父の呟き
初投稿です。
とても拙い文章ですが、温かい目で見ていただけると嬉しいです。
ここに来て、どのくらいの時が経っただろう?
曲がった腰を伸ばし、ふぅ、と息をつく。
「よし、ここも問題無しだな。」
年季の入ったボイラーを眺めてひとり言葉がもれる。
今日の予約は確か、8組だったか?
ありがたい事に、客足は多くはないものの、途切れる事なく続いている。
お陰で日々、食うに困ることはないし、
子供たちの学費やなんかも無理なく捻出出来ている。
最初、ここに来た時は貨幣価値の違いにずいぶん苦労したものだ。
いや、それだけじゃない。
あらゆる価値観、倫理観、生活における考え方がまるで違い、それを飲み込むのにどれほどの努力が必要だったか。
思わず感慨に耽ってしまい、はたと我に返った。
「いけねぇ。」
客を迎える準備はまだまだこれからだ。ぼーっとしている暇はない。
額の汗を首にかけたタオルで拭い、
俺はボイラー室を出た。
涼しい風が、すっかり慣れた黒い髪を撫でていく。
それを心地良く感じながら歩けば、
ちょうど帰ってきた軽トラックが目に入ってきた。
つい、早足になる俺に気がつき、軽トラックは慌てたように裏口側に停車する。
「ちょっと!危ないから走って来ちゃダメって、何回言ったらわかるの!」
全開の窓から自分と同じ黒髪の女が叱った。
「わりぃわりぃ。お前が帰って来たと思ったらつい、な。」
苦笑しながらそういえば、途端に顔を赤くして視線を逸らした。
かわいい。
いくつになっても俺の愛情表現にすぐに照れる妻。
そんな妻を見て、ここに来たのは間違いではなかったと再確認する。
軽トラックのドアを開けて、手を差し伸べ、ハンドルに乗せられていたその手をそっと取った。
「……軽トラから降りるのに、エスコートって…無いわー。」
呆れたように呟くが、拒否することなく俺のエスコートを受けてくれた。
「まあ、なんだ。クセみたいなもんだよな。馬車の時ほど、サマにはならねぇが。」
最初は俺のこういう行動に戸惑っていた妻も、今では慣れたもので、貴族のそれと遜色ない仕草で車を降りた。
「農協で山岡さんに会ってね。トマト分けてもらったの!今日は献立に冷やしトマト追加するわ!」
どこか照れ臭いような場の雰囲気を変えるように妻はそう言って荷台から大振りのトマトを取り出した。
「こりゃ立派なトマトだ。美味そうだな。」
近所で畑をやっている人の良い老人の顔を思い浮かべながらトマトを手に取る。
何気ない日々。
穏やかな周囲の人間。
愛しい家族。
当たり前に思えるそれらに、深く感謝する。
ここでは魔獣を恐れる事もない。
面倒な貴族のしがらみもない。
俺は、自由だ。