29,sideヴィス(過去編)
僕がまだ幼い頃のことだ。
僕が僕が剣の稽古をしている時に、イスティランノが乱入してきたことがあった。
彼に木剣を投げられ、俺と戦えと言われたのだ。
しかし僕は眉を下げ、困惑した顔のまま剣を拾わず、立ち尽くしてしまった。
――それがいけなかったのだろうか。
「何故俺と戦わない!?何故そんな目を向ける!?
父上に認められ愛されているからって、母親にも大切にされているからって、俺を馬鹿にしているのか!?」
イスティランノは僕に向かって吠えるように叫んだ。
けれど僕は、決して馬鹿になどしていなかった。
ただ、哀れんではいた。
イスティランノの境遇にも、己の境遇にも。
そんなイスティランノと、僕は戦いたくなかった。
護衛に掴まれながらも、こちらに向かって喚き散らすイスティランノに困っていると、そこにまさかの父上がやって来たのだ。
父上と目が合い、イスティランノは少しの喜色を見せたが、一瞬の間に、まだ小さな体は父上の平手打ちでふわりと浮き、そのまま地に伏した。
僕は息を止めて、震えながらそれを眺めていた。
イスティランノは頬を抑えながらゆっくりと起き上がると、父上と同じ紅い瞳いっぱいに涙を浮かべ、こちらに憎悪を向けていた。
「それを連れて行け」
そう吐き捨てる時には、既に父上はイスティランノを見ていなかった。
僕は「大丈夫か?可哀想に、震えてしまって」と父上に抱き締められていたが、心はずっと締め付けられたように痛かった。
僕は決して、イスティランノが怖かったから震えているのではなかった。
何も悪いことだと思わず、イスティランノに手を上げた父上が怖かったのだ。
父上の肩越しに見えるイスティランノの瞳は、赤黒く揺れる炎を滾らせて僕を睨み続けていた。
(あの子も、異母兄も……父上の子なのですよ……?)
母上が理不尽に正妃の座を奪われ、今も側妃という立場で苦しんでいることを知っている。
正妃の熟すべき仕事を全て引き受けているというのに、レスノワエ公爵の庇護下にある貴族派の夫人達に、側妃のくせに出しゃばるなとなめられることも多いと聞く。
茶会ではわざと踏まれたり、突き飛ばされそうになることもあるらしい。
しかし、しかしだ。
悪いのは王妃や公爵であって、異母兄のイスティランノではないでしょう……?
父上も、母上も、過去の傷を引き摺って、今でもその傷口は膿み続けているのだろう。
けれど、イスティランノもまた、父上や周囲の言動に傷付き苦しんでいる。
僕は異母兄が立派な人になってくれるのなら、あの人が王太子に選ばれたって構わなかった。
普通であれば、第一王子であり正妃の子である異母兄が、王太子になるのが慣例なのでしょう?
僕は心の中で何度もそう問い続けた。
口にしてはならないと分かっていたから、決して声には出さず、ずっと飲み込み続けていたけれど……その日々がとても苦しかった。
――誰にも傷付いてほしくない。
父上や母上にも傷付いてほしくなかったけれど、僕は……あの日見た異母兄の悲しみと怒りに揺らめく瞳が忘れられなかった。
だから、分かってほしかった。
父上にも、母上にも――兄上にも。
僕は玉座なんて求めていない。
みんなの心が平和であってほしい。
イスティランノもまた父上の子であり、父上と母上にとっては辛いことかもしれないけれど、イスティランノという一人の子供を見てあげることは出来ないのか、と。
争わずに和解出来る未来はないのか、と――そう願い続けた。
僕は大きくなるにつれ、文武共にしっかりと学んでいるのに、国政にだけは全く意欲を出さなかった。
父上からは何度叱られたか分からないけれど、不得手なんですと言って逃げ続けた。
学んではいた。必要ではあるだろうから。
けれどそれ以上を目指そうとも、関わろうともしなかった。
そんな僕の心を、母上だけは分かってくれた。
母上は「辛い目に合わせてしまって、貴方に全てを背負わせてしまってごめんなさい」と、泣いて謝っていた。
そんな母上に一度だけ聞いたことがあった。
「第一王子のことを、受け入れてはあげられないのですか?」と。
母上は悲しそうに俯いて、父上のことを教えてくれた。
父上もまた、彼らへの憎悪と過去を明かすことに囚われ、もう止まることは出来なくなってしまっているのだと母上は言った。
父上の心は、既に壊れてしまっていたのだ。
父上は王太子から国王となって国の頂点に立ち、忙しさに忙殺されながらも、貴族派の一挙一動に神経を尖らせていた。
理不尽な要求や発言も多く、その中にミセラティアを軽んじるものも多かった。
あれだけ仕事を熟してくれているミセラティアを、どうしてお前達が馬鹿にすることが出来るのか。
そんな苦汁を飲まされ続け、父上は過去の行いを暴くことに執念を燃やし続けたのだ。
その結果、過剰に母上と僕、後に産まれた妹のリーヴィアを愛し、王妃と公爵、そしてイスティランノを仇のように敵視した。
同じように父上の血を引いて産まれてきたはずなのに、イスティランノと僕への扱いは正反対だった。
イスティランノがそれを理不尽だと憤ったとしても、何らおかしくなかった。
そして僕が望んでいなくとも、イスティランノはこちらに容赦なく憎悪を向けるようになっていた。
『第二王子が居るから、イスティランノ殿下が愛されないのですよ』
『あいつが居るから、俺は選ばれないのか』
『第二王子さえ居なくなれば、王子が一人になりますからな。
そうすれば自然と、国王陛下もイスティランノ殿下を見てくれるようになりますよ』
そうして公爵や貴族派の言葉に乗せられたイスティランノは、国政に力を入れ始めた。
その会議の場で、僕は十歳にして戦地に放り込まれることが決まった。
『剣術も魔術もご立派な第二王子のことですから、魔獣など容易く倒してくれますな?』
売り言葉に買い言葉だったのか、貴族派に煽られた王族派も、僕が戦場へと向かうことを望んだ。
「みなが御身をお守りしますから、どうか武功を立てて戻られてください」と言われ、拒否権もなく魔獣討伐に向かわされたのだ。
十歳の秋、その年の建国記念式典の約一月前のことだった。
殺したくないなどと弱音を吐いている暇もなく襲われる恐怖に、ただただ僕は剣を振るった。
多くの騎士達に守られながら、戦って、戦って、戦い続けて……僕はぼろぼろになりながら何とか生き延びた。
式典の前に王城に戻れはしたけれど、傷だらけの僕は参加出来なかった。
しかし、大きな成果を上げて戻られたと言って、王族派は貴族派に対して自慢げに語ったらしい。
何としても僕を退けたいレスノワエ公爵は、それから何度も、何度も、僕を魔獣討伐に向かわせるよう扇動した。
イスティランノや公爵が国政で力を伸ばし、貴族派の発言力が強まっていくかと思われたが、僕が死ぬことなく積み重ねた魔獣討伐の功績もあってか、僕を支持する王族派の発言力も弱まることなく、両者は長く拮抗することになった。
しかし、そんな両者にまた波紋を生み出したのはラブシュカ……王妃の存在だった。
これまで国政にもイスティランノにも興味がなかった王妃が、突如動き始めたのだ。
僕が十四歳、イスティランノが十六歳の冬のこと。
王妃の名でイスティランノに肩入れし、国のためという名目で、隣国レイスリーク皇国を攻め落とせと言い始めたのだ。




