自分の髪が、一瞬だけ黒いインクの流れに見える。
鏡に映る自分の瞳の奥に、ふと水紋が走った気がして、二度見することもある。
私は、これらはすべて心的外傷のフラッシュバックなのだと、最後の理性を総動員して自分に言い聞かせていた。気づかないふりをしていた。
決定的な出来事が起きたのは、ある朝のことだった。コーヒーをテーブルにこぼしてしまったのだ。
慌てて拭こうとして、私は凍り付いた。テーブルに広がった茶色い染みが、ゆっくりとその形を変え、あの壁に浮かんでいた顔になろうとしているのを、はっきりと見てしまったのだ。
私の恐怖に、周囲の液体が呼応する。
私は助かったのではない。あの部屋から脱出したのではない。
あの夜、ドアノブに手をかけた瞬間、硯ヶ沼は私の中に染み込み、共に越してきたのだ。
私はこれから、私自身の内側で静かに広がり続けるこの黒い沼と、一生付き合っていかなくてはならない。
少しずつ、私の内なる沼はその水嵩を増していく。
涙を流すと、それが僅かに黒ずんでいるような気がする。いや、もはや、気がする、ではない。私の流す涙は、あの沼と同じ色をしていた。
いつか、この沼が私の意識をすべて満した時、私は、私の瞳の奥から、静かに世界を「見上げる」だけの、ただの景色になるのだろう。
そして今も、私自身の体の中から、あの音が聞こえる。
ごぽ…、きゅるる……。
私の瞳は、もう水面なのだから。
※旧版
その現象が始まったのは、梅雨の長雨が続く頃だった。大学に合格し、都心から少し離れたこの格安アパートに越してきて一週間。窓の外では絶え間なく雨が降り、部屋の中は脱いだシャツが一日では乾かないほど、じっとりとした湿気に満ちていた。
きっかけは、レポート課題に取り組んでいた夜に聞こえた、微かな音だ。
ごぽ…、きゅるる…
雨音に混じり、キッチンのシンク辺りの壁の内側から聞こえてくる。古い配管を水が通る音だろうか。いや、それにしては不規則で、まるで構造体の隙間を何かがゆっくりと這い回るような、湿った摩擦音だった。日によって聞こえる場所も変わる。ある日は天井の隅から。またある日は、クロー-ゼットの奥から。
「典型的な聴覚過敏ね。梅雨のうっとうしさと環境の変化が、意味のない環境音を不気味なものとして誤認させている」。伊達に心理学を専攻したわけじゃない。私はノートの隅にそう走り書きし、自分に言い聞かせた。不安を言語化し、客観的に分析すれば、それはただの「事象」になる。恐怖はコントロールできる感情のはずだった。
次に現れたのは、視覚的な異常だった。
北側の壁、ベッドの真横にあたる部分に、黒い染みが現れたのだ。最初は小指の先ほどの大きさだったものが、三日で手のひら大にまで広がった。湿っぽく、じわりと滲んだそれは、この部屋の飽和した湿度を吸って呼吸でもするかのように、僅かにその輪郭を揺らめかせているように見えた。
「これも湿気のせい。パレイドリア効果よ」。私は染みを指でなぞろうとして、そのぬるりとした冷たさに寸前で手を引いた。「不定形な模様に、脳が勝手に意味やパターンを見出そうとする心理現象」。これもまた、私の脳が作り出した錯覚に過ぎない。そう合理的な理由を並べても、背筋を這う悪寒は、湿ったシャツのように肌に張り付いて消えなかった。
決定的な変化が訪れたのは、空に穴が空いたかのような雨が続き、世界の彩度が失われて一ヶ月が経った頃だった。建物の隅々まで染み込んだ湿気がカビの匂いを運び、息をするのも億劫な日の夕方。カビ臭い階段の踊り場で、天井から滴る雫をぽつり、ぽつりと受ける錆びたバケツを、隣の部屋の老婆がじっと見下ろしていた。
私の足音に気づいた彼女は、まるで水底から顔を上げるようにゆっくりと振り返る。皺だらけの顔で、私を見上げてきた。その瞳は、濁った水たまりのように静かだった。
「お嬢さん、二〇三号室のかい」。皺だらけの顔で、私を見上げてくる。雨の匂いがした。
「はい、そうですけど」
「夜、うるさくないかい。水音とか…人の気配とか…」
その言葉に、心臓が氷の手に掴まれたように冷たくなった。「ああ、まあ、少しだけ」。平静を装って答えると、老婆は目を細めた。
「前の人も、そう言ってたよ。水に呼ばれてる、ってね。だんだん口数が少なくなって、物を見ない目つきになって…。ある日突然、いなくなっちまった。まるで、水に溶けちまったみたいにさ」
背筋に冷たい釘が打ち込まれる。「不安の伝染」だ。私の理性が警鐘を鳴らす。「他者の恐怖体験が、自身の曖昧な不安を具体的な恐怖へと増幅させる現象」。しかし、頭でいくら否定しても、老婆の言葉は、この梅雨の空気のように粘り気を帯び、思考にまとわりついた。
その夜から、怪異は剥き出しの敵意を以て私を侵食し始めた。
水の音は壁の中を蠢き、まるで耳元で誰かが囁いているかのように、私の名前を呼ぶ幻聴に変わった。そして壁の染み。それは明らかに人の形をとっていた。やせ細り、水底からこちらを見上げる横顔。虚ろな目が、じっとりと私を捉えて離さない。
「パレイドリア…錯覚…ストレス…」
カタカタと震える唇から、意味をなさない専門用語がこぼれ落ちる。もう限界だった。私はコートを掴むと部屋を飛び出し、夜通し開いているカフェに駆け込んだ。震える手でノートパソコンを開き、憑かれたように検索を始める。地名、住所、過去の事件。
そして、私は一つの記事にたどり着いた。五十年前の、地方新聞の小さな記事だ。
『沼地にて、画家の遺体発見』
私のアパートが建つこの場所は、かつて「硯ヶ沼」と呼ばれる沼地だったという。そして五十年前、一人の水墨画家が、その沼で水死体となって発見された。画家は生前、沼に異常なほど執着し、「水そのものを描きたい」「水と一体になりたい」という狂気を語っていた。彼の作品は、墨の濃淡だけで描かれた沼の風景画ばかりだったが、そのどれもが鑑賞者に強い不安感を与える、不気味なものだったと記されている。
「これだ…画家の霊…」。一瞬、そう思った。しかし、その考えはすぐに恐怖によって塗り潰された。記事に添えられていた、彼の作品の不鮮明な写真。そこに描かれていたのは、岸辺から沼を「観察」する視点の絵だった。水面から突き出す無数の手。絶望的に空を掻く手。彼の絵には、水に対する圧倒的な恐怖と、それを克服しようとする狂気があった。
――違う。
私の部屋の壁の染みは、そんなものじゃない。あれは、水の中から、岸を、空を、静かに「見上げる」視点だ。恐怖も絶望もない。ただ、そこにあるものとして、景色を写し取っている。
では、壁のあれは、一体「誰」が描いたものなんだ?
偽りの安心さえ許されず、突き放された恐怖が全身を叩きのめす。あれは画家の霊なんかじゃない。もっと別の、得体の知れない何かが、この部屋にいる。
パニックに陥りかけた頭で、私はある悍ましい可能性に行き着いた。
――画家は、「水そのものを描きたい」と言っていた。
――前の住人は、「水に溶けちまったみたいに」いなくなった。
点と点が繋がり、一つの線を結ぶ。壁の染みは、画家が「描いた」ものではない。これは、かつてそこにあった硯ヶ沼という存在が、画家を「取り込んで」見せた、記憶の景色。彼は霊になったのではない。沼という巨大な存在に吸収され、その一部になったのだ。絵の具のように、沼に溶かされたのだ。
そして今、この梅雨の湿気を拠り所に、かつての沼が「染み出して」きている。次の「絵の具」を、私を、探している。
部屋に戻るべきではない。分かっているのに、何かに引かれるように、私はアパートへの道を歩いていた。激しい雨がアスファルトを叩いている。部屋のドアを開けると、外の雨と呼応するかのように、むわりと濃密な湿気が肌にまとわりついた。
壁の染みは、壁一面に広がっていた。巨大な一枚の水墨画。そこには、やせ細った神経質そうな横顔に加え、腰の曲がった老婆のような影、そして幼い子供のような人影までが描き加えられていた。歴代の住人たちの成れの果てか。
ごぼり、と床から音がした。
見下ろすと、フローリングの合わせ目から、黒い液体が染み出している。それは床に直接投げつけられた一滴の墨汁のように、同心円状にじわじわと広がっていく。
「嫌…」。後ずさろうとするが、足がコンクリートに固められたように動かない。
黒い液体は、生き物のように私の足首に絡みつき、氷のような冷たさで皮膚を侵食し始める。
「これは極度のストレス下で見せる幻覚症状…心的外傷のフラッシュバック…防衛機制の破綻…!」。必死で、覚えたての知識を盾にする。恐怖の正体を言語化すれば、支配権を取り戻せるはずだ。これは私の心が作り出した幻だ、と。
私は目を見開き、目の前の恐怖を「否定」した。黒い液体を睨みつけ、これは水だ、これはインクだ、これはただの染みだ、と心の中で唱えながら大声で絶叫する。
その瞬間、足首の拘束が僅かに緩んだ。
私はその一瞬の隙を逃さなかった。床を蹴り、もつれる足で玄関へと走る。ドアノブに手をかけた瞬間、背後でごぼりと水音が膨れ上がり、黒い津波が私を呑み込もうと迫る。悲鳴を上げながらドアを開け放ち、廊下へと転がり出た。
バタン、と背後で閉まったドアの隙間から、どろりとした黒い液体が僅かに溢れ、そして静かに内側へと吸い込まれていった。
後日、私は大学を休学し、アパートを解約して実家に戻った。荷物はすべて処分した。あの部屋で起きたことは、長引く梅雨とストレスが見せた悪夢だったのだと、無理やり自分を納得させた。
私は助かった。行方不明にもなっていない。日常は戻ってきた。
しかし、雨の日、私は傘をさすことができない。アスファルトに落ちて滲んでいく雨粒の一つ一つが、あの部屋の染みに見えてしまうからだ。
風呂に入るたびに、排水溝に吸い込まれていく自分の髪が、黒い水の一部となって沼に還っていくような錯覚に陥る。
そして、ある朝、コーヒーをテーブルにこぼしてしまった。慌てて拭こうとして、私は凍り付いた。テーブルに広がった茶色い染みが、ゆっくりとその形を変え、あの壁に浮かんでいた横顔になろうとしているのを、はっきりと見てしまったのだ。
私の恐怖に、周囲の液体が呼応する。
私は助かったのではない。あの部屋から脱出したのではない。
あの夜、ドアノブに手をかけた瞬間、硯ヶ沼は私の中に染み出し、共に越してきたのだ。
私はこれから、私自身の内側で静かに広がり続けるこの黒い沼と、一生付き合っていかなくてはならない。
少しずつ、私の内なる沼はその水嵩を増していく。いつか、この沼が私の意識をすべて満たした時、私は、私の瞳の奥から、静かに世界を「見上げる」だけの、ただの景色になるのだろう。