2,
「うわあああぁぁっ!!!」
「何……いっ!?」
大きな叫び声が聞こえてきて、吾輩は勢い余って飛び起きたせいで、作業机に足をぶつけた。
どうやら薬を作っている間に、机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。
痛い……地味だが痛いのだこれは。
目尻にじわりと涙が滲むが、そうは言ってられん。
痛む足をズリズリと引き摺りながら、何事かと様子を見に行くと、どうやら青年が目を覚ましたらしい。
……らしいのだが、その顔面にリンデンが大の字に貼り付いていた。
「……リンデン。
お前は何をしているのだ?」
吾輩が声をかけると、リンデンは青年の顔からコロンと剥がれ落ち、急いで肩へと飛び乗ってきた。
「きゅきゅ、きゅきゅきゅう!
きゅ、きゅきゅ……きゅうう……!!」
「あぁ〜〜分かった分かった。
怒っておらんよ、心配してくれたのだな」
ちょいちょいとリンデンを指先でつつくと、リンデンは指にしがみつくように頬をスリスリ擦り付けている。
青年へと顔を向けると、吾輩達のやり取りを呆然と眺める美しい瞳と目が合った。
「あ、あの……」
「あぁ、この子が驚かせたようだな。
お主はこの近くにある小川の側で倒れていたのだよ。
覚えておるか?」
青年は問いかけに、記憶を呼び起こすように視線を彷徨わせた。
「えっ。あ、うん……」
「それを見付けたのがこの子だよ。
吾輩に知らせてくれてな、家まで運ばせてもらった。
まぁ運んでくれたのは別の者だが、それから手当して寝かせておったのだ。
お主を心配して側に居てくれたからな、起きる気配を感じて顔を覗いていたのだろう。
それにお主は驚いたのではないか?」
「えっ、あ……」
何か合点がいったのか、青年はハッとした表情を浮かべた。
吾輩はしっかりと頷く。
「だがまぁ、お主からしたらリスが顔を覗き込んでいるという、不思議な状況に驚くのも無理はない。
驚いて叫んだ声にこの子も驚き、顔に張り付いて声を抑えようとしたらしい。
普通は驚いたら逃げると思うのだが、果敢な子リスですまんな。
しかし……くくくっ、顔にリスを貼り付ける人間なんぞ、初めて見たよ」
「……僕も、リスに起こされるのも、リスが顔に貼り付いたのも初めてのことだよ」
苦笑するように眉を下げる青年の顔色は、連れてきた時よりも随分良くなっているようだ。
近付いて額に手を当てると、青年はビクリと体を震わせたが、されるがままに固まっていた。
「ふむ、熱は随分と下がっておるな。
しかし傷はすぐには治らぬだろうからな、油断は禁物だぞ。
何よりも酷いのは足だろうな。
暫く痛むだろうから、無理に動かしてはならん」
「熱が……下がっている……?」
「なんだ?
あぁ、傷口から入り込んでいたのだろう毒は、吾輩が薬で解毒しておいたぞ」
本当に困ったものだ。
この男は誰かに命を狙われ、毒の塗られた刃物や矢で受けた傷のせいで、差程血は流れていないようだったのに、見た目以上に弱っていた。
つまりこの青年は、命からがら逃げてきた逃亡者ということになる。
本当に面倒事と厄介事の気配しかせんではないか。
まぁそんなわけでこの青年の熱の原因は、傷や怪我というより毒のせいだった。
患部には解毒効果のある塗り薬を、口からは抵抗力を高める茶を飲ませ、様子を見ようと思っていた。
効果は覿面だったらしい。
「き、君は……一体?」
「吾輩か?
吾輩はエルミルシェ。
ここで暮らしている薬師だよ」
「エルミルシェ嬢、その」
「あぁ、やめてくれ。
その『エルミルシェ嬢』というのは。
しがない薬師にそのような敬称は不要だ」
吾輩は鳥肌が立つと言わんばかりに、両腕を摩った。
だが、青年はその返事に困ってしまったらしい。
「僕はその……恩人を呼び捨てにすることなんて出来ないよ」
「ふぅむ、律儀な奴だな。
『ちゃん』と言われるのもむず痒いし、吾輩の見た目的に『さん』というのも何だかな……。
それならせめて、嬢よりも殿の方がよいな。
その方がまだ性に合っている」
「エルミルシェ殿……でいいかな?
僕は……ヴィスという。
ところで、ここは山の麓なのかい?
さっき、僕を運んでくれた者が居ると言っていたね?
ご家族の方だろうか。
挨拶をさせてほしいのだけれど」
矢継ぎ早の質問に、吾輩とリンデンは顔を見合せた。
吾輩はヴィスの質問に答えながら、包帯を取っていく。
「くくくっ。
まぁ、そう思うだろうな。
この山には魔獣は少ないとはいえ、獰猛な動物達が多く生息しているからな。
吾輩のような小さな娘が住める環境ではないから、山の麓だろうと思ったのだろうが、ここはバルメクノ山脈の山奥だぞ。
ちゃあんとそれなりに山奥まで逃げられておるから、安心するといい。
ただ、家族は居らぬし、ここには吾輩一人と、この子リスのリンデンだけだがな」
「そんな、まさか」
「信じられぬとも構わぬよ。
しかしだ。
誰かがこの家に住んでいると言うのなら、そのうち鉢合わせて知れることだ。
そんな程度の低い嘘など、吾輩は吐かん」
全ての包帯を取り終えると、ヴィスにタオルを数枚渡した。
ヴィスは首を傾げている。
「お主、髪も体も、汗や泥でドロドロなのだよ。
洗ってきた方がよいだろう?
傷に沁みるだろうが、早く治すためにも体は清潔にした方がいい。
風呂には浸かるか?」
「いや……それはまだ辛いかもしれない」
「それもそうか。
ならせめて綺麗に洗ってきてはどうだ?」
「ありがとう。
ところで……どうしてこんなに沢山のタオルを?」
ヴィスの手には大きいものが二枚、小さいものが三枚と、計五枚のタオルが乗せられている。
風呂に行くだけにしては確かに多い。
「言っただろう?
吾が家には吾輩しか居らぬのだ。
貸せるような服は一枚とてないのだよ。
どう見ても五十センチくらいは身長差があるだろう?
吾輩の服をお主が着たら、はち切れてしまうわ。
お主の風呂の間に服は洗っておくが、乾くまではタオルで我慢してくれ」
「あぁ……なるほど、そうか」
ヴィスは起き上がろうとして、ぎゅっと顔を歪めた。
まだ傷は痛むだろうし、何より片足を捻挫しているのだから歩くのが辛くて当然だ。
吾輩は支えるようにヴィスに寄り添い、杖代わりになってやる。
「重ね重ね、すまない」
「いや、怪我人であり病人なのだから致し方あるまい。
お主は早く体を治すことだけを考えていればよいのだ」
ゆっくりと支えながら歩いていると、頭上からくすりと笑う声が聞こえてきた。
思わず目だけ視線を上げる。
「エルミルシェ殿は不思議だね。
まだ幼いのに、とてもしっかりしていて驚かされる」
「……さぁ、着いたぞ。
風呂の使い方は分かるな?
流石に風呂の手伝いはしてやれぬぞ」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
「風呂場は滑りやすい。
足元に気を付けて、ゆっくり温まってくるといい」
ヴィスを脱衣所まで連れて行き、扉を閉める。
暫く扉の前で待っていると、中からシャワーの音がし始めた。
脱衣所の扉をノックしても返事がないので、浴室に入っているようだ。
サッと脱衣所に入って服を回収し、表の庭で洗濯をする。
「この服……いくらくらいするのだ?
布の質感が良すぎる。
刺繍や装飾も凝っている上に上品だし……。
いいところのお坊ちゃんだろうとは思ったが、本当に上位貴族や王族に近しい人間じゃないだろうな」
吾輩は過去を思い出し、濡れた手のまま胸元を掴む。
あっと思った頃には、洗剤入りの水が服へと染み込んでしまっていた。
「……仕方がない。
吾輩も服を替えるか」
着ていたワンピースを脱ぎ捨て、ヴィスの服と共に桶に沈める。
いつもなら下着姿のままでも気にしないが、ヴィスが風呂から出てくることも考え、吾輩は先に服を着ることにした。