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蛇神様の花嫁

作者: 佐倉 明
掲載日:2026/02/13

 日和(ひより)は採りたてのあけびを祠にお供えして、手を合わせた。


「今年も日照りも水害も無しでお願いします!」


『あけび一つの願いにしては、強欲ではないか?』


 からかうような声が頭の上から降ってくる。日和が顔を上げると、祠の上に白い水干姿の男が胡座をかいている。


『酒は無いのか』


「私に用意できる限界でして……」


『なんだ、まだイジメられているのか』


白露(しらつゆ)様、イジメられている訳では」


『この所、皆随分羽振りが良さそうなのに』


 ニヤニヤ笑いながら村を見下ろしている白露が果たしてどこまで知っているのか分からず、日和は曖昧に笑って誤魔化した。

 日和の住む村は、谷あいにあるごくわずかな平地に身を寄せ合って暮らす小さな村である。村の真ん中を一筋の川が流れており、昔から水路を整備して米を作り、川を使って下流に木材を売って生計を立ててきた。

 大雨が降ると、下流ではよく氾濫しているらしい。らしい、というのは日和には随分と遠い話で、他の人々が噂しているのを聞いただけだからだ。

 お国のお偉方はこの暴れ川にダムを建設することを決定した。丁度、村が沈む程度の下流が予定地である。十分な補償を受けて移転することができる、という説明があり、村を離れたくないと落ち込む老人らと、都会へ出る軍資金だと浮かれる若者らに二分されている。

 白露を祀る祠も高台にあるとはいえ、村一帯が沈むとなれば無事とは限らない。しかし、祠を移さないといけないのかどうか、日和には分からない。

 ダムに沈む話が決まってから、引っ越しするならどこだとか、頼れる親類がどこにいるとか、そんな話は何年も続いている。皆自分の身の振り方を考えるのに汲々としていて、白露の祠の事は忘れている。村の方に神社もあるので、そちらは神主様が何とかするという話だったが。


『まあ、日和の仲間外れは何時ものことか』


 白露はそう言って消えたので、日和はほっと胸を撫で下ろした。

 坂を降りて泉谷の家に向かう。この辺りで一番大きなお屋敷で、日和は両親が死んだ六歳からこの家の使用人をしている。


「日和、どこほっつき歩いてたの!

 夕餉の支度はどうしたの」


 険しい顔の奥様が、蔵の整理をしている男衆に指示を出しつつ怒鳴る。


「蛇神様の祠のお世話に」


「そんなのほっときゃ良いんだよ。

 それより、さっさと準備しな」


「はい、ただいま」


 井戸で手を洗って、急いで厨に入る。先に支度を始めていた他の使用人からの視線が痛いが、昨年亡くなった先代様から言いつけられているのでまるっきり無視もできない。

 先代様は、日和が泉谷の家に来たときからお爺さんだった。日和の最初の仕事は、先代様の身の回りの世話と話し相手だった。先代様が暇つぶしに字を教えるなど、寺子屋の真似事をしてくれたので日和も人並みに読み書き算盤ができる。その先代様の日課が、白露様の祠のお世話だったのだ。


「この村を昔っから守って下さっているのだ。

 大事にせんとなぁ」


 そう言って、掃除とお供えを欠かさなかった。

 その先代様の足腰が弱って、日和が一人で掃除を始めた十歳くらいの頃だった。祠の前に白い水干姿の青年が立っていた。


「誰?」


 驚いた日和は声をかけたが、声をかけられた青年の方がもっと驚いていた。白露は初対面から自分がこの祠の主で、名は白露と名乗った。さすがに、それを丸ごと信じられなかったが、白露はそれも当然と頷いた。

 信じるに至ったのは、先代様の体調がすこぶる良くて祠に久々に出向いたときのことである。来るだけで肩で息をする先代を木陰の岩に座らせて、介添えの日和は掃除をして、お花とお供えをとりかえた。いつも多弁なはずの白露は珍しく喋らず、祠の奥の木にもたれていた。


「白露、先代様にご挨拶しないの」


 日和が話しかけると、白露は顔を顰めた。


「日和、そこに誰かいるのかい」


 先代様は持ってきた水筒を手に、目を眇めてこちらを見ている。


「はい、ここに――…」


『阿呆。

 万人が私を見られる訳ではない』


 そう白露に言われて、先代様がどう頑張っても白露を目視できないようだったので、日和はようよう彼を神様だと認めたのだった。そして同時に、先代様から白露の祠のお世話を託されたのだ。

 そんな思い出に浸っているうちに夕餉の支度が終わり、泉谷家の人々の御膳を古株の使用人が運んでいく。蔵の整理を手伝っていた男衆の分を、未婚の者らがいそいそと運ぶ。日和は残りの、厨で食べる使用人らの食事を準備した。

 会話もなく黙々と食べ、片付けをしてから使用人らにあてがわれている離れの相部屋に下がる。


(ここは今日は静かだな)


 年頃の使用人の2人部屋だが、日和の相方もお隣の2人も今日はまだ居ない。寝支度をしていると、襖の向こうから「日和」と呼ぶ声がした。


「玄一郎様、何か」


「やっぱりお前は宴会に出なかったのか」


 嫡男の玄一郎は呆れたような声で、大きなため息まで聞こえた。

 時間も時間で中に招く訳にもいかないので、日和が廊下に出ると玄一郎は縁側に座っていた。盛り上がっているのか、遠くから笑い声が聞こえる。


「お幸や花江は連れ合いを探しに出たのに、お前は良いのか」


「私にはまだ早いかと」


「もう十六になるのにか」


 耳が痛い。しかし、身寄りもない日和を嫁にしたい男は居ないだろう。

 これでも、玄一郎は真面目に日和を心配してくれているのは知っている。先代様のところによく遊びに来ていて、小さい頃から日和の事を気にかけてくれている。


「私の事よりも、玄一郎様こそ何をしているのですか。

 誉子様という許嫁がおられるのに外聞が」


 仕返しに日和がそう言うと、玄一郎は笑った。


「あちらは家の蔵の中身にしか興味が無いだろう」


「ですが」


「おお怖い、日和まで母様のようなことを言うようになったのか。

 こっそり酒まで貰ってきてやったのに」


 玄一郎は持っていた水筒を日和との間に置いた。日和は玄一郎の様子を確認しつつ、栓を抜いて匂いを確かめる。


「……ありがとうございます。

 白露様にお酒がお供えできそう」


「爺様もそう仰っていたからな。

 遅くに邪魔したな」


 玄一郎はすっくと立ち上がり日和の頭を雑に撫で、母屋へ続く廊下ではなく庭の方へ歩いていった。

 翌日、日和は玄一郎から貰った酒を持って白露の祠に向かった。良いお供えを持っていくときは大抵姿を現すが、その日は酒をお供えしたにも関わらず声すら聞こえなかった。

 それからしばらく、白露は姿を見せなくなった。そういう事は今までも度々あった。友人に会いに行ったとか、寄り合いがあったとか、戻った白露はそんな事を言いながら土産話を聞かせてくれる。

 その日はお供えに出来る物が見つからず、祠の周囲の草引きをしていると、白露が久しぶりに姿を見せた。


『いや、思ったより随分かかって、疲れた疲れた』


 祠の前の階段に座り、脚を前に投げ出す。その姿は今までの見慣れた水干姿ではなく、立派な狩衣に変わっている。


「おかえりなさい。

 今回はどちらまで?」


『二つ山を越えた先の主様の所だ。

 頑固な爺様の相手は疲れる。

 折角の酒のお供えも、ゆっくり味わえなんだ』


 ここに居なかったのに届いたのか、と驚く。


『日和に一つ頼みがある。

 社をこの獣道を登った先の洞の中に移してくれんか。

 そこなら頑固爺と話がしやすくてな』


「祠を、ですか。

 でも、何か祝詞とか神主様に――…」


『いらんいらん!

 お前が言うので全然良い。

 とびきり簡単なのを考えておくから、お前は後に続けて言うだけで形は整う』


 白露の提案に、日和は内心安堵した。祠がダムに沈むかもしれないと思っていたが、白露が指定した場所であれば問題は無いだろう。


「稲刈りが一段落してからでも?」


 幸い、白露の祠は大きくない。背負子があればなんとか運べるだろう。


『良い。

 無茶を言うては日和がまたイジメられてしまうからな』


 白露は意地悪そうに笑って言った。

 それから、稲刈りが一段落した頃合いで泉谷の家の使用人らが広間に集められた。皆の前で、旦那様が渋い顔で口を開いた。


「泉谷家は分家を頼って山を下りる」


 分家というと、下流で木材の卸をしていたっけ、と日和は記憶をたぐり寄せる。ダムのせいで木材を切り出すのも難しくなるが、分かってからしばらく経つので、何とかなるよう準備してきたのだろう。玄一郎の許嫁も、下流の街の商家の娘だった気がする。

 分かっていた事ではあるが直接伝えられるとソワソワするもので、これから一年でどうするか、という話題で皆が盛り上がっている。同室のお幸は嫁ぎ先を見つけたらしく、春には出ていくらしい。


(私には関係無かったな)


 日和はそんな事を思いながら納屋に入った。とやかく言われないような、古い背負子を探す。


「どうした」


 暇だったのか、玄一郎が納屋を覗いて声をかけてくれた。


「ちょっと背負子をお借りしたいのです」


「何か運ぶような話はあったかな」


「祠を少し高台へ」


 白露からの依頼で、とは言えないが。


「手伝おう、日和一人では酷だ」


 玄一郎がそう言ったので、しっかりした背負子と握り飯の弁当まで用意された。


「別に玄一郎が手伝わなくっても」


 奥様は困り顔ではっきりそう言ったが、玄一郎は「爺様が大切にしていた祠だから」と断っていた。

 久しぶりに一人きりではなく祠への道を歩く。背負子は玄一郎の背にあるし、日和の荷物は弁当くらいである。


「お手を煩わせて」


「良いんだ、祠にお参りするのも久しぶりだし」


 泉谷の長男が歩いているので、いつもは日和には見向きもしない村人らがあいさつしてくれる。玄一郎はにこにことそれに返事をして歩くので、随分賑やかだ。

 坂道を登って祠に到着すると、白露は不満げな顔で、胡座の姿勢で宙に浮いていた。


「ご神体は一度お出ししようかな」


「玄一郎様、一応祝詞も聞いてきましたので先にそちらを」


 早速作業に取り掛かろうとする玄一郎を慌てて止めて、祠を取り囲むように植えられた榊を一枝切る。


『では、始めるか』


 気だるげな白露の前で日和は榊を捧げ持ち、白露の後に続けて祝詞を唱える。


『畏み畏み――…』


「かしこみかしこみ」


 正直、何を言ってるのかは分からない。長い呪文を唱え終えて、日和は顔を上げた。


「すごいな、日和は。

 覚えるのは大変だったろう」


 玄一郎は素直に驚いている。褒めてもらって嬉しいが、ただ復唱しただけなので恥ずかしい。


「さあ、お引越しですよ」


 ご神体の鏡は布に包んで大切に懐にしまい、他の割れ物も布にくるんでから風呂敷で日和が背負う。祠の外側は玄一郎と背負子になんとか乗せて、玄一郎を前にして坂道をゆっくり登る。


『この家は、二代続けて気に食わん』


 白露が日和の頭上に浮かびながら、ブツブツと文句を垂れている。それに返事することはできないので口をつぐんでいるが、涼しくなってきたのに汗を拭いながら歩く玄一郎を見ていると、日和一人での引っ越しは厳しかったと思いつつ祠を支えた。


「日和、どこまで登るんだ」


 少し平らな場所で一息つきながら、玄一郎は額の汗を拭う。


『もう少しだ』


「もう少しです。

 すみません、玄一郎様にこんな重労働を」


 日和が持っていた水筒を渡すと、玄一郎は美味そうに飲んだ。


「何、このくらい。

 他の誰も手伝ってはくれんだろうし」


 玄一郎の言葉に、日和は苦笑した。祠を移したいと言って、日和の頼みを聞いてくれる人は確かにいないだろう。

 もう少し、という白露の言葉は嘘では無かったらしく、2度折り返した所で山肌に祠を安置するのに丁度良さそうな窪みがあった。


『ここだ、ここだ』


 白露が嬉しそうにその窪みに座る。


「ここか、うん、丁度良さそうだな!」


 玄一郎がそっと背負子を降ろし、窪みに祠を入れる。日和もそれを手伝い、中にご神体をそっと安置する。手を合わせてから元どおりにその他の品々を並べる。祠自体を運ぶのが一番骨が折れる作業だったので、後は並べるだけなので簡単だ。

 日和は弁当を開いて、二つの握り飯のうちひとつを白露にお供えした。


『良い心がけだな、ありがたくいただこう』


 白露も少しだけ機嫌を持ち直している。

 お供えした日和を見て、玄一郎もひとつを並べてお供えして手を合わせた。


「いつも、村を見守って下さってありがとうございます」


『はたして本心なのやら』


 何か噛み合わないのか、白露は玄一郎に態度が悪い。見えないことを良いことに、祠を運んでくれた相手に対してボロクソである。

 祠の前は大きな木でも倒れたのか、村を見下ろすことができる程度に視界がひらけている。景色が良いので、持たせてもらったお弁当はここで食べることになった。とはいえ、それぞれ一つずつ白露にお供えしたので、すぐに食べてしまったが。

 さて村へ戻ろうかと玄一郎の気配を伺っていると、彼はお弁当の包みをぐしゃりと握りしめて、いつもより力のない声で言った。


「日和、その、自分でもあまり良い提案とは思えないんだが、一つ考えて欲しいことがある」


「何でしょう」


 使用人として玄一郎についていくとかだろうか。それは、奥様にいらぬ誤解を与えはしないだろうか、などと考えた日和の予想外の台詞が玄一郎の口から漏れた。


「俺の、妾になってくれないか」


 玄一郎の妾。誤解どころの立場ではない。


「こんな、泉谷の家が大変なときでもなければ、妻に迎えたいと言えたのだが……。

 不甲斐ないのは承知している。

 だが、母様が日和に辛く当たるのも知っているから、家に残るよりかは良い待遇にしてやれる」


 日和はまじまじと玄一郎を見たが、手元を見るばかりで日和の方は見ていなかった。


「俺が好いているのは日和なんだ」


『ほらみろ、やはり下心からではないか』


 耐えきれなかったのか、白露が出てきた。


『日和、人間の男は下半身で物を考える。

 その男はお前を囲って、お前の体を好きにしたいと、そう言っているのだよ』


「お前がもし、俺のことが嫌いでなければ……」


 玄一郎が日和の手を取った。


「“はい”と言ってくれないか」


 赤い顔の玄一郎の向こうに、いつもどおり病的に白い白露が浮かんでいる。


『よく考えるのだ、日和。

 そいつの妾になったとて本妻からいびられ、優先順位も低く、蔑ろにされることに変わりない』


 あまりに白露が介入してくるので日和が何も返事をできずにいると、玄一郎は「返事は急がない」と言って立ち上がった。


『よくよく気をつけるのだ、日和。

 何かあってからでは遅い』


 白露はもはや、玄一郎を睨みつけていると言っても良い表情である。白露は気安く日和に接してくれているが、祠は小さくとも神様である。日和は慌ててもう一度白露に手を合わせてから坂道を下った。

 冬の間、雪が降るとはいえ少し積もるくらいの土地柄なので、日和は冷える手をこすり合わせながら以前よりも遠くなった祠に通った。相変わらず白露はぐうたらしているように見える。


『冬は眠いのだ、冷えるし』


 そう言って大きなあくびをしていた。

 日和も、冬となるとお供えを採ることができず、自然と手ぶらになってしまう。白露がぐうたらと眠そうにしてお供えのことに口出ししなくなるので、神様としてどうなのかと思いつつもありがたい。


『泉谷の倅はどうしている』


「何もありません」


 いつもと違うのは、玄一郎のことを気にしているという事である。今まで村のことなどあまり気にしたことは無かったのに。


『惣右エ門は良い奴だったのに、子らはあの女の血が濃くて嫌な奴ばかりだ』


 惣右エ門は亡くなった先代様で、奥方様は非常に気の強い方だったと聞いている。日和が奉公をはじめた頃には既に鬼籍に入っていたためお会いしたことは無い。しかし、未だに当時を知る使用人らの語り草で、彼らから話を聞いたことがある程度だ。


『日和の両親が死んだときだってそうだ。

 誰も助けようとはしなかったではないか』


「働けもしない私を引き取ってくれましたよ」


 恩のある方の悪口は聞きたくない。日和が遮ると、白露は口を閉じたが顔は完全に不満げだ。


「この話は――…」


 終わり、と日和が言う前に、白露が再度口を開いた。


『日和はあの薄情な奴らに仕返したいと思わないのか』


 仕返しなんて。


『その手のあかぎれも、彼奴等のせいと思わないのか?

 腹を減らして眠れない夜を数えたことは?

 お前を避けない村人は何人いる?』


 白露が目を細める。


『惣右エ門亡きあと、消えてしまえと思った奴は一人もいなかったか?』


 恩がある。


「やめてください」


『お前の口から恨み言は聞かないが、殺してやりたいほど憎い奴はいないのか?』


「おりません」


『嘘をつけ、知っているぞ?』


「知ってるなら言わせないで下さい。

 なんでそんな事……!」


 日和は白露を睨んだ。


『……まあ、仕方ない。

 これでも食べて機嫌を直しておくれ』


 白露は日和の前に来て、ガマズミの実を出してくれた。寒くなってきたので、そろそろ甘くなっているだろう。


「――…白露様も甘い木の実なんか知ってたんですね」


 日和が尋ねると、白露は人を馬鹿にしたような顔で笑った。


『日和が供えてくれたものなら』


 齧ってみると、思ったよりも酸味が強かったものの、美味しくいただける範囲の味だった。時期的にも貢物にできる物も少ないので、日和は機嫌を取られて差し上げることにした。

 正直なところ、今の境遇を恨まない訳ではない。親が生きていれば、働き始めるのももっと遅かったかもしれない。可愛い弟妹もいたかもしれない。腫れ物のように扱われて、避けられることもなかったかもしれない。

 でも、先代様は随分可愛がってくれたので、手習いの真似事もさせてくれた。白露を見ることもできた。これらは今の状況でなければ受けられなかった恩恵である。


(誰かを恨みたくなんて、ない)


 一人ぼっちなことも、日陰者と呼ばれる身分に請われていることも、そうでもなければずっと下働きの将来が待っていることも。

 疲れた気持ちで、その日は布団に入った。白露があんなに人の神経を逆なでするような話し方をする事は今まで無かった。

 それからしばらく何事もなく、穏やかな日が続いた。いつもより雪が多かったが、手に負えないほどではなかったし、冬支度は十分だったので困ることもなかった。

 お幸は嫁入りを前に、実家に帰ることとなった。結婚の準備もあるのだろう。二人部屋を贅沢に一人で使っているが、新入りが入る気配は無い。

 お幸だけではなく、新天地が定まっているものは早めに姿が見えなくなった。年越しを期に、ぐっと泉谷の家の中にいる人の数が減ったような気がする。

 冬の間は、あまり白露の祠のお世話には出向かない。白露自身も眠いと言っていたが、姿を見せる回数が夏に比べて格段に落ちる。加えて、今年からは祠に積もる雪の心配もいらないので手がかからない。

 たまに、夢を見る。白露が出てきて、周囲は花畑で、おそらく季節は春の盛りで。茣蓙ではなく贅沢に緋毛氈なぞひいて、花見をしている。


『この白露と来い、日和。

 毎日が斯様に過ごせるぞ』


 現実は冬で寒くてお幸が残していった布団までかぶっているくらい寒いのに、夢の中は暖かい。


「それも良いですね」


 遠くの景色は霞んでいてよく見えない。一面の花畑がどこまで続いているのかも分からない。日和の現実の泉谷の家も、村も、何も見えない。


『そうだろう、そうだろう』


 白露は満足げだ。あの、後味の悪い会話を気にしていて、しかも現実に嫌気がさして、こんな常春の夢でも見ているのだろうか。


(悩みなんて何もなさそう)


 そんな夢を現実の春になっても見続けて、春を過ぎて梅雨の時期に入った。


「今年の梅雨は特に酷い。

 これはきっと、川下は堤が切れる」


 みのと笠を脱ぎながら、外の様子を見てきた下男の一人が渋い顔をした。ざあざあと音を立てて打ちつける雨は、もう五日も続いている。何となく心細く、皆母屋に集まってそわそわと落ち着かない。外に出る事で何らかの良い兆しがもたらされるのではと、皆が期待していただけに何とも言えない空気になる。


「田んぼは」


「まだ何とか。

 水路も水でいっぱいで、あんまり続くならこの辺りも水害の覚悟が必要かもしれんです」


 泉谷の当主は報告を聞いて、険しい顔で眉間を押さえた。


「玄一郎様の祝言も、引っ越しも、下流が水害に遭ったのなら先延ばしかね」


 ヒソヒソと、近くにいた下女仲間同士で話している。それらが先延ばしになったとて、ダムの建設は待ってくれないだろう。


(白露様は水の神様だったっけ)


 日和は折を見て酒を少々失敬し、笠とみのを拝借して外へ出た。土砂降りの雨に視界は悪いが、白露の祠までの道くらいなら分かる。

 川のように水が流れる坂を登る。脚を取られないように地面を確認しながら急ぎつつも慎重に進み、白露の祠に到着すると、彼はそこに居た。


「白露様」


『おお、来たか日和。

 こちらへおいで』 


 白露が手招きするので、以前玄一郎と並んで握り飯を食べた場所まで進む。あのときとは違い、景色は悪い。訝しむ日和の肩を白露が抱くと、不思議なことに今まで雨に煙って見えなかった村の様子がよく見えた。

 白露は「よくよく見ておれ」と言って、ぱちん、と指を鳴らした。


「何を」


 日和が問う前に、答えが示された。

 川の水量が見る間に増え、一面水浸しにし始めた。家から慌てたように人が出てくる。田畑の様子を見るために出てきた村人の足元まで水がきて、見る間に膝まで浸かった。


「白露様、何を」


『我が事ばかりの村を祟ってやったのよ』


 白露が日和の肩を抱く手に力を込めたので、少し痛む。


『ようやっと、水脈を従えるために置かれた場所から離れたからな。

 ほれ、昔日和に石を投げた男が流れていきおる』


 日和は白露をみあげた。彼は嬉しそうに村を見下ろしている


『あれは、自分の失敗を日和のせいにした女だな。

 そのせいで随分な折檻を受けたのだ。

 あちらはその子だ、親の因果が子に報いとはまさにこのこと』


「わ……私のせい……?」


 日和は自分の声が震えているのを自覚したが、止めることは出来なかった。


『いや、優しい日和は誰のせいにもしなかった。

 私が許せんから祟るのだ』


 その白露の声は、ゾッとするほど冷たかった。


『このまま放っておけば、数も減るだろうが何とでもなろう。

 そんなことより、私も来月には水脈の守りから主様の従者に格上げだ。

 祝っておくれ』


 先程の冷たい声音はどこへ引っ込めたのか、白露は上機嫌に日和の肩を撫でた。目の前で人が流されているのに、白露の目に入らないのだろうか。


「そんな」


 日和は動き出したかったが、白露に止められて動けない。川の水量は更に増え、川の近くに立っていた家は軒の下まで水に浸かっている。


『さて、我々は移動しよう。

 日和はしばらくのんびりしても構わないからね』


「どこへ?」


『主様のお社へ』


「村を捨てて?」


 日和の言葉に、白露は驚いたようだった。


『私は日和を虐める奴らなど好かん。

 それに日和だって捨てるも何も、あの村の一員だったのは随分昔のことだろう?』


「え?」


 足元が崩れて、目眩がするような感覚だった。言い返す言葉は見つからない。


『まあ、今更どうでもよい話だがな。

 日和は私の仲間になったのだ。

 蛇神の眷属として、これからずっと楽しく過ごすのだ』


 その場にへたり込みそうな日和を、白露は抱きしめた。日和はその、高そうな狩衣をぎゅうと握りしめた。


「眷属って、何?

 いつからそんな大層な――…」


『私の手から受け取ったガマズミを食べたから』


 白露は日和の頬に己の頬を寄せた。雨よりもなお、ひやりと冷たい。


『あれを食べてくれたから触れられるし、夢にも渡れる。

 愛しい日和、この腕に抱くことができる日をどれほど待ち焦がれたか』


 息苦しい程強く白露が日和を抱きしめるので、日和は蛇玉のことをぼんやりと思った。そんな、無関係な思考に逃れるほど、白露が告げる現実を受け入れられずにいた。

 眷属ということは、人間を辞めたという意味だろうし、もちろん蛇ではない。所属していると思っていた村も、他の村人からすれば日和は仲間ではなかったのかもしれない。だから玄一郎も平気で妾に迎える話をするのだ。結局どこにいても一人なのだ。

 日和が確かだと思っていたものは、全て幻想だったのかもしれない。その、寄る辺のない不安の中で、確かなものは自分を抱きしめる白露が存在するということだけである。


(もう帰ってくることは無いんだろうな)


 少し諦めの混じった、そんな未来予想をしながら、日和は目を閉じて白露に身を預けた。暫く考えるのは休みたい。





 その、記録的な大雨による洪水は数人の行方不明者と、たくさんの家屋や田畑の浸水被害を出した。ダム工事着工の遅れに対する非難を受け、政府は計画を前倒しすることを発表した。

 工事が完了し、村は予定どおりにダム湖に沈んだ。竣工を記念する石碑の隣に、水害による行方不明者の鎮魂碑が建てられた。そこに刻まれた名前の中に日和の名前はない。

 ただ、彼女の姿を洪水の日以後見た者も居ない。

 

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