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33,


その日の夜は、本来なら吾輩がベッドで寝る日だったのだが、ヴィスを寝室に連れて行って無理やりベッドに寝かせた。


「明日もお主がここで眠れ。

残りの二日くらいは、このサシェの香りでゆっくり眠るといい」

「ありがとう、エルミルシェ殿」


ころりとこちらを向き柔らかく微笑むヴィスを見て、吾輩は寝室を出ようと体を翻した。

するとベッドから伸びたヴィスの手に、吾輩のワンピースの端が掴まれた。


「明日、街から帰ったら……僕の話を聞いてほしいんだ。

ずっと言えなかった、僕のことを。

僕が何者で、どうして狙われていたのか。

これまで何から逃げていたのか、どう思って生きてきたのか。

僕のことを、聞いてほしい」


やけにくぐもった声が気になり目だけで振り返ると、ヴィスは枕を片手で抱きかかえながら顔を伏せていた。

手は少し震えているらしく、掴まれたワンピースが微かに揺れていた。


「……本当は言いたくないのではないか?」

「出来ることなら言いたくない。知られたくない。

君は王族や貴族を嫌っているでしょう?

エルミルシェ殿に嫌われないか、嫌がられないか……それが怖いから言いたくなかったし、知られたくなかった。

でも僕は、明後日にはここを去らなければいけない。

だから『何者か分からないヴィスという男』ではなく、ちゃんと『僕』を知ってもらいたいんだ。

君が救ってくれた男が何者なのか、その男がこれから何をしようとしているのか……。

僕のことを覚えていてほしいから。

どうか、忘れないでほしいから」


その言葉はまるで祈りのようだった。

吾輩はヴィスの言葉を噛み締める。


――なんなのだ、覚えていてほしいとは。

忘れないでほしいとは。


吾輩は軽く息を吐くと、少し怒ったような声色を作った。


「お主がそれなりの身分であることは、()うに検討が付いておることだ。

そもそもお主を拾った時点で、髪色や服装からある程度察しておったことではないか。

短いとはいえ約ひと月共に過ごしたお主を、今更身分だ何だ聞いて、吾輩が嫌うと思っておるのか?」

「…………」

「この間帰ると言った時の、晴れやかなお主はどうした。

少しは自信を持たないか。

人里から離れ、極力人と関わらずに生きてきた吾輩が、このひと月、本当に楽しかったのだ。

……忘れたくとも、忘れられるはずがないではないか」


声を落として漏らした本音は、ヴィスの耳に届いてしまったらしい。

寝ていたはずの体が、のそりと起き上がってきた。

ここまで言っても不安そうに下がった眉を見て、吾輩は呆れてつい笑ってしまった。


……忘れたくとも、忘れられるはずがない。


あの日――差し伸べられた優しさに救われて、いつか恩が返せればと思っていた。

胸にあったのは、純粋な感謝だけだった。

過去をお主が知らないのは仕方がない。

知らなくて当然のことなのだから。

吾輩が勝手に恩を感じ、それを返したいと望んでいただけだった。


なのにお主は、恩を返させてくれるどころか、吾輩に色鮮やかな毎日を与えてくれた。

昔は与えられた部屋にほとんど籠りきりで世間を知らず、今は日が昇り沈むまで自由気ままに過ごしてはいたが、惰性で生きているようなものだった。


ただ流れゆくだけだった時間が、温かく穏やかな面白おかしい日々に変わり、誰かと……ヴィスと過ごす日々を得て初めて、誰かと過ごすことはこれほどまでに心が満たされるものなのだと知った。

人が一人ではなく、友や恋人、家族といった誰かと、望んで連れ添い生きていく理由や意味を理解し、実感した。

これまでの人生の何処を思い返しても、間違いなくこの一ヶ月が一番だと言えよう。

感謝の気持ちだけだった、出会った頃とはまた違う――……お主が、これほどまでに手放し難い存在だというのに。


「本当に?」

「あぁ、本当だとも」

「いつか僕が、またここに遊びに来たいと言っても……君は、許してくれる?」

「何を言う。

許すも何も、ここはもうお主の家のようなものではないか。

また逃げたくなった時、息抜きをしたくなった時、いつだってここに来ればいい」


吾輩は殊更柔らかな笑みを浮かべ、ヴィスの頭を丁寧にゆっくりと撫でた。

気持ちよさげに息を吐いたヴィスは、暫くして寝入ったらしい。

ワンピースを掴んでいた手を布団の中に入れ、寝室を後にする。


「おやすみ、良い夢を」


扉がカチャリと閉まると同時に、堪える必要がなくなった吾輩は、きつく唇を噛み締めながら目元を袖で拭った。


明日のこの時間、ヴィスに何を聞かされようとも、吾輩がヴィスを嫌うことなどありはしない。

寧ろ、知られて恐れられるのは吾輩の方だろう。

語れぬと言った吾輩のことが万が一知れた時、ヴィスから向けられる、柔らかく穏やかな瞳が畏怖に染まるのだろうかと思うと、仮に縛りがなく過去を語れたとしても語るはずもない。


「お主が不安に思うことなどない。

吾輩の方が、余程恐ろしい生き物なのだからな」


ぽすりと扉に(もた)れかかり、天井を見上げた。

リィン……リィン……と今日はずっと耳の奥で、鈴の音が鳴り響いている。

そう警戒せずともよいのにと思うが、警告のように鳴り続けるそれに、何故か胸がざわついた。

いつか吾輩が自らの意思で自身の正体を明かす未来を知っているようだと考えてしまい、頭を振って吾輩は作業机へと向かった。



あまり物音を立てないようにしながら、今あるラベンダーを机の上に乗せた。

瓶に詰める分を取り分け、必要ない分は片付けておく。

この間摘んだ時に暫く吊るしていたおかげで、花はしっかり乾燥していた。

蕾や花弁は揉み解すように落とし、茎は細かく千切って器に入れる。

少しだけオイルを垂らして、ドライフラワーを擂粉木(すりこぎ)で砕きながら混ぜて染み込ませていく。

その工程を何度か繰り返し、吾輩は器に両手を(かざ)した。

普段こんな簡単な作業に詠唱などしないが、こうして気持ちを込める時だけは詠むようにしていた。


「夜に惑う迷い子の (しるべ)となりて導かん

深く長く香り開け 目覚めの日が差し込むまで」


詠み終えると、器の中のラベンダーは濃厚な香りを漂わせ始めた。

香りがきついわけでもないのに、ずるりと睡魔に引き()り込まれそうになる。


「……この量は、ちと吾輩でもくるな」


吾輩は眉間に手を当て、急に重たくなった頭を支えた。

これでは穏やかな眠りではなく、強制的な眠り薬になってしまう。

急いで瓶を取り出し、ラベンダーを詰めていく。

ポプリとしてこのまま置けば、瞬時に寝れることは間違いないが、寝たくない時にでもコロリと眠ってしまいそうだ。


瓶の蓋を閉めてから窓を開き換気をすると、次の作業に取りかかる。

この間ヴィスの服を縫った時の、余った布の切れ端を持ってきて、ちくちくと縫い始める。

右は青色で、左は灰茶色になるよう縫い合わせ、左右を縫い合わせた部分に白いセンターラインが入るよう、白地の布を使って縫っていく。

センターラインは金の糸で縁取りし、裏地に不織布を縫い付けて、くるりとひっくり返す。

しっかりと押さえて綺麗に形を整えたら、紐が通せるよう通し口を作る。

白地の布でリボンを作り、通し口にリボンを通して両端を結ぶと、巾着型のサシェの完成である。


先程ラベンダーで作っていたのは、サシェの中に入れるドライフラワーだ。

袋に入れる分量は大したものではないから、これだけあれば中を入れ替えて使えば、かなり長く持つだろう。

サシェに入れるほどの量であれば、先程の吾輩のように強制眠り薬になることもない。


ドライフラワーを詰めた瓶とサシェを箱に入れようとして、余った布が目に付いた。

また思い付きで作業を始めてしまい、気付けば朝に近い時間になっていた。

街に行きたいと言っておったのに、吾輩が寝ていないと知れば、ヴィスは間違いなく吾輩を少しでも寝かせようとするだろう。

吾輩は瓶からラベンダーのドライフラワーを少しだけ小皿に盛ると、慌ただしくソファへと向かった。

飾り棚に小皿を置いて寝転がる。

今から二時間ほど眠って、それから朝の支度を始めればいい頃合だな……と暗示のように言い聞かせながら、吾輩は瞼を閉じたのだった。



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