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「リンデン!リンデンッ!!」


ヴィスは必死で声をかけているが、口から血を吐いて倒れているリンデンはピクリとも動かず、ふわふわの毛並みは血と土でべっとりと汚れていた。

そっと、しかし急くように、ヴィスは両手でリンデンを掬い上げ、ぐしゃりと顔を歪めながらこちらを見上げた。


「エルミルシェ殿!リンデンが……っ!!

薬は!?何か薬はない!?」


今にも泣き出しそうなヴィスと、その手の中でくたりと横たわるリンデンを見て、吾輩はきつく目を閉じる。

――恐らくリンデンは、もう……。

吾輩はヴィスの側で屈み、確かめるように小さな体に触れ、そして……残酷な言葉を告げた。


「……吾輩の薬が、いくら万能だろうとも、……っ。

死んでしまった者は、蘇らぬのだ……」


リンデンの体は血と土で汚れているものの、外傷は少なく表面的には綺麗なものだった。

しかしその体は男に握り潰され、地面に叩きつけられたのだ。

その出血量を見て、見えぬ内側がどうなっているかなど……そんなことは考えたくもなかった。

言葉にも、したくなかった。


「……そ、んな……っ!?

だって、だってまだっ!

こんなに……こんなに温かいのに!!」


ヴィスは茫然とリンデンを見下ろしている。

包み込むようにその小さな体を胸に抱きながら、体を震わせ涙を零し始めた。


「さっきまで、元気に鳴いていたじゃないか!

僕のポケットに……ここに居たのに!!

ねぇ、いやだ……いやだよ、リンデン!

リンデン……ッ!!!」


何度もその名を叫び慟哭するヴィスの腕を掴み、何とか立ち上がらせてアインシュテルにヴィスを任せる。


「……まだ奴らの仲間が居るかもしれぬ。

街で直接狙われたのだ。

近くに安心出来る場所などなかろう。

一旦吾輩の家に逃げよう」


地面に投げ捨てたせいで砂に(まみ)れた袋を拾い上げ、吾輩は先導して山の方へと走る。

ちらりと振り返ると、アインシュテルに支えられながら走るヴィスの瞳からは、まだ涙が頬を伝い散っていた。

その手には、大切そうにリンデンが包まれている。

リンデンを想い涙するヴィスを見て、なるべく冷静に振舞ってはいたが、大狼達に迎えを念じながらも、吾輩の胸はギシギシと軋み続けていた。




アインシュテルは大狼に驚き(おのの)いていたが、有無を言わさず背に乗るように言い、吾輩達は休憩なしに家へと戻ってきた。

もう夜も遅く、明かりも付けずにぼんやりと月が照らしているだけの暗い部屋の中、項垂れるように椅子に座る放心状態のヴィスに声をかけた。


「――そろそろ、リンデンとお別れをしよう。

この時期は早く埋めてやらないと腐ってしまう。

……せめて、綺麗なままで還してやらねば」

「…………うっ」


ぼたりと、また大粒の涙がヴィスの瞳から零れ落ちていく。

大狼に乗る時、リンデンを持ったままでは乗れないからと、その胸ポケットに再びリンデンを入れていた。

その下部には赤黒い染みが出来ていて、受け入れ難い現実を突き付けるように、痛々しく主張していた。

ヴィスは鈍く震えた手で胸ポケットからリンデンを取り出し、小さく「リンデン……」と呟いてから、吾輩にその身を託すよう差し出してきた。

その体を受け取って見下ろすと、血が毛に張り付いてしまっているせいか、それとも血を流しすぎたせいか、こんなにも小さかっただろうかと思うほど、ポケットの形の通りに丸まって横たわるリンデンは、とても小さく軽かった。


「……表ではなく、裏庭に埋めよう。

アインシュテルはここで待っていてくれ。

裏庭には基本、誰にも立ち入りを許しておらんのだ。

お主、今日だけは裏庭への立ち入りを許可するが――付いてくるか?」


ヴィスは声をかけてからすぐには反応を示さなかったが、暫くしてゆっくりと頷いた。

吾輩は作業机へと行き、大きめの薬包紙を取り出してその上にリンデンを乗せた。

いつでも食べさせてやれるように作業机にも置いていた、リンデンの好きだった木の実も一緒に入れて軽く包む。


「行けるか?」

「……うん」


目を真っ赤にしたヴィスは、のろのろと立ち上がる。

アインシュテルが何か言いたそうな顔をしていたが、吾輩は目でそれを黙らせた。

こんな遅い時間に二人で出かけるだなんてと思っているのか、もしも敵が襲ってきたらどうするつもりかと心配しているのか……きっとそんなところだろう。

しかし、こんなところまで敵も登っては来れないだろうし、吾輩にとってもヴィスにとっても、リンデンとの別れは今何よりも必要なことだった。


「リンデンは……添えたのかい?」

「ん?……あぁ、いや」


一瞬何を聞かれたか分からなかったが、すぐその意図に気が付いて、吾輩は首を横に振った。

ヴィスはふらりとキッチンへ向かっていくと、茶葉を並べている棚から一つの瓶を取り出し、中身を匙で掬って手のひらに乗せた。

それをこちらに持ってきて、薬包紙に包まれて眠るリンデンの周りにかけていく。

それはリンデンが好きだった、リンデンの花茶の茶葉だった。


「……行こうか」


力ないヴィスの手を取り、吾輩達は裏口から外に出る。

少し山を登り、吾輩の管理する畑を横切って、更に奥へと進む。

ヴィスは時々裏庭の畑に視線を向けていたが、リンデンを失ってしまった辛さのせいだろうか。

吾輩に手を引かれるまま、ずっと黙っていた。


辿り着いたのは、ぽかりと窪んだ場所に出来た、小さな湖だ。

畑に水やりをする時、水汲みに訪れていた場所である。

吾輩は湖の側に腰を下ろし、ヴィスもそこに座らせた。

薬包紙からリンデンだけを取り上げてヴィスの両手に乗せると、吾輩は湖の水をリンデンにかけた。

ヴィスの手を桶代わりにして、何度も何度も水をかけてその体を洗う。

汚れが全て流れ落ちると、吾輩はハンカチを取り出してリンデンの体を優しく拭いていく。

夏を感じさせる夜風のおかげか、少し拭いただけでリンデンの毛並みはふわふわに戻り、その姿はただ静かに眠っているだけのように見えた。

だが、その体は生きていた頃の温かさを失い、硬く冷えきっていた。


湖から少し離れるように坂を上り、水嵩が増しても問題ない、平たくなったところに穴を掘った。

中に薬包紙を敷き、そこへリンデンを寝かせてもらう。

リンデンは木の実や茶葉に包まれるように、穴の中に横たわっている。


「吾輩は離れていよう。

リンデンに最期の挨拶をするといい。

吾輩は……お主の後で話すよ」


そう言って立ち上がろうとする吾輩のワンピースを、ヴィスが握って引き止めた。


「……いや、聞いていて」

「……そうか、分かった」


吾輩はもう一度ヴィスの横に座り直し、眠るリンデンを見下ろした。

その姿は木の実や茶葉に包まれて、本当にただ穏やかに眠っているようだった。


「リンデン。

僕は君の死が悲しくて、苦しくて、ただそれだけで……。

何も見えていなかったけれど、君は僕を守るために、僕を助けるために……あんな大きな男に立ち向かってくれたんだよね」


そのヴィスの言葉に、吾輩はあの時見た光景を思い出す。

『きゅきゅう』

そう鳴いて、ヴィスの肩から跳ぶリンデンの姿には、一切の迷いや恐怖は感じられなかった。

そこにあったのは、覚悟と――感謝。


吾輩は隣で語るヴィスへと顔を向けることなく、ただリンデンの方を見続ける。

それでも徐々に身を屈めていく、ヴィスの震える肩が視界の端に見えていた。


「勇敢な君のおかげで、僕はこうして無事に生きているよ。

あの時、君があの男の足を止めてくれなかったら、僕は女の子や自分のことを、守り抜けていたかどうか分からない。

あの振り下ろされそうだった一撃目を構えていた剣で防げたとしても、次の二撃目で僕は切られていたかもしれない。

君が身を挺して僕を守ってくれたのに、僕はそのことが見えていなかった。

僕は君に……一番大切なことが、言えていなかったね」


ヴィスは手を伸ばしリンデンの体を慈しみ、労るようにゆっくりと撫でる。


「リンデン……勇敢で心優しい、僕の大切な友達。

僕を助けてくれて……本当に、ありがとう……っ。

ゆっくり、ゆっくりお休み……」


時々言葉を詰まらせながら、そして鼻を啜りながら、ヴィスが述べたのもまた、リンデンへの感謝だった。

ヴィスがゆっくりと立ち上がるのを感じ、吾輩はヴィスへと顔を向けることなく問いかける。


「――もう、よいのか?」

「……うん。

思うことは沢山あるけれど、それは僕自身の話だから。

リンデンに伝えたいことは、ちゃんと言えたよ」

「そうか。

吾輩もこやつに言うことがあるから、すまぬがお主は吾輩の声が聞こえぬところまで下がっていてくれるか」

「……うん、分かった」


ヴィスは吾輩の頭を一撫でし、遠ざかっていく。

その足音が十分離れたところで、ぐっと拳を握りながら唇を噛み締めた。

そして決してヴィスに聞こえぬよう小さな声で、今日一日抱いていた違和感を吐露した。


「――お前、今日あやつが深手を負うか殺されると、分かっていただろう」


それはあまりにも淡々とした、酷く冷たい声だった。

山の空がごろごろと鳴り出し、今にも雨の降り出しそうな気配が近付いていた。



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