60,
吾輩達は湖の近くに辿り着いた。
静かな湖面は、満月と星の瞬きを映している。
多くの精霊達が湖の周りに浮かび、消えゆく吾輩を見届けていた。
「……失った、世界」
「あの時吾輩が過去を見せた時点で、こうなるのは決まっていたのだ。
呪文でも唱えただろう?
『吾が軛を解き 最期を手向けに 映せ』とな」
「呪文の意味なんて、僕に分かるわけがないだろう!?
それでもあの時、何故か君に魔法を使わせてはいけない気がしたんだ。
だから僕は何度も止めたじゃないか!
どうして……っ、どうしてっ!!」
吾輩の体を強く抱いて、ヴィスは苦しそうに嘆いた。
その様子があまりにも痛々しくて、吾輩はまだ透けていない腕をヴィスの肩に乗せ、ぐっと体を持ち上げると、後悔に苛まれているヴィスの髪にキスを落とした。
「!?
え、エルミルシェ殿!?」
「くくくっ。
顔を赤らめて、お主は本当に愛い奴だな」
「なっ、何を!?」
耳まで真っ赤にしながら慌てるヴィスにもう一度凭れかかり、これまでの本音を全て語る。
――もう思い残すことがないように。
「リンデンに連れられてお主を見付けた時、本当に見て見ぬふりをしても良かった。
しかし譫言で漏れ聞こえたお主の声が、過去吾輩を救ってくれた声と同じで、何故こんなところに居るのかと思いながらも、漸くあの時の恩が返せると思った。
今のお主が知らなくとも、吾輩はずっと覚えていた。
だから吾輩は、お主を助けたのだ」
ヴィスに持たせていた杖を吾輩の近くに寄せてもらう。
杖の上部を抱きかかえると、次第に濃厚な琥珀色の魔力が波打ち始めた。
「しかし、今のお主がどんな人間か分からなかった。
吾輩が介入しなかったことで、過去と違う為人になっている可能性だってあった。
だから最初、様子見していた部分があったのだろうな。
単に深入りせぬようにという気持ちと、万が一記憶の中のお主と全く違う為人で、身勝手にも残念に思わぬようにという気持ちがあったのだ」
預けていた頭を起こし目を合わせると、くしゃりと歪んだ瞳に幸せそうな吾輩の顔が映っていた。
「だが、やはりお主はお主のままだった。
心優しく温かい、そんな人だった。
恩を返すつもりだったのに、それ以上に沢山のものを与えてもらった。
いつかに手放し諦めた、人との関わりや温もりを感じた。
とても、とても幸せな日々だったのだ」
「僕だって……僕の方こそ、君から沢山のものを」
ザァッと強く風が吹き抜けて、ヴィスの髪が攫われていく。
リィン――と、耳の奥で鈴の音が響いた。
もうあまり時間がないらしい。
「過去を明かさず、あの場を収めることは難しかった。
お主達に話した時のように、言葉を伏せて伝えても良かったが、そうすればどうしても謎や憶測が残ってしまう。
特にヨーミリエンの秘薬の話は、失った世界を語らずして伝えるのは容易ではなかったからな。
あの場に行く時点で、こうなる覚悟は決めていたのだ」
身動ぎしようとして、至る所の感覚が薄れてきていることに気がついた。
そろそろ肩に頭も乗せているのも危ういかもしれない。
「お主から話を聞き、吾輩が知らなかった背景を知り、全てが繋がったあの時……放置すれば壊れゆくだろうこの国と、己の命を天秤にかけた。
お主の生きるこの国が、再びあのような惨劇を繰り返すというのなら、魔女としての矜恃を胸に、願いを叶えて散りゆくことを望んだ」
浮かぶのは、精霊王にも漏らした後悔。
「かつて仕えたイスティランノを救いたかった。
戦争で荒れ果てることのないように、国や民を守りたかった。
そして何よりも、吾輩を救ってくれたお主に恩を返したかった。
理を捻じ曲げ居座り続けた、既に一度朽ちた魂だ。
再び見て見ぬふりをして生き長らえるか、この身を賭けてこの国を救うか……どちらかを選ぶしかないのなら、かつて吾輩も願った、お主の望む、争わぬ世界を叶えたかった」
「そんな……そんな……っ」
ヴィスは頭を横に振り、嫌だと言葉を繰り返した。
「初めは恩だけだった。
いつかの礼が出来たらと、それだけだった。
だがお主と過ごし、あの楽しく穏やかな日々の中で、知らなかった感情を知った。
吾が身よりも、国や民よりもただ一人を大切に想う、人はこれを『愛』と呼ぶのだろう?」
「える……みるしぇ……」
「エルと、そう呼んでくれないか?
かつて吾輩をそう呼んでくれたのは、祖母だけだった。
お主が良ければそう」
「エルッ!エル……行かないで!!」
掴まれている感覚もなくなった吾輩にしがみつくように、ヴィスは大声で叫んだ。
話し終わるより先に愛称を呼ばれ、吾輩はからからと笑ってしまう。
「その杖は墓石代わりにリンデンの墓に立ててやってくれ。
この国に加護があるようにと、願って溜めた魔力だ。
暫くは魔獣や天災の脅威から守ってくれるだろう」
吾輩は魔力で体を浮かし、ヴィスの体から離れた。
「待って」と伸ばされる手を躱し、吾輩はもうほとんど形を成していない両手を広げ、天に声を上げる。
「かつて志半ばで果てた身だ。
それがこんなにも満たされた逝き方があろうとは!
なんと良き天の足り夜か!
これでは星も駆け出しそうだ!」
宙で踊るようにくるくると舞うと、星々が夜空を流れ出した。
湖面にいくつもの輝く線が描かれ、吾輩の魔力に当てられた精霊達も花開くように舞い始める。
吾輩の力のせいか、恐らく精霊達が見えているのであろうヴィスは、その神秘的な光景に目を奪われていた。
立ち尽くすヴィスに、もう触れられぬ手でその身を抱き締めた。
「どうせ偽名だろうと思って、ずっと名を呼ばなかったのだがな。
まさか、ある種愛称のような名を初対面の奴に言ってしまうなど、軽率にも程があるだろう」
「エ…ル……ッ」
「ヴィス……シルヴィストル。
愛しきお主に、これから多くの幸があらんことを」
「エル……エルッッッ!!」
指先から糸が解けるように、吾輩の体は光の粒となって夜風に流され攫われていく。
吾輩の杖を抱き締めながら涙を流すヴィスに、最期の微笑みを向けた。
悲しみに泣き叫ぶ愛しい男を置いて、吾輩は形を失い、夜闇に溶けるように消えていった。
いいね、ブクマ、感想やレビュー、評価など
とても励みになります……!
是非とも応援宜しくお願い致します( .ˬ.)"




