21,
ヴィスは拳を固く握りながら、口を引き結んでいる。
リンデンはヴィスの肩からテーブルに降り、ヴィスの顔を心配そうに覗いていた。
吾輩も立ち上がってヴィスの顔を覗き込むように下に回ると、何かを堪えるような沈痛そうな顔で目を伏せていた。
「……大事な奴ではないのか?」
「大事だよ。とても、とてもね。
けれど彼は……アインは、間違いなく僕を連れ戻しに来ているはずだから」
「それはまぁ、そうだろうな」
ヴィスがこの家に来てから四週間。
約一ヶ月もの間、行方を眩ませていたのだ。
アインと呼ばれた青年がこうして探しに来ている時点で、余程心配しているのは間違いないだろう。
そんなヴィスが見付かったとなれば、共に帰ろうとするのは想像に難くない。
「僕はまだ、ここから出る勇気も、向き合う気概もない。
気持ちの整理も何も出来ていないんだ。
それにエルミルシェ殿にもまだ、未だに僕のことを何一つ打ち明けられずに居るのに。
こんな中途半端な気持ちで戻ったとしても、きっとまた先の見えない、不毛な日々が続くだけな気がするんだ」
そう言って立ち竦むヴィスを見て、吾輩はいつかに作ったヴィス用のローブを取ってきて手渡し、その手を引く。
玄関の前で立ち止まり見上げると、ヴィスはまた迷子のような、今にも泣き出しそうな顔で吾輩を見詰めていた。
「追い出したりはせぬよ。
ただ、ここで行かずに、そのアインという青年が山で怪我でもしたら、それこそお主の後悔や憂いが膨らむのではないか?」
「……うん」
「お主が信頼出来ると言った数少ない者なのであれば、お主の言葉にも耳を傾けてくれるんじゃないのか?
勿論お主も一方的に帰りたくないと言うのではなく、そやつの話を聞かねばならんだろうが、二人で話して落とし所を見付けてくればよいではないか」
吾輩は引いていたヴィスの手を両手で握り、指にもぎゅっと力を込めた。
どうすればいいのかと迷うヴィスに喝を入れるように、心を強く持ってもらえるようにと、そんな気持ちも一緒に込めて、その手を包む。
「ほれ、そんな顔をするな。
せっかく友が訪ねてきてくれたのだろう。
仮に逆の立場だったなら、お主は居なくなったそいつのことを心配せんのか?」
「……心配する、凄く。
生きていてって思いながら、ずっと探し歩くと思う」
「そうだろう?
お主にもその気持ちが分かるのなら、まだ共に戻れなくとも、せめて自分は生きていると伝えてきてやらないか」
そう言って、ヴィスを扉の前に立たせた。
吾輩は横に避け、ヴィスがどうするかをただ見ていた。
暫く扉を見詰めていたヴィスは、ぐっと喉を鳴らし息を飲み込んで、そして自らドアノブに手をかけた。
そして少し扉を開くと、眉を下げたままこちらに問いかけてきた。
「僕はまだ、ここに帰ってきてもいいのかな?」
「あぁ、構わぬよ。
居たいだけ居ればいいと言ったではないか」
何を今更と、吾輩は力強く頷きながら笑みを返す。
するとヴィスは泣き出しそうな顔のままくしゃりと笑い、大きく扉を開いて一歩踏み出し、振り返った。
「いってきます」
「あぁ、いってらっしゃい」
朝とは真逆で、今度は吾輩がヴィスを見送る。
次に目が合った紫の瞳に迷いはなく、ヴィスはローブを羽織りながら振り向かずに走り出した。
ヴィスの近くで、案内を頼んだ小鳥達が舞っている。
自然と閉まっていく扉の隙間から、吾輩はヴィスが見えなくなるまでそこに立ち呆けていた。
扉が閉まると、吾輩はリンデンに家を任せて再び裏庭へと戻った。
先程警告を飛ばしてくれた鷹は、変わらず木に留まって吾輩を待っていた。
「知らせをありがとう。助かった。
ただ吾輩は、あやつが自ら話すと決めるその時まで、事情を聞かされたくなくてな。
お前の主が他にも言うべきだと思っていることもあるだろうが、今は全て伏せているようにと伝えてくれ。
知られたくないと言っておる奴の事情を、覗き見るような真似はしたくないのだ」
「……ピィー」
鷹は渋々といった声で『是』と返してきた。
吾輩はふぅと安堵の息を吐くと、鷹が留まっている木に近付いた。
「ただ、手遅れになるような事態だけは避けたい。
あやつが危険に陥った時にだけ、手助けをするか、また知らせに来てはくれないか?」
そう言って、鷹が留まる木の下にとある肉を置いた。
――カエルである。
食料庫に入れておけないそれは、キッチンの床下収納に冷蔵保管されているものだ。
この鷹は滅多なことでは訪れない、バルメクノ山脈を見張り守る役を担っている。
それ故、こうして来てくれたからには、それなりの礼をしなければならない。
鷹はネズミや鳥のヒナも好物だと言うが、ネズミはどうしても山に住む仲間のような意識で見てしまい、ヒナもまた同じく、どうしてもエサのために殺めるのは気が引けてしまった。
結果としてカエルが一番食用らしいか……となったのだ。
こういう時の備蓄として、カエルだけを殺めるのは大変申し訳ないと思うが、吾輩が手にかけずとも、鷹は食物連鎖の通りにネズミもヒナも食っておるだろうし、カエルもきっと同じように食われておるから諦めてくれ……と思うようにしている。
ちなみに薬の材料になると分かれば、吾輩はネズミだろうが鳥のヒナだろうが容赦はせぬので、悲しいかな共存と弱肉強食は紙一重である。
「ピピィーーッ」
「違う、これは知らせに来てくれたことへの礼だ。
今頼んだものへの礼は、あやつが無事帰ってきたらその時に渡すと約束しよう。
吾輩が礼をケチったことなどないだろう?
そこは信用してもらいたいものだがな」
「ピィ」
一度文句の声を上げた鷹だったが、また礼が貰えると分かると『是』と返事をし、大きく翼をはためかせ飛び去っていった。
吾輩は裏庭で一人、澱んだ空を見上げる。
数時間前とは打って変わって、吾輩の心持ちも天候とよく似たものに様変わりしていた。
「山の天気も、吾輩の心も、なんと変わりやすいことか」
ポツリと溢した言葉と共に、頬に一粒、空から雫が降ってきた。
家に帰ってソファで寝転がり丸まってしまいたいと思いながらも、吾輩は中断した作業を再開する。
ゆっくりと、だがしかし確実に、その雨脚は早まって、容赦なく吾輩を濡らしていった。




