14,sideヴィス
「今日は久々の遠出に、活気ある人並みを練り歩いたのだ。
しかも大狼に騎乗しての山の往復は相当疲れただろう。
早く休むのだぞ」
帰宅してすぐ、声色と口調を元に戻したエルミルシェ殿は、ネラの姿のまま湯船に湯を張りに行った。
その小さな背に、少し哀愁を感じるのは何故だろうか。
最初は子供らしいフリをしているのだと思っていた。
しかし途中から違和感を覚え、市場での空元気のような様子に、僕は気付いていないふりをした。
そして、露店の店主と話しながら視線を動かした時、そこには僕を見ているようで見ていない、昏い瞳があった。
薬屋のホンザというお爺さんと話していた時はとても嬉しそうにしていたし、布屋ではイキイキと値下げ交渉をしているところを見てしまった。
店員が可哀想だったので、少し割り込んでしまったくらいだ。
けれど、その後からだ。
少し様子が変わったのは。
僕が下着や鞍を選んでいても市場を見ていても、エルミルシェ殿は終始楽しそうにしていた。
だが、僕が視線をずらした時や繋いだ手から、時折空気が変わるような感覚があったのだ。
――多分、きっかけは僕の話したことだろう。
魔獣討伐にまで行っていることは、エルミルシェ殿には話していなかった。
きっと心配させてしまうだけだから、そこまで話さなくてもいいかと思って黙っていたのだ。
僕が地方遠征に行っていたと言ったことで、察しのいいエルミルシェ殿は気付いただろう。
僕のことを話したのは、街の空気に浮かれていたのもあるけれど、エルミルシェ殿なら僕の境遇や話に心を痛めてくれはしても、それで何か態度が変わるとは思えなかったからだ。
普段の彼女であれば、なんでもないように助言をしたり、気にするなと言いそうじゃないか。
――まさかあんな表情をさせてしまうなんて、予想していなかった。
あの瞳は……一体何を映していたのだろう。
浴室から戻ってきたエルミルシェ殿の肩にはリンデンが乗っていて、ウィッグは既に外されていた。
櫛で髪を梳いてきたのだろうが、ウィッグを被っていたせいで変な癖が残ってしまった髪は、いつもの艶やかさを失った代わりに、ふわふわモサモサと膨れ上がっていた。
リンデンのしっぽが膨らんだ時のようで、とても可愛らしい。
肩に乗っているリンデンのしっぽとお揃いのようだ。
当の本人は何も気にしていないみたいだけれど。
「湯が沸いたら先に入れ。
洗髪剤できっちり洗うようにな。
手間でないなら、二度洗いした方がよいかもしれん」
「ありがとう、そうするよ」
いつもと変わらない態度で、エルミルシェ殿はキッチンへと向かっていく。
「茶を入れるが、お主も飲むか?」
「お願いしてもいいかい?」
「一人分も二人分も変わらぬわ。
少し待っておれ」
お茶の準備をし始めたエルミルシェ殿を見て、僕は少し小さく狭い椅子に腰かける。
もう慣れたものだ。
ここに来て二週間。
たった二週間だというのに、僕の生活は一転した。
魔獣を屠るために馬で駆け回り、敵味方の判断が出来ない者達に囲まれ、気の休まらない日々を過ごしていた僕にとって、ここは『自由』そのものだった。
エルミルシェ殿は、僕が日がな一日ベッドやソファで寛いでいても、きっと何も言わないだろうな。
「牛になるぞ」みたいな、揶揄うような小言は言うかもしれないけれど。
僕には決まった婚約者が居ない。
婚約者筆頭だと言っている令嬢は居たけれど、僕の婚約者候補の中で一番身分が高いだけで、何を言っているのだろうと放置した。
その娘自身にもその親や家柄にも、何の価値も感じないというのに。
そうして決める気もなく、のらりくらりと躱し続けていたら、気付けば二十歳になってしまっていた。
婚約者候補達は選ばれないことに見切りを付けたのか、どんどん数を減らしていった。
さっき言った婚約者筆頭の令嬢や数人はしぶとく残っているらしく、臣下達は早く婚約者をと気を揉んでいる。
しかし、よく考えてみてほしい。
そもそも僕の婚約者なんかに選ばれたら、途端に身の危険に晒されることになるじゃないか。
危険を背負う覚悟もなく、僕の見た目なのか、僕の持つ地位や権力なのか、そういったものに短絡的に擦り寄ろうと囀る令嬢達も、その親達も、全てが疎ましくずっと遠ざけてきた。
だから――。
胸の内を晒すなら、エルミルシェ殿が婚約者になってくれれば……と、この二週間で何度かそう思うことがあった。
決して幼女趣味ではないとだけ断言しておく。
言葉を交わせば、豊富な知識や柔軟な発想を返してくれて、如何に自分の視野がまだまだ狭く、未熟かを実感させられた。
あんな小さな女の子にだ。
きっとエルミルシェ殿は真の天才なのだろうね。
そして何より、僕に多くを求めない彼女との距離が、深く追求されることなく、ありのままで居させてくれる空気が、とても心地良くて手放し難くなってしまった。
本当は早く戻るべきだというのに、まだ大丈夫だろうと、心の整理のためだからと言い訳をして、僕は未だここに居座り続けている。
僕とエルミルシェ殿だと年の差は、彼女を十歳と仮定すると、それと同じくらいは離れているだろう。
年回りは近くないが、大人であれば特に気にしない年齢差だ。
正直に、僕は恋愛なんて一切分からないし、令嬢達にいい感情を抱いたこともない。
だから、エルミルシェ殿に好意的な気持ちが芽生えた時、誓って幼女趣味というわけではなく、エルミルシェ殿の人柄に惹かれているのだろうなと思った。
僕にとってのエルミルシェ殿は、暗い闇を柔らかく照らしてくれる月のようだ。
太陽のように眩しすぎず、闇を闇のまま受け入れて包んでくれるような、そんな少女。
幼い子供にこんな感情を抱くのも不思議なものだが、敬愛という言葉がぴたりと当て嵌った。
恋愛とは違うのかもしれないけれど、エルミルシェ殿と並んで人生を歩めたなら、きっと穏やかで楽しい日々が過ごせる――……。
そう思うほどには、この短期間であの小さな少女を慕っていた。
(夢物語でしかないけどね。
それに万に一つ、エルミルシェ殿を婚約者にしてもいいと認められたとしても、今度は僕の覚悟が足りないかな)
だって、もしも僕の婚約者に選ばれたせいで、エルミルシェ殿が傷付けられることがあったら。
僕は――。
「ほれ、茶が出来たぞ」
「……!
あ、ありがとう」
僕は深く考え過ぎて、エルミルシェ殿がこちらに来たことにも気付かなかったらしい。
この家では警戒心が薄れ過ぎている自覚はあったけれど、自分がここまで無防備になれるのだなぁと、ある意味感心する。
エルミルシェ殿の肩から飛び降りたリンデンは、華麗にテーブルへと着地し、口に入れている何かをもごもごさせていた。
そんな視界に差し出された、ふわりと香るカモミールとラベンダーのお茶。
心安らぐ香りに自然と手が伸び、カップを取り口に含んだ。
「――甘い。
甘くて、美味しい……」
「そうだろう。
吾輩自慢の蜂蜜も入れてやったのだ。
これを飲んだら風呂で温まって、ゆっくり休むといい」
あぁ……やめてくれ。
こんな風に優しくしないでよ。
人前では見せてはいけないと、そうしていつしか失ってしまったものが溢れてきそうで、鼻の奥がツンとした。
俯きがちに、ぎこちない笑顔を作ってお茶を眺めていると、ふっとエルミルシェ殿が笑った気がして、顔を上げる。
彼女は僕と似た、伏し目がちな歪んだ笑みを浮かべていた。
「――吾輩達は、何処か似ておるのかもしらんな」
「え……?」
「お主も色々と言えぬことがあるのだろう?
吾輩もそうなのだ。
言いたくても言えぬことがある。
だからお主は吾輩のことを聞かぬし、吾輩もお主のことを聞かぬ」
確かにそうだ。
僕もエルミルシェ殿について、気になることは沢山ある。
だって、おかしいだろう?
十歳程の少女が、こんな危険な山奥に一人で暮らすことを選択するなんて、何が起こればそんなことになる?
エルミルシェ殿の人格に問題があるようには思えない。
……人を揶揄うのが好きというくらいは、さして問題にはならないはずだ。
聞きたいと、思うこともある。
けれど――。
「だから、先に言っておくことにするよ。
吾輩は吾輩のことを、お主に……というよりも、誰にも話せんのだ。
ある約束があってね。
それを破ることになる故、言えぬのだよ。
話せることは嘘偽りなく話すが、言えぬことがあるということを、知っておいてほしい」
エルミルシェ殿は正面の椅子に腰かけながら、真っ直ぐな言葉でそう言った。
いつか湯気のようにふわりと消えてしまいそうな、そんな彼女の儚い笑顔が、僕の胸を酷く締め付けた。
 




