15,sideヴィス
たった二週間一緒に居ただけの相手のことなのに、話してほしいと心の何処かで思っていた自分に少し驚く。
けれど、話せないことに理由があると知れただけで、こんなにも安堵する自分がもっとおかしくて、とても不思議な心地だった。
話せないことを嘘偽りなく言ってくれている。
それだけで十分な気がして、僕は静かに頷いた。
「うん、分かったよ」
――エルミルシェ殿なら、必要であれば言ってくれる。
今正に本人からそう言われたけれど、話せることはきっと全て話してくれていると、僕自身もそんな気がしていた。
だから僕は何も聞かなかったのだろう。
この短い間に、僕は一体この子の何をこれほど信頼したのだろうか。
「だが、お主の言えぬことは、吾輩と同じではないな?」
「そう……だね。
僕の、覚悟が足りないせい……かな」
僕は言葉を詰まらせながら答えた。
エルミルシェ殿に『僕』を知られて、態度が変わってしまうのが怖い。
こんな小さな子に、僕の危険を背負わせることが怖い。
いつか離れなくてはいけないと分かっているのに、僕が『僕』を打ち明けることで、この日々が終わってしまう……そんな気がして、ずっと言葉に出来ずにいる。
唇をきつく結んでいると、前に座ったエルミルシェ殿がふっと軽く笑った。
「覚悟、か。
それを言うなら、吾輩も約束を違える覚悟を持てば、言える気がしなくもないな?」
「僕は誰かと約束をしているわけではないよ。
僕の言葉でそんな覚悟を持たないで」
「くくくっ。
お主の言う覚悟がどんなものかは知らぬがな」
じとりとした目を向けると、エルミルシェ殿はニヤニヤと揶揄うように笑っていた。
そして一度言葉を区切ってお茶を一口飲むと、徐に椅子に登ってテーブルに膝を投げ出した。
「言いたくないなら、言わずともよい。
言いたいと思ったなら、言えばよい。
聞いてほしいと言うのなら、いつだって聞いてやろう。
それで吾輩がお主に何かしてやれるのかは分からぬが、支えてやれることなら支えてやろう。
叱らねばならぬことなら叱ってやろう。
吾輩は決して、お主を見捨てたりせぬ」
「える……みるしぇ…どの……?」
いつの日かのように、エルミルシェ殿が頭を撫でてくる。
机の上に乗ってはいけないとか、なんでそんなに優しいんだとか、色々と言いたいことはあるけれど、ワンピースの裾が捲れ上がって、可愛らしい膝小僧が出ているのは見なかったことにする。
視線を横に流すと、リンデンはテーブルの上で丸くなっていた。
本当に寝ているのか、聞き耳を立てているのかは分からないが、敏い子リスは空気に徹してくれるらしい。
「その髪を見て、多少気付くものはある。
とはいえ、お主がどれくらいの立ち位置なのかなど、詳細は知らぬがな?
敵味方が分からぬ中で生きる日々は、辛く苦しかっただろう。
吾輩にも……分かるよ」
最後、囁くような声でエルミルシェ殿は共感を示した。
「エルミルシェ殿も?」
「あぁ。
多くは語れぬが、過去、大切だと思い尽くした者は、吾輩を都合のいい道具としか思っていなかったのだ。
全てを悟った時には、何もかもが遅かったよ。
仲間だと思っていた者達も、誰も彼も、吾輩を悪だと決め付けていてな。
見事に切り捨てられてしまった」
エルミルシェ殿へと視線を向けると、遠くを見詰めながらあの時のような昏い瞳をしていた。
こんな幼い子の身に、一体何があったというのか。
――だからこうして一人、山奥で暮らしているの?
僕はその疑問を口には出さず、静かに頷いた。
「全てを恨んだ。
全てを滅ぼしてやりたいと思った。
烈火の如く滾る感情の赴くまま、どうしてやればこの心が晴れるだろうと、それだけに囚われていた。
だが……ボロボロの吾輩の手を取り、ただただ謝ってくれた者が居たのだ。
その時、吾輩を見ていてくれた者も居たのだと、人がみな悪しき心を持っているのではないのだと、知ることが出来た。
吾輩の心は、その者のおかげで救われたのだ。
――お主はどうだ?
ここに来るまでにお主を支えてくれた者や、助けてくれた者は居なかったか?
お主は一人だったか?」
そう聞かれて思い出すのは、あの日あの時、懸命に僕を守ろうと刺客の前に立ちはだかってくれた、騎士達と護衛の姿だった。
護衛はともかく、騎士達は僕にとって信用の置ける人達ではなかった。
まず、騎士達の中に敵が紛れ込んでいる可能性があった。
人数が多く、怪我や病気での入れ替わりも多いため、味方のフリをして近付いてくる者は少なくない。
特にここ数年、騎士のフリをした暗殺者が入り込んでいたり、本物の騎士が暗殺者になることも多く、そういう奴は討伐中、どさくさに紛れてこちらを狙ってきた。
共に行動している騎士達はそれを理解しているので、討伐中に余裕があれば拘束、なければ魔獣討伐での戦死者ということにしてしまう。
捕らえて罪を償わせたいだとか、出来れば殺したくないだとか、色々思うことはあるけれど、魔獣と戦っている最中にそんなことは言ってられないし、変わりにこの命を捧げてやる気はない。
仕方ないと言い聞かせて対処してきた。
次に、味方であったとしても、本人や家の希望、その方針によって僕に求めてくるものが違う。
僕はそんなことを望んでいないのに、勝手に担ぎ上げたり、僕の気持ちはこうだと的外れな代弁をしたりする者が居る。
そんな者達に胸の内を話したところで、受け入れられるはずもない。
彼らは僕の薬になりたいのだろうけれど、過ぎれば毒だ。
こちらにも表面的な対応しかしてこなかった。
そして、味方だと思っていた者が裏切ることもある。
それは家のためか金のためか名誉のためか……きっと理由は様々なのだろう。
幼い頃は傷付いていたけれど、今ではそういうものだと慣れてしまった。
そんなことがあって、僕にとって騎士達は決して心から信用出来る者達ではなかった。
けれどあの時、騎士達は僕の護衛と共に、僕の命のために必死で戦ってくれていた。
一括りにして騎士達と思ってきたけれど、彼らの中には僕の気持ちを察して、そっとしておいてくれた者も居たに違いない。
彼らは……あの後どうなってしまったのだろう。
それにエルミルシェ殿と違って、僕には家族が居る。
会えなくとも心配してくれる家族が……。
僕は自分の境遇を決して良いとは思っていなかったけれど、それでもずっと一人ではなかった。
家族も、ずっと護衛をしてくれていた者も、騎士達も居てくれた。
そう気付いてしまい、いつの間にか目に溜まった大きな粒が溢れ落ちた。
そんな僕を見て、行儀が悪いどころではないけれど、エルミルシェ殿はテーブルに座って、僕の頭を抱き締めた。
「う…ぁ……っ」
「誰が味方なのか、味方だと信じた中に敵は混じってはいないか。
猜疑心を抱き続けなければならぬ日々を過ごしては、身も心も疲れて当然だっただろう。
だが、決して忘れてはならぬ。
お主は一人ではない。
お主の味方となる者は、必ず居るのだ。
少なくとも吾輩は、お主が何者であろうとも見捨てはしない。
ここに居続けたいならそうすればいい。
この二週間と変わらぬ、ゆったりとした生活が続くだけだ。
だが、もしいつか話したくなったなら、前を向けるようになり出ていくことを決めたなら、いつでも吾輩に言えばいい。
お主が何かに悩んでいると言うのなら、どうすれば解決するのか、一緒に考えればよいではないか。
お主は決して、一人ではないんだ」
「……ありがとう、ありがとう……エルミルシェ殿」
それからどれほどそうしていただろうか。
突然エルミルシェ殿が猫のように跳ね上がったと思ったら、慌ててテーブルから飛び降りて「風呂の湯を出しっぱなしだ!」と走っていった。
本当に猫のような駆けっぷりに、潤んだ瞳を拭いながらくすりと笑ってしまう。
突然の大きな音に驚いてリンデンが飛び起きていたけれど、暫くするとまた丸まって寝始めた。
離れてしまった温かさを思い、自分の頭をそっと撫でる。
『吾輩は、お主が何者であろうとも見捨てはしない』
その真っ直ぐな言葉を、これまでの僕であればきっと信じることが出来なかっただろう。
けれど……エルミルシェ殿の言葉は、僕の胸にすとんと収まってしまった。
(君はいとも容易く、そう言ってしまうんだね)
それは『僕』を知らないせいかもしれない。
実際に『僕』を知れば、離れていくのかもしれない。
けれど、信じてみたかった。
(そういえば、エルミルシェ殿を傷付けた愚かな奴は、何処のどいつなんだろう?
エルミルシェ殿の心を救った人は、何処の誰なんだろう?)
ふつふつと湧き上がる、仄暗い感情。
エルミルシェ殿の、あの澄んだ琥珀色を濁らせるなんて。
そして、そんな傷付いたエルミルシェ殿の心を照らした人が居るなんて。
許せない。仇を取ってあげたい。ずるい。羨ましい。
言葉になっては形を成さずに消えていく、この湧き上がってくる感情は――一体何なのだろう。




