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あれから、ヴィスは大熊に礼を述べていた。
言葉は通じなくとも、大熊は理解し「ぐぅっ」と一鳴きしたあと、ゆっくりとヴィスに近寄った。
ヴィスの顔が少し引き攣っていたが、なぁに彼らは優しい生き物だ。
吾輩にしたのと同じように、手に頭を擦り付けていた。
わざわざ来てもらったのと、礼として呼び出していたので、今度は猪肉を渡してやった。
その走り去っていく背中をヴィスがぼうっと眺めていたので、現実を理解する時間を与えてやろうと暫く放っておくことにした。
家に戻り薬を煎じていると、暫くしてから「どういうことか説明してくれる?」とヴィスに問い詰められ、吾輩は面倒ながらも話をすることにした。
先程食事をしたテーブルで、向かい合うように座る。
「吾輩には特別な力があるのだよ」
「うん、そうだろうね?詳しくは……」
「説明出来ん。
厄介事に巻き込まれたくないのだよ」
「……だからこんな山奥に住んでいるの?」
「色々と理由はあるが、それも理由のうちの一つではあるな」
吾輩はリンデンの花茶を啜った。
む、まだ少し熱かったか。
ふぅーと何度か息を吹きかける。
「僕が……それを知って、エルミルシェ殿を利用するとは思わなかったのかい?」
「仮にそうなれば、ここから去るだけのことだ。
それに……リンデンがしきりに鳴いたのだ。
助けてほしいとな」
吾輩は肩に乗るリンデンへと顔を向ける。
「きゅ?」と見つめ返してくるリンデンの眉間を指でつつくと、いやっとそっぽを向かれてしまった。
「それだけで?」
「……まぁ、それだけが理由ではないが。
彼ら山の動物達は、悪意や害意に敏い生き物なのだよ。
リンデンも、お主を運んでくれた大熊も、お主を拒絶しなかったということは、そういうことなのだろうと思っている。
面倒事も厄介事も嫌で人里を避け、人との交わりを絶っている吾輩が、よもや命を狙われているような青年を拾うことになろうとはな。
生きていると何が起こるか分からぬものだ」
そっと湯呑みに手を伸ばすと、さっきより幾分温くなったように思えたので、もう一度口を付けてみる。
……うむ、これくらいなら飲めんこともないな。
茶をちびちび飲んでいると、ヴィスは頭を下げた。
「迷惑をかけてしまって、本当にすまない。
ここに居ては、もしかしたらエルミルシェ殿を巻き込んでしまうかもしれない。
湯浴みもさせてもらって、食事もいただいたんだ。
僕はそろそろお暇させて」
「怪我人や病人を追い出す薬師など居てたまるか。
体が治るまで下山することは許さんぞ」
「しかし……」
「くどい。
そもそも、その足で何処へ行こうと言うのかね?」
ヴィスはぐっと言葉を詰まらせる。
普通の人間ですら近寄らぬ標高高いこの山を、気力だけで下りられるはずもない。
「この山を下山するには、それなりの食料や水、野宿が出来るような服装や道具が揃っていなければ無理だろう。
だが、吾輩は貸さぬよ。
今のお主が無事に下山出来るとは、到底思えぬのでな」
「けれど、僕は……」
俯いた顔は悲痛な表情を浮かべている。
吾輩を巻き込んでしまうと危惧しているのだろうか。
椅子の上で立ち上がると、行儀悪くテーブルに膝をついてヴィスの頭を撫でた。
「吾輩がお主を助けると決めたのだ。
生きてもらわねば、助けた甲斐がないではないか。
お主にどんな事情があるかは知らんが、このバルメクノ山脈は広い。
生きてここまで逃げて来れただけでも、相当凄いことなのだぞ。
こんな山奥で生き長らえていると思うまいよ。
それに追手を寄越したところで、こんな所まで簡単には来れんだろう」
「そう……だろうか」
「そうだとも。言っただろう?
早く体を良くすることだけを考えていればよいのだ、とね」
ヴィスはゆっくりと顔を持ち上げた。
命を狙われここまで来たのだ。
辛くないはずあるまい。
迷子のような表情を見てよしよしと撫でていると、気持ちよさそうに目を瞑り始めた。
――こやつ、いくら吾輩の見た目が幼女とはいえ、もう少し警戒心を持たぬか?
「おい、ここで寝てくれるなよ。
吾輩はお主を運ぶことは出来ぬのだぞ」
「……あぁ、すまない。どうにも抗い難くて。
誰かに撫でられるというのは、こんなにも落ち着くものなんだね」
「お主が先に吾輩を撫でたのではないか。
ほら、花茶の効果が高いうちに、一度眠っておくといい」
とろんと眠そうに目を伏せるヴィスは、この上なく色香を放っていた。
美男子とは斯くも人の目に毒を与えるものかと、憎らしい表情になってしまう。
そんな吾輩に気付くことなく手を伸ばしてくるので、溜息を吐きながら杖代わりになってやり、ベッドへと向かう。
吾が家唯一のベッドは、吾輩が悠々と寝ころべるくらいの大きさで作ってある故、ヴィスが寝転ぶとほとんど余裕がなくなってしまった。
少し寝返りをうったり、上下にズレると頭や足をぶつけてしまうかもしれない。
……ヴィスが寝転んでも余裕のあるソファでも作るか?
人の気も知らず、スゥスゥと穏やかに寝息を立てるヴィスを見下ろし、ふぅと息を吐いて布団をかけてやる。
ふと吾輩は思い立って作業机へと行き、小さな布袋に乾燥させたラベンダーを詰める。
寝室へと戻ると、ベッドの端に布袋の紐をかけ、ぶら下げた。
簡易的に作ったサシェだが、リラックス効果のあるラベンダーの香りで深く眠れることだろう。
「……良い夢を」
ヴィスの額を一撫でし、静かに寝室の扉を閉じた。
「いかん、軽率にラベンダーを使ってしまったな。
また補充しておかねば」
「きゅっ」
「リンデン。
薬草を摘みに行くが、お前も来るかい?」
「きゅきゅ!きゅっきゅきゅー!」
「なるほど。
お前はあやつの体に良い木の実を探しに行きたいのか。
優しいなぁ、お前は」
リンデンのほっぺを、親指と人差し指で挟むようにウリウリとしてやると、シャッと威嚇されてしまった。
くくくっと笑うと、勢いよく肩に上ってきたリンデンに、仕返しのようにしっぽで首を擽られる。
「くふっ、やめないか。
ほら、山へ行く時の約束は?」
「きゅきゅっ、きゅきゅっきゅ!」
「うむ、よく覚えているな。
注意深く、音と風を聞くこと。いい子だ。
この山には少ないとはいえ、魔獣が出ないわけではない。
動物なら吾輩が話してやれるが、魔獣はそうもいかん。
戦いになれば吾輩はいいが、リンデン、お前はいち早く逃げるのだぞ?」
「きゅ、きゅきゅ〜……」
リンデンは悲しそうな声を上げる。
役に立たず、逃げなければならないことが悔しいのだろうか。
「吾輩のことは心配せずともよい。
そこらの魔獣なんぞに遅れはとらぬし、お前が怪我をしてしまうことの方が余程辛い。
あぁ全く……これだから生き物と共存すると、愛着が沸いてしまって敵わん」
ふっと鼻で笑い、リンデンの額をぐりぐりと突く。
なにするの!とでも言うように「きゅうぅ〜〜!」と鳴くので、吾輩は声を上げて笑ってしまった。