43,
軽く仮眠をして、吾輩は目を覚ました。
そろりと寝室を出て、二人が寝静まっていることを確認し、物音を立てないよう気を付けながら書斎へと向かう。
まず、書斎の机で文をしたためた。
真っ黒なカードに真っ黒な封書という異様な手紙を完成させると、薬草棚に保管していた一輪の花を添え、その上から封蝋印を押す。
すると、蝋の部分からキラキラと淡く輝き出し、次第に封書全体を包むと、空中に解けるように消えていく。
「さて、次だ」
今度は棚の本を、ある手順通りに抜いていく。
七冊の本を抜き終えると、床下からガチャリと重々しく鍵の開く音がした。
カーペットを捲ると、一見デザインのように見えるフロアタイルの模様が目に入ってくる。
吾輩は指の先をレターオープナーで少しだけ切ると、その中心部分の模様に血を垂らした。
血が模様となる線に沿って伝っていくと、再び鈍い音を立てて床下が自動的に開いていく。
「あぁ……久しいな」
二重の仕掛けで封印していたそれは、今の吾輩の身長よりも長く大きいメイスだ。
メイスは基本的に上部が大きく作られ、打撃武器としても使える杖だが、これはその用途には向かない。
打撃部分になる上部が、あまりにも美しく凝った意匠をしていることもあって、殴れば間違いなく痛そうではあるが、壊してしまいそうで怖くなるのだ。
実際には壊れるような素材ではないのだが、銀白色の特殊な金属を使って作られたこの杖は、上部が香水瓶とティーポットを足して割ったようなデザインをしている。
その上部だけは金属で縁取られた上で、強度と耐久性の強いアクリル板が嵌め込まれ、中が透けて見えるようになっている。
それを久々に手に取り力を注ぐと、容器部分の中で液体のようなものがゆらりと揺らめいた。
『魔杯の守杖』
吾輩が十歳になり、集落から出ていくことを望んだ時、祖母が吾輩のために作ってくれていたこの杖を集落の長から渡された。
吾輩の強すぎる力と突出した才能を心配していた祖母は、過剰に力を奮いすぎないように、力を込めると容器内に液状の魔力が溜まって見えるように作ってくれたのだと聞いた。
吾輩のための杖だ。
祖母の作る茶が好きだった吾輩を想って、こんな洒落た上部にしたのだろう。
この杖に恥じぬ生き方をしよう……そう心に誓い、誉れさえも抱きながら旅に出た。
そうして懸命に、ひたむきに生きて……吾輩は現実を知らされた。
誰かの役に立ちたくて、誰かの力になりたくて、そう望んで邁進し辿り着いた先は、裏切りと断罪だった。
人間があれほどまでに狡猾だとは知らなかった。
人間があれほどまでに強欲だとは知らなかった。
人間があれほどまでに不誠実だとは知らなかった。
人間があれほどまでに無慈悲だとは知らなかった。
人間を弱く矮小な生き物だと侮り、吾輩が手を貸してやらねばと慢心し、見事に利用され最後には使い捨てられた過去の記憶。
受けた屈辱や苦痛が、決してこの心から消えることはなく、何が正解だったのかと、何故そんな目に合わされたのかと、今でも時折夢に見る。
真っ黒な世界で浴びせられる罵声や暴言が、体に与えられる痛みよりも吾輩の心を傷付けていた。
しかし、ヴィスからあやつ自身の、そしてその周りを取り巻く……かつて生涯を預けた者の境遇を教えてもらった。
吾輩とて数年は共に居たはずなのに、知らないことがあまりにも多すぎた。
思い返せば、吾輩は周囲との接触を出来る限り絶たれ、部屋に籠りきりの生活をしていた。
不要な情報が届かないように囲い込まれていたようだから、さもありなん。
だが、もし少しでも何か知っていれば、知ろうしていれば、かける言葉も行動も、胸に抱いた思いさえも、何もかも違っただろう。
――吾輩は何も出来なかった。
――吾輩は何もしてやれなかった。
出来ているつもりになって、してやれているつもりになって、何一つ真に気付くべきことには手を伸ばせていなかったのではないだろうか。
もしかしたら吾輩こそ、先に裏切り者だと思われたのではなかろうか。
「……だが、そう言ったとて何になる?
吾輩が今居るのは何処だ?
今、吾輩に出来ることは何だ?」
持つに値しないと思い封じた杖を握り、その瞳に信念を滾らせる。
――今ならまだ、間に合う。
かつて叶わなかった願いも、今なら叶えられる。
吾輩が支えたかった者を変えたかった。
吾輩が守りたかった世界を取り戻したかった。
吾輩を救ってくれた者に恩を返したかった。
今ならきっと、きっと叶えられる。
決意を胸に裏口から出ると、既に雨は上がっていた。
月の光に照らされながら、再び湖を目指す。
気付けば吾輩の周りには、いくつもの光の玉がふわりふわりと漂っていた。
指先を伸ばせば、そこに光の玉がじゃれるように寄ってくる。
暫くして、静かに凪いだ湖に到着した。
夜風が髪を、そして吾輩の中で燻っていた枷を攫っていく。
開けた視界は今まで以上に世界を美しく映し、澄んだ空気はこれまで心に溜めた澱みを祓っていく。
吾輩は湖を眺めながら、リンデンの墓の側にヴィナルを敷いて腰を下ろし、誰も居ないそこで口を開いた。
「――すまないな。
明日吾輩は、お前との約束を破ることになるだろう」
リィン――……。
「お前にも感謝しているのだ、吾が恩人、吾が友よ。
だが、後悔するのはもう沢山なのだ。
それに、ここで行かぬ選択を吾輩が選ぶはずなかろう?」
リィン――リィン――……。
「ここに居させてくれて、ありがとう。
この時、この場に吾輩が居られたことで、もう一度やり直すことが出来る。
滅びゆく未来を止められる。
――その結果、この身がどうなったとしても」
杖を握る手に力を込め、月を見上げる。
柔らかく闇を照らす光を浴びて、杖もキラキラと輝いていた。
吾輩の瞳にも、力が満ちていく。
そして視線をずらし、リンデンの眠る墓へと目を向けた。
「落ち着いたら綺麗な石でも見繕おうと思っておったが、そもそも時間がないかもしれぬな。
代わりに吾輩のとっておきをここに差してやるから、それで許してくれないか。
吾輩はきっと何も残らぬだろうから、せめて魂だけはリンデン、お前の側に行けたらいいな。
吾輩を迎えに来てくれるか?」
誰にも返事を求めず発した声だったのに、その時『きゅ〜〜!』と吾輩を叱るような声が聞こえた気がした。
もしリンデンが聞いていたとしたら、確かに怒りそうだなと笑ってしまう。
「お前が吾輩に何の断りもなく、先に勝手をして逝ってしまったのだから、お互い様だぞ?
……吾輩は今度こそ、間違えたりはしない。
吾輩にしか出来ぬことを、今の吾輩だからこそ出来ることを、選んでみせる」
そうして言葉を区切った時に浮かんだのは、ヴィスの顔だった。
――あぁ、きっと……リンデンもこんな気持ちだったのだろうな。
打ち明ければ、この身がどうなるのかを言えば、間違いなく止められるはずだ。
それでも、もし止められたとしても、今手元にある選択肢の二つを見比べた時、吾輩は迷わずこの選択肢を選ぶだろう。
自分の使命はこれなのだと、譲れない想いと願いを抱いて、過去と今、無垢だった私と傍観者だった吾輩が、全てを賭けて手を伸ばした未来に挑む。
杖を両手で握り、吾輩は祈るように願いを捧げた。
「必ず、必ず叶えてみせる。
イスティランノ殿下。
そして……あやつのために。
二人の未来が争うことなく、いつか交わらんことを」
家に戻り、ふとノスアツで購入したクズ石のことを思い出した。
吾輩はぐしょぐしょに濡れたワンピースのポケットからそれを取り出し、作業机から必要なものを揃えて再び書斎へと向かおうとする。
「ぇる…………」
囁くような声に吾輩はぎくりと肩を跳ね上げ、そろりとソファに顔を向ける。
どうやらヴィスの寝言だったらしい。
ふぅと胸を撫で下ろして、再び書斎に籠った。
不本意ながら、封じていた杖を取り出すことになったことで、力を配分しやすくなった。
吾輩はそのままクズ石に力を注ぎ、それの加工を始めた。
 




