第1話『遅番、通り魔、暴走車』
東京都下、北多摩地域の片隅で。
多摩都市モノレール先頭車両のフロントガラス越しに、遠くを落ちる光が一瞬見えて、流れ星かな? 彼女は思った。
夜の十時近くで乗客もまばらな車内では、美しくも瞬間的なその白い光に気づいた人は、ほかにいないようだった。自動運転なので運転手も車掌もいない。
めがね越しの貴重な光景をまぶたに焼きつけ、うーん、得したね。と感慨にふけっているうちに、モノレールは終着駅へ着く。
もし彼女がすぐさま手元のスマホでSNSの検索をかけていたら、その流れ星が予想外に近所へ落下して、大きな衝突音で周辺住人を騒がせていることを知っただろう。
沙坂 那渡は多摩モノレール終点・上北台駅の三階ホームから階段を降り、帰り道を急ぐ。
26歳にして那渡は昨年末、新米書店員となった。会社員だった前職と比べて仕事はとても楽しいが、遅番シフトの帰宅はいやなものだ。
身長は180cm近い彼女だが、肩幅も狭くひょろりとした薄っぺらな体格では、防犯上こころもとない。
短くカットして毛先があちこち跳ね上がった髪の下には、頬の丸い童顔にオーバルめがね。不本意ながら、軟弱な印象を持たれることが多い見た目だ。
斜め掛けにしたショルダーバッグのベルトを両手で握り、自然と早歩きになる。
自宅アパートは駅から徒歩で10分だ。なるべく明るい場所を選んで急いだ。
途中の交差点を渡るとき、二月下旬の冷たい風が吹いた拍子に、視界の端に小さな白い影が映った。
路面を滑るその影が、スピード超過ぎみのトラックと交差するのが見えて、那渡はぞくっと振り向いた。
なにかにぶつかった音も立てず、トラックは素通りしていった。
あとには白いビニール袋が、風に巻き込まれて舞っているだけだった。
それを白猫のように錯覚したのは、那渡にとってただの偶然ではない。
(すい……)
中学のころからずっと一緒で、前職の転勤のときには実家に残すしかなくて、この冬の始めに、過ぎ去っていった白い猫。〝すい〟という名前の、大切な女の子。
ふとしたことで、何度も思い出してしまう。
虚をつかれて彼女のことが頭をめぐり、その場に固まっていた那渡は、はたと我に返った。
(――しっかりしろよ、ぼく)
胸を締めつける思いを振り払い、寒気にコートの前を合わせ、自宅へ歩みを進めようとした、そのとき。
なにかの音が、聴こえた気がした。風を切るような音。
なにかの匂いがした。生臭い血の匂い。
不審に思って辺りを見回しても、そのなにかは視界に入らない。
那渡の背後に、降り立つものがあった。べたりと、裸足で路面を叩く音が鳴る。
振り向くと、大柄な男がいた。身長も体格も那渡以上の、半裸の男だ。
「ひっ……!」
那渡の喉から、引きつった声が漏れた。びっくりして倒れ、尻餅をついてしまった。
見上げると、その男と目が合った。
街灯が上から男を照らし、逆光でよく見えないが、自分と同年代だろうか。
伸びた白っぽい髪。ゆるくうねっているのが、ゴールデンレトリバーの毛並みを思わせた。
髪の隙間から、男の片眼が覗いていた。
昏い瞳だ。感情が読み取れない。深い穴のように、ただただ黒い。
濃厚な血の臭気。
(これって、通り魔……?)
那渡は逃げることも、叫ぶことも忘れていた。
男が片腕を振り上げた。
五指を鉤爪のように立てた手が自分を狙っていると、那渡は理解した。
その手に込められた力は、人の肉体など易々と引き千切ってしまいそうだ。
現実離れした想像だが、その恐怖は確信をともなっていた。
暴力の矛先を向けられて身がすくみ、危険を感じても、抵抗ひとつできない。
だが次の瞬間、急カーブを曲がるタイヤの音と、クラクションが夜の交差点に響いた。
「は?」
突如として現れた乗用車のヘッドライトが、那渡と半裸の男を照らす。
(……轢かれる!)
まっすぐに迫る車の脅威が、未知の恐怖を相殺した。金縛りが解けて、とっさに那渡は後ろへ這って逃げた。
ドカッ! と、背後から、乗用車と人の激突音がした。
*主人公・那渡は猫好き。一人称は〝ぼく〟。
*地名・駅名は実在表記を採用します。もし気になったらマップを調べてみてくだしゃんせ。
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